15


 月の動かない真っ暗な部屋の中で、戸嶋は何度も悪夢を繰り返した。


 もう、何度目かわからない。目覚めの瞬間は漆黒に吸い込まれるように突き落とされ、存在しないはずの地面に叩きつけられる衝撃とともに、同じ椅子の中で目が覚める。


 窓の外を見るたびに、全く同じ角度で灯される月光が部屋の片隅を照らしている。

 一切の時間経過の存在しない暗がりの部屋は、今まで自分が住んでいた場所とは程遠い空気、を静寂にのせたまま再び、異音とこの世のものとは思えぬ気配が闊歩する。

 訳の分からない出来事の螺旋に戸嶋は思わず椅子の中から動くことなく、床に溢れたブランケットを頭から被った。

 何も見たくないし、聞きたくない。そこに存在しているであろう何かから自分を逃がすため、目をつぶって祈るばかり。

 しかしそれすらもこの部屋は許してくれないようで、うつらうつらと漂う意識は突然暗がりに飲まれ、再び衝撃とともに同じ時間に止まる椅子の中に戻っていた。


 戸嶋は思わず確信する。

 どうあがいても、この部屋は自分を逃がしてはくれないらしい。

 止まったままの時間、外の接触を一切拒む異空間。今の二〇二号室は、この空間だけが切り取られて、宇宙の外側に出てしまっているのとほとんど同じなのだろう。


 ふと戸嶋は、テーブルに置かれていた処方箋の袋を手に取る。「リスパダール」という、今となっては耳馴染みのある薬の名前が目に入ってきて、暗がりの中で妙に冴えわたった意識が、その服薬がなされていることを自覚させる。

 リスパダールという、戸嶋が服薬している薬は副作用として不眠がある。

 最近では継続して服薬しているからか、その効果はかなり緩和されているが、飲みはじめの頃は睡眠薬と併用しないとまともに睡眠時間を取ることができないほど、酷い副作用に悩まされる事もあった。

 

 今、戸嶋は暗がりの中でもはっきりとした意識が存在している。

 薬の副作用は、このようなはっきりとした異常状態においてよく活性化するということは経験から感じていたため、戸嶋は一応、自分が数時間前にこの薬を確かに服薬していることは確信する。


 統合失調症という病気を持っていると、自分とその他の人との違いをはっきりと自覚することがある。

 そうなれば、自分が見聞きしているものが本当に、相手も同じように見えているのかわからなくなってくる。それが自分の認知の信頼性を揺らがせてしまう。

 そのため戸嶋は、一つの癖として、いくつかの客観的な事実から振り返ることをしている。


 何度も、何度も異常な空間を繰り返すときに、そんな客観的な指標を頼っている気持ちの余裕などなかった。しかし繰り返す中で、異常な状況で少しは正常な感覚を取り戻すことができるようになっていた。

 今でも冷静さは自分にはないだろう。

 それでもある程度の俯瞰さが生じてきた時点で、怖いことに自分は、この異界に馴染みつつあるのかもしれない。

 尤も、足先を踏み出そうとするたびに爆音のような心臓の早鐘は収まるところを知らないようで、未だ戸嶋は椅子から動く事ができなかった。


 椅子に座ったまま動かずにいれば、耳をつんざくような断末魔が響き渡る。


 もう、何度目だろうか。閑散とした部屋の中で聞こえてくる狂気的な悲鳴に耳が慣れようとしている時点で、戸嶋は自分の精神が正常からはるか遠くに存在していることを自覚する。

 ふと、断末魔は止んだ。堰を切ったように聞こえていた金切り声はぱたりと止み、残響すらも闇に飲まれるように静まり返る。

 しかし完全な無音に帰すことはなく、今度はずるずるとフローリングを引き摺るような音が聞こえた。


 そこまで音が具体性を帯びれば、戸嶋はその音の正体に気づき始める。音は「殺人」の音であり、その後のフローリングを舐める音は「死体を引き摺る音」だ。

 気がつくだけ不快な思いをすることは間違いないが、戸嶋はそれよりも、「どうしてこんなことが起きているのか?」という疑問を考え始める。


 部屋が異界に閉ざされて以降、戸嶋は様々な幻惑を見てきた。


 それは「子どもが虐待される」や、「行方不明になった橋場瑞希が殺害される現場」、「口論する男女」、「クローゼットで泣く子ども」など、脈絡がないように感じられる。どうしてここで、こんなにも無数の出来事が重なって起きるような感覚に晒されているのか。

 今一度、戸嶋は思考する。

 この部屋は「曰く付き物件ではない」という。だがこれらのことから、この部屋で何かがあったことは間違いないだろう。


 同時に今自分に降り掛かってきたあらゆることは、脈絡がなさすぎる。

 それに明らかに、ここで見せられた気味の悪い映像の中には「戸嶋自身の記憶」もあった。そこから考えれば、一つの地続きの真実があるとは到底思えない。言うなればここで起こっていることは、「あらゆる人間の悲劇的な記憶を闇雲に再生してる」ようなものだ。


 そう考えると、ここになんの縁もゆかりもない、戸嶋の忌々しい過去が描写されたことや、過去ここに住んでいたという立山光一の過去がドアスコープ越しに映し出されたことにも合点がいく。

