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 戸嶋がコーポ・峰山に越してきて、二週間が過ぎ去り、二度めのホームヘルパー支援の日を終えた戸嶋は、この部屋についてとある確信に至る。

 この部屋は、異常だ。最初は新しい環境に馴染むことができない精神的なストレスによる、心身の異常だと思いこむようにしていたが、今となってはっきりと「この部屋そのものがおかしい」と自覚できるようになる。


 ホームヘルパーの支援日、というよりも戸嶋以外の誰かがこの部屋にいると、必ずそれは現れる。

 相変わらず玄関側から見て、右側の壁をノックする真っ黒い人型のなにか。最初に意識がはっきりした状態でそれを見たのも、ヘルパーである今西が来たときである。

 尤も、悪夢という形でそれを認識したのは入居した当日からであり、気味の悪さこそ覚えていたが、それが現実に歩み寄ってきたのは日中に存在を知覚してからである。

 統合失調症の幻覚だろう、最初はそう思った。いや思おうとしたという言い方がより正しい。自分の見ている光景が信じられなくて、「新しい幻覚症状の類であろう」という思いは徐々に、脆く崩れていく。

 少なくとも戸嶋は、統合失調症と六年の付き合いになる。元々急激に悪化し、急激に回復する急性期の統合失調症ということもあったため、症状の多様性については感知するものではない。しかし、幻覚というには、ここで経験するものは「頭の外側」で起こりすぎている。

 本来、頭の中で生じたものがリアルになっていく統合失調症の幻覚とは明らか違う存在。あの人型には、意味も、存在の明瞭さも、悪意すらも存在しない。ただそこにあり続けているだけであり、いわば「壁を叩くだけの存在」でしかないというのが、戸嶋の結論だった。時々、人型がこちらを見てけらけらとほくそ笑んでいるように見えるのは、恐らく自分の妄想の類のものだろう。


 問題は、自身が住んでいるアパートに異常があるということだけではない。戸嶋は感じていた。このアパートで暮らすようになってから、今まで戸嶋を苛んできたものとは全く違う異形の存在により、症状が進行し始めているということを。

 数多の悪夢を経験した戸嶋は、何もないところでも頭の中で「ノックの音」が鳴り響くようになり、壁を叩く鈍い音がリアルな質感で聞こえてくるようになっていた。これはまるっきり自分の幻聴であり、この部屋に存在する「なにか」によってもたらされたものではないだろう。

 しかしそこすらもはっきりとした確証が持てない。

 戸嶋が正常に自身の幻聴や妄想の症状を、現実と分断して判断できるのは、「自分が今健康な状態であるから」というところが大きい。現時点の自分の状態をはっきりと「正常である」と理解することができるから、音を比較していくことで正常か否かを判断している。

 一方でノック音は、悪夢と日中どちらも聞こえるようになっていた。夜中の悪夢の際に生じるノック音の識別はまだ容易いが、人がいる中で、人型とともに生じるノック音は、確実に「幻聴であるか」、「部屋によるものか」を識別することは難しい。確証の得られない中で、幻聴と現実を区別するのは感覚頼りの判断になるし、それがある程度の正確性を持っているという確実性は存在しない。


 一見関係のない話かもしれないが、戸嶋にとって目の前で生じている無数の怪異の出処は、「精神の拠り所「という上で明確である必要があった。

 統合失調症という病がそれを齎すのか、戸嶋はとにかく曖昧な出来事に耐えられないという、心理的な特徴があり、それは小さい時から自覚していた。

 そのため原因が「自分なのか」「部屋なのか」ということをしっかりと理解し自分の中で区分することは、戸嶋自身の安定を図る上でも意味深い事になっている。むしろそれを明確にすることで、「この部屋は異常じゃない」、「自分は異常じゃない」と思う指針となっているようだった。


