16


 戸嶋が次に目を覚ました時、最初に目に入ってきたものは蛍光灯の光だった。

 次に白い天井と、視界の脇に見えるカーテンレールからぶら下がる真っ白な布。思わず戸嶋は安堵した。

 何十回、何百回と同じ角度で降り注ぐ月明かりを二〇二号室の窓枠から見ていたからか、一瞬今ある意識が本当に事実なのかを疑ってしまう。

 だがあらゆる体の感覚が、今目の前で起きていることを現実だと主張する。


 視覚の理解が終われば、ほんのりと香る消毒液の匂いから、ここが病院であることに気付かされる。戸嶋は思わずゾッとした。

 戸嶋にとって病院は、「不調のときに収監される場所」という認識に等しく、数度経験した保護室での経験が思い出させる。

 感情が常に高ぶっているのを肌で感じ、誰がここに来ても上手く対応できるように頭の中でこれまでの経緯を辿った。

 しかしどうにも、部屋での記憶が曖昧である。どういう流れで自分がここにいるのかは全くといっていいほど思い出せず、そこで戸嶋は崩落した壁から落ちる人骨の音が幻聴として響かれる。


 これは、幻聴だ。

 思わず身じろぎそうになる感覚だったが、これが持病の統合失調症による幻聴だとはっきりと理解する事ができた。


 なぜなら昨日に経験した、二〇二号室でのあらゆる現象とは明らかに異なり、そして幻聴としての感覚が懐かしく鼓膜に触れたからだ。

 人によって幻聴の現実味はかなり違っているが、戸嶋は「幻聴にしてはリアルな音」という印象を抱いていた。

 裏を返せばまだ、幻聴であることを理解できる程度の音。昨日、壁を壊して出てきた骨の音が、全く同じリズムと高さで再生された時点で、戸嶋は幻覚だということをはっきりと自覚した。持病による幻聴と、昨日のあらゆる出来事がやけに重なり合い、これ以上付き合ってられないという気持ちが生じたことが原因かもしれない。


 戸嶋は自分が思っている以上に冷静であることに驚いていた。

 もっと混乱して、心も体もおかしくなっているのだと半ば諦めていたというのに、意外にも自分は保護室入りをすることなく、ただベッドで寝かされているだけなのだ。

 そんな状況から戸嶋は思わず、「自分の話を誰かが信じてくれたのではないか」という思いに駆られ、かすかな期待の色が滲む。

 そんな戸嶋の期待を煽るように、病室の扉の開閉音が鳴り、カーテンが開け放たれて看護師が現れる。「戸嶋さん、大丈夫ですか?」と気遣いの言葉とともに、担当医へ知らせることを残して踵の音を響かせて病室を後にした。それらの動作は一分もかからず行われ、戸嶋はただただ呆気にとられるばかりだった。

 更にそこから、医者や病院の相談員など、関係者が集まって事情を聞くまでに要した時間は、十分もしないうちに執り行われることになった。


 最初に口火を切ったのは、白衣を来た優男と言わんばかりの風体をしている男性だった。


「戸嶋さん、私は当病院の医療相談室の相談員、内藤と申します。今回は急遽ですが、戸嶋さんのアパートから最も近い当院に搬送させていただきました。ご自宅で倒れていたところ、アパートの人が発見されたとのことで……」


 内藤は首から下げている名札を見せながらそう頭を下げる。しかし戸嶋にとって、彼が何者であるかというよりも、「アパートの人が発見した」という下りに強く反応させられる。

「あの、よく覚えてなくて、あのアパートの人が、私が倒れているところを見つけて搬送してくれたってことですか?」

「えぇ。戸嶋さん、朝方にかけてご自宅の前で倒れ込んでいるところ発見されました。覚えていらっしゃいますか?」

「いえ……よく覚えてなくて……」

 戸嶋は疑問に渦巻きながらも、最も気になっている「人骨」のことについてなかなか言い出せずにいた。

 そんな嫌な空気を内藤は察したのか、言いづらそうな表情で「部屋の中で、何があったのか覚えていますか?」と尋ねてくる。そこで戸嶋は確信した。あの部屋でみた「人骨」は間違いなく、あそこにあったのだと。


「あそこに、あったんですか? 人の骨が……」


 戸嶋は気がつく頃には口に出してそう尋ねていた。言葉になった途端、もう少し考えて発言したほうが良かったという後悔が滲み、周囲の人間のあからさまなざわめきが妙に立体的なものに感じられた。

