終章 名前のつけられていない部屋

17


「竹澤さん、お電話です」


 障害者への相談業務を主とする相談支援事業所の電話にて呼び出しを受けたのは、戸嶋樹の担当計画相談員である竹澤だった。

 同僚からの呼びかけに応えた竹澤は、促されるままに電話に出ると、相手は近くの病院の相談員である内藤が丁寧な応対とともに口火を切る。


「実は、竹澤さんが担当されているという戸嶋樹さんが、昨日搬送されまして、現在は回復して任意入院の手続きをする運びとなりました。そのことでいくつか、お伺いしたい事がありお電話しました」


 その言葉を聞き竹澤は、さほど驚くことなく、むしろ「やはり」という感情が降って湧く。

 彼の引っ越しからまだ一ヶ月も経過していないが、引っ越し時点で戸嶋の病状は明らかに悪くなっていた。

 戸嶋の自宅に訪問相談に向かったときにはそれが顕著であり、幻覚が強くなっているのか急に倒れ込み、激しい動揺を見せることがあるほどである。


 そもそも、竹澤が戸嶋の自宅に訪問に向かったのは、訪問ヘルパーからの連絡があったからだった。

 戸嶋を担当している「ケアセンター・優しさ」の今西氏よりの報告を受け、環境の変化から強い精神的なストレスを抱いている様子だったことを聞かされ、竹澤も同じように彼の自宅に訪問に向かったのが事の顛末である。


 当然ながら、竹澤が受けた印象も恐らく今西とほとんど同じようなもので、発症時から彼のことを見ている立場からすれば、「急性期の発症直後」のような印象を抱くほどだった。


 典型的な妄想・幻覚症状。本人たちにとってそれは現実と変わりないものであり、相談員の最も大切な能力は「聞く力」である。

 大抵の場合、精神的な不調を持っている人たちは「話を聞いてもらいたい」ため、余計なアドバイスや現実的な説教など状況を悪化させるにほかならない。

 竹澤の経験から来る理解と、その時の戸嶋の態度は大きく差がなかったことから、竹澤は戸嶋の入院に一切の驚きがなかったのだ。


 ただ一点、引っ掛かりがあったのは事実である。


 それが、内藤の説明にあったように「緊急搬送がなされて任意入院することになった」という部分だった。

 戸嶋は確かに他の統合失調症を持っている人からすれば穏やかな部類であるが、その分急性期の際の症状の爆発は激しいものがあった。


 そのため、「救急搬送」とまで症状が悪化しているのであれば、ある程度の強制力がある「医療保護入院」になるという感覚を竹澤は抱いていた。

 実際、最初に戸嶋が入院したのは、いくつかある精神障害の入院方法の中でも最も重篤な際に行われる「措置入院」である。

 それほど、戸嶋は普段の安定性に対して、特定のタイミングで大きな爆発が起こるタイプの人物だった。

 当然ながら、緊急搬送から任意入院になるケースはたくさんあるし、むしろ竹澤が戸嶋に対して抱いているイメージが特別で、多くの場合は任意の入院になる。

 戸嶋の持っている、「溜め込んで爆発する」という性質があまりにも顕著に見られることから、竹澤はそんなイメージをなんとなく持っていたのだ。


「戸嶋さんはつい最近、一ヶ月くらい前に実家から一人暮らしをするようになって、住環境が変わりましたので、不安定なこともあったかと思います。どのような流れで緊急搬送になったのですか?」


 竹澤は相談員として、ある程度の入院の流れを記録しておく必要がある。

 入院中の福祉制度に関わることは病院の相談員がしてくれる事が多いが、それ以降の地域での生活は、当然ながら竹澤の仕事になる。

 住居での生活はもちろん、個人で生活するための金銭的な手続きや、ヘルパー事業所との連絡調整も、現在は竹澤が行っている。

 戸嶋の場合、住環境の整備に至るまで戸嶋が関わっていたため、この様になるのは骨が折れたが、戸嶋に限った話ではないことを思い起こし、ひっそりとメモを取り出して内藤の話に耳を傾ける。