 一度でも、部屋の異常性を気取ってしまうと、意識がそちらに向いてしまう。

 当たり障りのないことでも、「この部屋がおかしい」という思考の結びつきに至るだろう。細かな家鳴りすら、何かの怪異の唸り声に聞こえてくる。頭では理解していながら、感情が神経に触れておかしな方向へ向いてしまうのが統合失調症である。それを考えると、認識の危険性を肌で感じられた。

 本当は独りでこの部屋にいるのは気持ちいいものではない。極端な怪異が犇めくことは少ないが、それでも「何かがいるのではないか」と思う部屋で過ごすのは気が引ける。

 その一方で室内に他の誰かが入り込むと、一斉に動き出す「なにか」の気配に鼓動を鳴らされる。嫌な二律背反が背中を擦り続けていて、今日もその感覚に咽ばされる。

 

 戸嶋はちらりと時計を一瞥する。

 午後一時を指そうとしている時計の針を見ると、一瞬時間が遅れたような感覚を抱く。時計を見れば妙に圧縮された時間を感じることになるが、その数刻後にチャイムが鳴った。

 今日は戸嶋の担当相談員である竹澤の訪問日である。竹澤は、戸嶋の実家が担当区域となっている障害関係の相談員だ。戸嶋が自身の異常、統合失調症を感じて初めて相談をした人物でもあり、彼が病院に繋げてくれた、戸嶋にとっても恩人と言える人物である。

 今日の訪問理由はストレートに「新しい環境で馴染むことができているか」というもので、引っ越しをしてきて初めての訪問となる。

 戸嶋は今日、竹澤がやってくることは知っていた。知っていた上で、この部屋での生活をどう表現しようか悩んでおり、ストレートに表現していいのか、それとも当たり障りのないものにとどめたほうが良いのか。迫ってくる問いかけに戸嶋は答えを持ち合わせることなく、インターホンに応える。


「相談支援事業所、つみきの竹澤です。戸嶋さんお元気ですか?」


 玄関先には、穏やかな調子で頭を下げる竹澤がいた。ひとまず彼に小さく会釈をして「お世話になっております」とだけ返すも、どうしても態度を探るような視線を這わせてしまう。

 竹澤に不自然な様子は見られず、自然と警戒心は緩むものの、もう既に六年以上の付き合いであることを考えるに、些細な変化は今西以上に見抜いているであろう。ひとまず中に上がってもらい、適当にお茶を準備をしてダイニングに座ってもらう。


 一方の竹澤は、遠慮するような仕草で頭を下げて椅子に座り、今西と同じように室内を探るように眺めている。支援者のこの視点の動きはさほど変わらないものの、竹澤は今西と比べるとよりフラットな視点で部屋中を眺めているようだった。


「初めての一人暮らしですものね? 生活の程はいかがですか?」

「あぁ……そうですね……」


 戸嶋は想像以上に言葉に詰まった。

 適当なことを言えばいい、曖昧に言えばいい、それだけだったはずなのにそこから先が上手く続かないのは、「感情を吐露してしまいたい」という気持ちが働いたからなのかも知れない。その根源にあるのは不明瞭な「なにか」に対しての恐怖。


 それと、やはり視界の端で生じた人型が原因であろう。


 珈琲を淹れて、竹澤の方を振り返ると、当然のように視界に映った人型は、やはり同じ場所で壁を叩いている。

 戸嶋は即座にそこから視線を外したものの、一度焦点が合ってしまった人型への意識はどうしても避けきれない。これから先、それを意識しながら竹澤と接するのは骨が折れるだろう。

 それだけじゃない。この日の人型は何かが違っていた。普段は「壁をノックする」という反復動作しか行っていないやつが、動き始めたのだ。

 我が物顔で部屋の中を動き出し、真っ暗な表情でこちらを一瞥している。その行動の真意は分からず、戸嶋は思わず息を呑む。当然のことながら常に視界から外すことは出来ず、ひたひたと音を立てて蠢くそれに無反応でいることに、戸嶋は全力を注いだ。