 それでも、内藤は冷静さを崩さずに、状況を丁寧に説明する。


「……そのことで、警察が戸嶋さんに話を伺いたいそうです。今のところ意識が戻っていないということで、戸嶋さんが話せる状態まで回復することを前提に話を進めています」

「はぁ……自分も正直、何があったのか理解できなくて」

「今はゆっくり休むことが必要になると思います。幸い主治医もこの通りおりますし、あくまでもドクターの判断で警察に話す話さないも決めることができます。戸嶋さんは、何も覚えていないのでしょう?」


 内藤の話に戸嶋はこくりと首を縦にふる。

 彼らの話により少しずつ、記憶が蘇りつつあった。二〇二号室で起こった奇妙な出来事の数々、未だ鮮明に蘇る、扉から出た時の落下の感覚。あらゆる恐怖と不快のざわめきが脳内で金切り声を上げるようだった。

 しかしながら、戸嶋は自分が十分正気の範疇であることに驚きを隠せない。


 やはり、冷静過ぎる。頭の中は冴えわたるように明確であり、起こったあらゆることを頭から反復できるだろう。

 問題なのはただ一つ、そんな話は誰も信じることがないだろうということだ。

 戸嶋はふと、二〇二号室に戻る前に話した、過去あの部屋に住んでいたと話す大学生・立山のことを思い出す。

 彼と話した内容には納得できることもあるのだが、会話の内容は荒唐無稽以外の何物でもない。あんなものを信じろという方が土台無理だし、散々な目にあった今になっても、信じることは難しい。ただあるのは、部屋で起きた数々の説明のつかない出来事と、壁から出現したであろう人の骨という事実のみだった。

 そこまで振り返り、戸嶋は語りだす。


「……気分や体調に問題はありません。それよりも、記憶が薄れる前に、あの骨について話しておきたいんです。むしろ、私が経験したことを伝えて、納得できる答えが欲しいんだと思います。駄目ですか?」


 戸嶋のはっきりした言葉に内藤らは顔を見合わせる。

 支援者や医療者の独特な目配せが戸嶋に映る。難しい決断を迫られた時、お互いの専門性をすり合わせるように、職員たちが無言で会話を続けているようだった。暫くの間沈黙が流れた後、話しだしたのは医者である三笠である。


「……わかりました。バイタルも安定していますし何より、受け答えが非常に安定していることから鑑みて、警察との面談を許可します。ただし、相談員である内藤の立ち会いを前提とさせていただきます。病状の変化があった場合は即時中止とさせていてただきます。よろしいですね?」


 付け加えられた条件に戸嶋は少しだけ悩むが、話を聞かれた程度ではどうにもならない事実にぶち当たり、すぐに首を縦に振る。

 どうでもよかったわけではない。むしろ、沢山の人に聞いてもらいたかったのかもしれない。



 それからしばらくして、警察が入ってきて、事の顛末について聞かされた。

 内容としてはやはり「人骨」のことが中心であり、まずあの人骨がどこから出てきたものなのか、それからどうして壁に穴を開けたのかの顛末、部屋で起きた事件の数々について、事細かく説明を求められた。

 それについて戸嶋一つ一つ、丁寧に答えたものの、そのどれもが要領を得ないものばかりで、警察官は首を傾げるばかりだった。


 当然である。壁を壊した理由に「部屋に現れた真っ黒な人影がそこを叩くから」なんて答えられれば、誰だって頭を抱えたくなるだろう。

 それでも戸嶋は、一切繕うことなく、できる限り自分に起きたことを事細かく話した。それを続けるたびにうんざりしたような警察官の顔が浮かぶが、それでも、最後まで話し続けた。

 やがて警察官は観念したように、「もう大丈夫です。ありがとうございました」と頭を掻き毟って、強引に話しを打ち切った。


 内藤はというと、警察官を病室側に誘導してそのまま応対している。その時点で、警察官が内藤に向けて「支離滅裂な話」だと憤っているのだろうということがうっすらと聞こえてきて、戸嶋は納得する。