 しかし、竹澤の問いかけに内藤は言葉を露骨に濁した。

 先程までのハキハキとした言葉遣いからは想像もできないような言葉の詰まり方であり、どのように伝えていいか悩んでいるようだった。

 いやそれよりも、「起こった状況を理解できていない」と言ったほうが適切かもしれない。


「あの、大変申し上げにくいというか、変な質問かもしれないのですが、戸嶋さんが暮らされていた部屋について、なにかご存知ですか?」


 竹澤は電話口で思わず呆気にとられる。なぜなら相談員同士の会話で、「暮らしていた部屋」についてこんなにも婉曲的に話されることなどなかったからだ。

 電話口で言葉を失っていると、それは内藤も同じだったようで「変な話をしてしまって申し訳ありません」とクッションをおいて続ける。


「実は、戸嶋さんの住居から人間の白骨が出てきたそうなんです。戸嶋さんが幻聴症状で、思わずアパートの壁を壊してしまったそうなんですが、その壁から、人の頭蓋骨が見つかったらしく、本人もそれを覚えていました」


 竹澤は顔を顰めた。それと同時に「白骨って……」と口に出てしまっており、小さな沈黙が電話に流れる。そのかすかな沈黙に内藤は更に続ける。


「どうやら、戸嶋さんが暮らされていた物件で何かがあったのは事実みたいなんです。恐らく今回の搬送は、幻聴症状から壁を壊してしまったところ、そんなことがあったため、パニックになってしまったんでしょう。誰だってそうなるでしょうから、そこは良いのですが……まぁ、普通ではありませんからね。物件について一緒に見ていたのは、担当相談員様かと思われるので、念の為報告をさせてもらいました」


 口ぶりからして内藤は、「心理的瑕疵物件を相談員が見逃したのではないか」ということを考えているらしい。

 確かに普通に考えて、「壁から白骨が出てくる」なんてことは考えられない話しであり、それが実際に今起きてしまっている。

 正直なところ竹澤もこの話しには驚きを隠せなかった。一体どうしてそんな事が起こるのかと頭を抱えながら、物件について竹澤が知っている情報を話す。


「あの物件は戸嶋さんと一緒に探したもので、家賃や物件情報から探したものなんですが……心理的瑕疵物件などの記載は一切ありませんでした。だから正直、私も頭が混乱していて」

「無理もありません。自分も話を聞いた時、それも患者さんの幻覚や妄想だろうと思ったくらいですからね。でも骨が出てきたのは事実だそうだし、実際警察が来て患者さんから話を聞いていましたから……警察も捜査中なのでなんともという反応ですし」


 竹澤はますます状況が理解できないことに混迷する。一体何がどうなっているのかと誰かに問いかけたくなる気持ちを押さえ、現在の戸嶋の意向を尋ねる。


「はぁ……それで、戸嶋さんとしては今後どう考えられているのですか?」

「当然ですが、住居は引っ越したいと思われているのですが、正直、もう二度とあの部屋には入りたくないと頑なでして……」

「そうですね、住居については私の方で調整をして、新しい物件も不動産会社と交渉して対応していきます。一応、情報提供書の方はお送りしたほうがよろしいですか?」

「よろしいですか? 今回のような事例であれば、どのような流れで支援されていたのかも知りたいので、お時間ある時で構わないのでよろしくお願いします」


 竹澤は流れるように対応を決めて電話を切る。時間にしてほんの数分程度、十分にも満たない時間だというのに、これほどまでに長い間話していた気分になるのはどういうわけだろう。