 先程から、竹澤はいろいろな話をこちらに振ってくれるし、適当な日常会話もしてアイスブレイクを図ろうとしている。だがそんな話が背景音になってしまうほど、人型は強く壁を叩いている。普段は自由気ままと言わんばかりに振る舞う人型であるが、今日に限っては明確に悪意を持っているような調子で、がん、がんと強く壁を叩いている。


 がん、がん、がんがん、がんがん、がんがんがん、頭にヒビが入りそうな轟音が耳を劈き、思わず戸嶋は耳を押さえるような仕草をしてしまう。すぐにその動作の不審さに気が付き、手を下げるが、表情に苦悶の調子が浮かんでいれば意味がない。神経質に表情を右往左往させてしまうが、当然それに竹澤が気が付かないはずがなく、強烈な音の後ろから「戸嶋さん?」と尋ねる声が聞こえてくる。

 「え、あぁ……ごめんなさい」戸嶋はそんな気のない返事を返すことしか出来ず、竹澤は更に訝しむように体調を尋ねてくる。


「最近は幻聴とかは聞こえたりしますか? 体調が悪そうに見えるのですが」

「そー……ですね、最近は……」


 もはや症状が最盛期のときと何ら変わらない態度かも知れないと自覚しつつ言葉を探っていると、今度は不意に音がなくなっていることに気付かされる。

 一瞬にして周囲には静寂が広がる。だがそれはすぐに紊乱へと変貌した。


 どす黒い人型が、竹澤を真横から覗き込んでいる。真っ黒なペンキをそのまま人型の立体に成形したような、なにか。

 真正面からこちらを見ている竹澤の真横に立ち、その顔を覗き込んでいる。当然ながら竹澤がそれに気がついている素振りはなく、深刻そうに表情を歪めている。

 口元が開き言葉がいくつか漏れている。驚くほどにほんの数語すらも耳に到達することはなく、戸嶋は気がつけば奇声を放って椅子から転がるように倒れ込んでいたらしい。意識が戻ってくる頃には、竹澤の顔が目の前にあって、「戸嶋さん!」と大きな声で肩を揺さぶられていた。


 一瞬何があったのか理解できなかった。自分はどうして床にいて、竹澤に肩を揺らされているのか。

 どうやら自分は、目の前の超常的な現象に驚き、椅子から転げ落ちてしまったようだ。筋肉が弛緩するように熱が引く感覚があった。その時点で、既に相当な肉体的抵抗を終えていたようで、遅い筋肉痛のような痛みが波のように押し寄せてくる。


「戸嶋さん、体調が優れていないのでは?」


 竹澤はこちらのことを伺うようにそう言葉を向ける。言葉の意味は今の戸嶋にもはっきりと理解できた。

 「妄想・幻覚が悪化しているのではないか?」竹澤の弁はそのことを指し示している。しかしながらこれに、はっきりとした答えを出すことは戸嶋もできない。自分が見ているものが統合失調症の症状なのか、この部屋に巣食う「なにか」によって生じているのか、全くもってわからないのだ。

 戸嶋は悩んだ。すべての出来事について話すことはできない。確実に症状が疑われてしまうから。それはなんとしても避けたかった。幻覚ではないこの出来事を、「ただの精神障害の症状の一つ」であるとされることが、何よりも苦痛に感じられた。


「……竹澤さん、この部屋、なんか変ですか?」


 戸嶋が振り絞って出したセリフは、部屋の異常性について尋ねることだった。おかしいのは自分ではない、この部屋だ。それを理解してほしいからこその発言に、戸嶋は祈るような気持ちで竹澤を一瞥する。

 しかし竹澤が浮かべたのは、露骨な困惑と訝しさだった。ついで「部屋って、どういうことですか?」と当然の反応をし、きょろきょろと室内を見回している。先程まで竹澤を覗き込んでいた人型は存在せず、ノックの音もなく静謐があたりに流れていた。

 不思議と戸嶋も、普段感じている気配が止んでおり、驚くほど静まり返っている。その中で自分の荒い呼吸音が響いている。何がなんだか、理解できなかった。さっきまでの光景は、ただの白昼夢だとでも言わんばかりの部屋の態度。それに哀れみを向けるような竹澤の「部屋が、なにか変なんですか?」という怪訝な言い方。