 やはり、こんなことを信じるなど不可能であるということを。


 しかし戸嶋は逡巡していた。

 あの出来事が、自分の持病に端を発する何かしらの幻覚や妄想の類ではないことを確信するように、頭の中を過ぎ去っていく激しい逡巡。

 何が原因で、あのような不可解な現象に晒されたのかは見当もつかない。

 ただ、あの部屋には、なにかこの世のものではないものが巣食っており、戸嶋はその一端に触れてしまったということは、紛れもない事実なのかもしれない。

 薄気味が悪いという安易な表現では収まることのない、禍々しいなにかが、きっとあそこにはあるのだろう。


 壁の中から出現した人骨が、まさにあの部屋がおかしな存在であることを主張しているようだった。

 いくら巧妙に骨を壁の中に塗り込んだとしても、部屋に住んでいて、どうして自分はそれに気が付かなかったのだろうか。

 あの小さな部屋で死体の処理をして、モルタルで少々の壁の厚みをもたせる事自体、いくら左官業をしていた可能性のある犯人とはいえ、することはできるのだろうか。


 ましてや、あの部屋はもう何度も人が入れ替わっている。他の物件よりも遥かに、あの部屋が外部の人間の目に触れる機会は多いだろう。

 にも関わらず、誰もあの骨を見つけられなかったというのだろうか。もちろんたまたま偶然が重なっただけかもしれない。しかし、そうではないかもしれない。


 戸嶋は、奇妙な出来事に晒される直前の立山との話しを思い出す。

 「特異点」、立山が表現したその言葉が妙に頭のなかではっきりと点と点が結ばれるような気がした。


 仮に、あそこが本当に「特異点」であると考えれば、あそこは決して人間が立ち入ってはいけない空間であり、そこを深く認識すればするほど、気が触れていくと仮定することができるかもしれない。

 そう考えれば、あの不可解な現象の螺旋にも一つ、回答を渡すことができるだろうか。

 自分のときも、立山のときも、「二〇二号室」について調べれば調べるほど、奇怪な現象が増えていった。それに、人ならざるものとなっていた橋場水樹も、事あるごとに「部屋について調べるな。早く部屋から逃げろ」と話していた。


 知れば知るほどに、おかしくなっていく。狂っていく。

 戸嶋は自らの感覚で最も整合した感覚がそんなところだった。

 それでも、一言であの部屋を表現するには至らない。自分が部屋の中で見た真っ暗な空間に立ち尽くしている無数の人間や、大量の幻覚は一体何だったのかなど、今となっては説明もつかない。


 もしかすると、「特異点」には、あそこを認識したあらゆる人間の感情や記憶、出来事が蓄積されるということもあるかもしれない。

 それほどに、あの空間にはあらゆる人間の感情が渦巻いているようだった。


 戸嶋はあらゆる逡巡をしているうちに、現実ではすっかり目を開いたまま沈黙をしていたようで、近くの内藤から声がけをされていることに頭を揺さぶられるような感覚を覚え、そこで意識が現実に戻される。


「戸嶋さん、お疲れのところ申し訳ありません。入院のことについて、私の方からも説明させてください」

「あぁ……はい、入院ですね?」

「えぇ。今回は戸嶋さんのはっきりした意思表示ができる状態なので、任意入院となりますが、入院の意思については、おありですか?」

「……お願いします。あと、あの部屋については、相談員とも相談したいので、落ち着いたときに連絡したいのですが、大丈夫でしょうか?」


 戸嶋はそれを聞いた瞬間、内藤の顔に疑問符が浮かんでいることに気がつく。確かにこの状況で、「部屋について」の話を出している時点で違和感が生じるのも当たり前だろう。

 戸嶋はそれに対して弁明をしようとも思わなかった。どうせ、あのことは話しても「統合失調症患者の戯言」としか思われない。

 あの歪な感覚のズレを理解できるのは、恐らく同じ病に苦しみ、妄想と幻覚が認識の直ぐ側を行きずっている者にしか理解できない。

 そんな感情を知ってか知らずか、内藤は続ける。


「それなら、医療相談室の方から、戸嶋さんの相談員にご連絡させていただいてもよろしいですか? 今回の任意入院についての流れもお話したいので」

「よろしくお願いします。ご迷惑をおかけします」


 戸嶋は一瞬、自分の弁で話そうという意思を伝えようか悩まされるがすぐに、この際自分の気持ちなどどうでも良いことに気が付かされる。今大切なのは、一刻も早くあの部屋から抜け出して、他愛もない日常に戻ることだった。


 ふと、戸嶋は思わされる。自分はどうしてあの部屋を前に、気が触れることなく部屋から抜け出ることができたのだろうか。


 どうして、存在するはずのない隣人として橋場水樹なる存在が現れたのか。まだ出ぬ答えに、戸嶋はただただ混迷に伏すばかりである。

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