 肉体的な疲労を感じながら、電話に繋いだ別の相談員である高橋琴美が怪訝そうな態度で竹澤へ声を掛ける。


「戸嶋さんの件ですよね? なんか白骨とか、すごい話でしたね」

「えぇ。戸嶋さんの自宅から、白骨化した人の骨が出てきたようで、それでパニックになって入院したって話しだそうで……」


 そう話す竹澤の声はどこか信じきれていない態度であり、妙に淡々とした態度があった。とはいえそれは高橋にとっても同じであるようで、驚きながらも「そんなドラマみたいな話しってあるんですか?」と顔をしかめている。


 正直なところ、この話について、竹澤が一番驚いているというか、信じきれていないところがあった。

 あの物件は、戸嶋とともに物件を回る中で、最も安価でかつある程度の設備も整っている場所であり、いわゆる「掘り出し物件」というやつだった。不動産会社も過度に推すことはせず、穴場のような態度を取っていたからだ。


 唯一良くないところは日当たりくらいのもので、それもある程度日中活動することを考えればデメリットにもならないということで決めた物件。

 心理的瑕疵物件でもなければ、取り立てて騒がれるようなものでもない、平凡な物件といえば適切だろう。

 事実、竹澤には現実感が全く持ってなかった。内見のときも同席させてもらったし、引っ越しの場面も部分的に手伝ったことも含めると、尚更あそこがそんな気味の悪い物件だったと思えない。


「でも、戸嶋さん引っ越してからやっぱり変って言ってましたものね。環境変われば落ち着かないものですよ」


 高橋の言葉に竹澤も同じようなことを思っていた。

 確かに訪問時の態度からして、戸嶋は少し精神的な不調が生じていたのは事実だろう。

 そんな状態で人の白骨なんて見れば精神的なストレスも一入のはずだ。竹澤は高橋の弁もあってか、妙に頭が整合されたような気分になり、早速戸嶋の新しい転居先を考えるため、不動産会社へと連絡をいれる。




 不動産会社に連絡をした竹澤は開口一番、戸嶋の部屋に何かしらの曰くがないかを尋ねた。

 帰ってきた答えは、「あの物件で事件などは起きたことはないですね」とのことで、やはりというべきかコーポ峰山の二〇二号室について、一切の心理的瑕疵はないとのことだった。


 それを知って竹澤は、自分が戸嶋に対して感じた微かな違和感が正しかったことを理解する。

 普段の安定感がより顕著に意識に残ってしまっただけで、戸嶋もまた統合失調症に苦しむ一人の人間である。

 幻覚や妄想に取り憑かれて現実と混濁してしまうこともあるだろう。


 竹澤は半ば安堵するように、早速戸嶋の現状と引っ越しの話について進めようとするが、担当した不動産会社の市原は、「ですが」と話の腰を折るように続きを話し始める。


「あの物件は、人の出入りが激しいのは事実だと思います。もちろん、戸嶋さんもそうですが、入居される方々が少々、色々あるかたも多くいるということはあるかと思うのですが、それを抜きにしても、あの物件はちょっと特殊かもしれません」


 市原の勤めている不動産会社は、竹澤が担当するような精神的な障害を持っている人や、いわゆる前科を持った人たちが利用できるような物件を中心に扱っていた。

 保証人が持てないような、社会的な信用が乏しい人でも利用できる物件が多いからこそ、竹澤も市原にお世話になることが多くあるのだが、そんな市原からしても、「コーポ峰山」は少し特殊な物件であるようだった。


 戸嶋は不意にその時の記憶が蘇る。

 最初に訪問をしたとき、部屋に入った瞬間から何処か異空間のような感覚はあったかもしれない。そのときは戸嶋の態度の変化や、明らかに落ち着かない戸嶋の様子を見て、そちらに引っ張られていたが、市原の話を聞けば印象も少しは違ってくる。


 失礼な話、戸嶋が統合失調症という病気を患っていたからということも関係しているだろう。

 竹澤はもう十年以上、統合失調症の人々と関係性を作り、時に良い方向へ、時に悪い方向へ進んでしまう人々を見ている。確かに専門的な知識は十二分かもしれないが、だからこそ、「統合失調症の人はこういう症状がある」ということで色眼鏡で見ていたのは事実だった。