 嫌な感覚だった。鳩尾から体幹に広がっていく不快な感覚。いつか感じた精神に不調をきたす寸前の体の異常。体の調整弁が狂っていく。冷や汗が生じて動悸は血管を揺らし、視界が歪む。あらゆる感覚が不愉快で仕方がなく、目の前の竹澤のかすかな視線の揺らぎすらも癇に障るようだった。


「……ごめんなさい、ちょっと今日は体調が悪いんです。また別の日でもいいですか」


 戸嶋は投げやりにそう捲し立てた。本来であれば一つ一つ、説明することができればよかったのに、自分はそれができなかった。この病気の特性ゆえか、はたまた自分の良くない部分が病気によって強調されたのかは分からないが、相手の反応を予想して自暴自棄になってしまう。もう、何もかもが嫌だった。

 とにかく人と話したくない。これ以上この姿を誰かに見られてしまうと、余計病状が悪化してしまいそうな気がした。

 それに対して竹澤は「……体調が良くない時にごめんなさい。また出直しますね」と戸惑いと、少々の安堵の色を見せたような気がした。自分の見立てが当たったことに対して納得しているのだろうか。相手の気持を適当に考え、当てはめてしまうことが逡巡に至り、それが感情の引き金に指をかける。

 気がつけば「今すぐ出てってください!」と声を荒らげてしまっていた。


 ふと、その自分の光景を客観的に見ている自分もいた。感情の一貫的な統率が、明らかに乱れてその高低もかなり激しくなる。これは自分の、統合失調症の症状が顕著になり始める時の兆候だった。

 相手に対しては本当に申し訳なく感じる一方で、戸嶋は安心させられる。この症状が出るということは、「まだ幻覚症状に至っていない」と結論づけることができるからだ。


 幻覚症状が出てくるようになると、このように俯瞰視点で自分のことを見ることすらできなくなる。今の時点で、現実に気持ちが抑えられなくなっているのは問題だが、それを振り返って後悔する事ができている。幻覚症状が出始めればこんなものではない程の不調が顔を見せ、人間関係を容易く崩壊させることを、戸嶋は誰よりも知っていた。

 だから、いそいそと頭を下げて帰っていく竹澤の態度に、妙に安心する。自分は間違っていない、おかしいのは自分ではなく、この部屋にいる「なにか」なのだ。そうやって疑いの可能性を塗りつぶす事ができたのだから。


 俯瞰視点で自分のことを見ることが出来たからこそ、激昂する自分に対して冷静に「それでは今日は失礼しますね」と言い、頭を下げた竹澤の態度に感服させられた。自分とさほど変わらぬ年齢の彼と、自分の態度の違いに劣等感を抱きながら、その態度を見たからこそ、玄関扉を開けて会釈をする彼に対して、頭を下げる。同じように玄関脇まで向かって竹澤に「すみません、少し疲れてて」と会釈をした。

 すると竹澤は驚いたように、「こちらこそ、疲れている時に申し訳ありませんでした。また出直します」と再度頭を下げる。彼の真摯な態度にずきずきと胸が痛くなるような感覚がありながら、それでもどうしようもなかったと実感する自分の気持ちは複雑に絡み合う。


 無言で竹澤のことを見送る戸嶋は、自分の表情がどうなっているのか分からなかった。

 タイミングが悪く帰宅したと思しき、二〇三号室の隣人、ミズキが階段を下っていく竹澤とすれ違う。竹澤は流石に気分を害したのか、住人であるミズキになんの反応も見せることなく、そのまま音を立てて階段の鉄板を鳴らして歩み去っていく。


 一方のミズキは、明らかに顔色の悪かったであろう戸嶋に、小さく会釈をしながら、訝しげに「戸嶋さん?」と声をかけてくる。戸嶋はというと、ミズキに上手く返答をすることが出来なかった。

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