 彼らの幻聴がどれだけリアルに、彼らに負担を与えるかを理解しているからこそ、「病気が苦しいのだ」という理解をしてしまい、それ以外の視点にたつことが出来ていなかったかもしれない。


 となると、今まで自分が受けていた戸嶋に対しての印象や事実は全く違うものになる。

 当初、ヘルパーである今西から聞かされていた戸嶋の不調は、転居による環境の変化ではなく、また別のものに影響を受けていたのなら? 竹澤自身が訪問した際に、激しい動揺を見せたのは、病気に起因するものではなかったとすれば? 戸嶋が入院したきっかけが、幻聴でも白骨を見たわけでもなければ?


 すべての疑問符には「部屋そのものがおかしかったから」という回答を渡すことができるかもしれない。まだ決まりきっていないというのに、戸嶋は怖気が止まらなかった。

 もちろん、この世にいわくつき物件による被害が出ているなんて、本気で考えたことはない。

 しかし、戸嶋のように精神的な病の中には、いわくつきや心霊スポットなど、ネガティブな方向に精神が引っ張られてしまうことは往々にしてあることだった。


 そうなれば、そのことを知らずに部屋を選んでいた竹澤自身の責任になってくる。

 それだけではなく、訪問時の彼の対処やその後のケアについても、改めるべきところが数多生じることになるだろう。すっかり言葉を失ってしまった竹澤だったが、まだ市原と電話がつながっていることを寸前で思い出し、言葉を促す。


「あの、つまりあの物件には、なにかがあるっていうことですか?」


 その後の言葉を待つ間、竹澤は自分の言葉がなにかいびつな扉を開くような気がした。

 まるで見てはいけないとされた、呪われた寓話を覗き込むような、そんな奇妙な感覚を。


「管理会社や大家が確認しているうえで、あの物件に何かがあるということではないかと思います。私自身、あの物件を管理していても何も無いのですが、あの物件に気味の悪さを感じる人はいるんです」

「……それは、例えば他の人より、敏感に何かを感じ取る人であれば、ということですか?」

「私にはさっぱりですが、もしかしたら感性が敏感な人は、我々が感じることができないようなものに何かを感じるのかもしれませんね」

「はぁ……」


 竹澤はそれ以上、部屋について尋ねることはしなかった。

 恐らく口ぶりから、これ以上何かを知っているとも思えない。謎めいた白骨死体のことなど、知る由もないのだ。


 それから転居の手続きや、早い段階で戸嶋の住んでいた二〇二号室から荷物を運び出すための手続きを踏み、荷物を運び出す手配を行うまで、十数分もかからなかった。わずかそれだけで、あの部屋との関わりは終わることになる。

 竹澤が行うべきことは、一連のことの報告をしたのち、戸嶋が退院するまで回復するのを待つばかりだった。


 電話を切り、竹澤は大きくため息を付く。

 これで良かったのかと頭をかきむしる一方で、自分がそれ以上何かができるわけでもないと悟り、再び書類の山に視線を落とす。


 あの部屋は、なんだったのか。仕事に集中しようとしても湧き上がってくる疑問に対して、竹澤はため息を付くことでしか反応する事ができない。

 ただ一つ言えることは、この世には人間が認識できないものがあって、それを知ってしまえば、なにかに引きずり込まれてしまうのかもしれないという、漠然とした仮説のみである。


 戸嶋はあの部屋で何があったのか、何を見たのか。竹澤は流石に、それについて触れようとは思えなかった。

 今後彼と関わるときも、恐らく二〇二号室について触れることはない。しかし、あの部屋には何かが犇めいている。その事実のみは今後も変わりないだろうと、曖昧な結論のまま、竹澤は職務に帰結した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る