 更にここでは客観的な事実として、間違いなく橋場瑞希という女性が行方不明になっていて、彼女はここで殺害されていると思しき事実まで映し出された。

 これらの事実の羅列から戸嶋は、この部屋が映したものは「部屋で起こった過去」と「部屋に住んだ人間が持っている負の記憶」ではないかとおおよその辺りをつける。



 そこで戸嶋はようやく、辺りが一変していることに気付かされる。

 そこは部屋とすら言いようのない禍々しい雰囲気を漂う暗がりの中であり、周囲のどこを見ても同じような永久の闇が続いていた。戸嶋はそんなただの闇の中で、腰掛けていた椅子と体一つで投げ出されていて、足にはじんわりとぬるくまとわりつく水分を気取らされる。足元には水が敷き詰められていて、地面に足がついている感覚すらも存在しない。


 それどころか不思議な感覚だった。今まさに立っているというのに、あらゆる感覚が遮断されているような感覚に晒される。

 自分は本当に立っているのかと、錯覚してしまうほどだった。感じたことのない体の状態に戸嶋は驚きつつも、導かれるように前に歩き出す。


 進めど進めど、辺りに散乱しているのは暗がりばかりであり、果てしない闇が続いている。


 しかし突如現れたのは、人だった。

 近づいて見えてきたというより、突如そこに現れたような感覚に近いだろう。

 いや、この状況を踏まえると、最初からそこにいた中で、突然光源が灯ったから存在を視認できたという感覚に近いかもしれない。

 戸嶋は驚きで思わず身を引いてしまうが、現れた存在からは敵意は感じない。尤も、その佇まいは、随分古い着物を身にまとい、顔を俯いた状態で目の前に立ちすくんでいるという、なんとも反応に困るものだった。


「あなたは知りすぎました」


 眼の前に相対した着物の人は静かにそう告げる。声からは性別は識別できなかった。

 中性的な声というわけではなく、まるで男女それぞれの声を再生したような聞こえ方であろう。機械調整された音とも言えるその音に思わず戸嶋はぎょっとさせられた。


 知りすぎた、その言葉は戸嶋にとって聞き覚えのある言葉だった。

 隣人であるミズキ、橋場瑞希も同様のことを話していて都度「部屋について知りすぎないようにしろ」という忠告を続けていた。そんな中で至ったのが、「部屋について特定のラインまで知りすぎてしまったのではないか」という推察である。


 自分は部屋について知りすぎた。

 だからこんなことに巻き込まれているのではないか。沸々と生じる考えに呼応するように、戸嶋は言葉が漏れる。


「知りすぎたから、こんなことに?」


 言葉とともに、今度は周囲に無数の人影が立っていることに気がつく。

 光源の存在しないこの空間で自分がどうやって人影を視認しているかは皆目検討もつかないが、周囲を取り囲むように、人がいる。

 それも一人や二人ではない。一瞬では視認しきれないほどの人数、それこそ街中の雑踏を彷彿とさせるほどの人混みを思わせる。


「あそこは人間が触れてはいけぬ位相」

「あらゆる事象が交錯し、重なり合う領域」

「過去も未来も抱え、重なり、踏み込むだけで気を触れさせる」


 一斉に話しだされた人影から、いくつもの言葉が頭の中で木霊した。


 言葉の意味を完全に理解することはできないが、戸嶋はふと、この言葉たちが「自分のもの」であることに気がつく。


 人に伝えるような文章ではない言葉たち、それは自分の病気が急性期のときに、闇雲に頭の中で浮かび消える感情の束と似たような撹乱を持っていた。

 そう、これらは「意味」だけが頭の中に流れ込んできている。


 それに対して「言葉」を当てているのは自分なのだ。

 だからこんな脈絡のない言葉になっているのだろう。

 そしてこの言葉たちの意味そのものが、二〇二号室のルールなのだ。人間が立ち入ってはいけない狂気の空間。時間概念すらも存在せず、ただ無為に事象が重なり合う。


 まさに自分が悪夢の中で見てきた光景と符合する。

 あそこで過去にあったであろう凄惨な出来事の数々は、確かに過去行われていたのだ。

 あの場所ではそれらが「常に起き続けている」のかもしれない。それを体験できるようになったのは、戸嶋自身が部屋について一定の知識や考えを得てしまったから。


 戸嶋は自分でも、自分が何を考えているのか理解できなくなる。

 まるで頭の一部分が部屋に乗っ取られたように、違う人間の思考回路が挟まってくる感覚に近いかもしれない。


 それがはっきりと頭痛に変わる瞬間、戸嶋は思わず地面へ蹲ってしまう。頭が強烈な力で締め上げられるような激しい痛み。

 真下に敷き詰められている真水を握りしめ、思わず視線を上に向けると、周囲にいた人々は顔を覗き込むように、倒れた戸嶋を覗き込んでいる。


 戸嶋が識別できるのはあくまでも「人影」のみであるが、どういうわけか彼らの「目」だけははっきりと見えた気がした。機械的でぬくもりを持たぬ異質な目。

 確かに人間の眼だというのに、そこに意志は存在せず、こちらを映すことのみを意識下に据えている無表情さは、今まで見てきたどんなものよりも不気味に思えた。


「お逃げなさい。あなたはこの位相に耐えうる思考の持ち主。まだ間に合うでしょう」


 しかしそんな不気味な眼を前にして、戸嶋が聞き取ったのはやけに穏やかな言い分である。

 すでに部屋と同一となった者共の思考が流れ込んでくる。ありとあらゆる人間の意識が接続されていく感覚のなかで、それらが一様の思考を振る舞った結果が、先の言葉なのだろう。


 戸嶋はそこで、自分の目の前が異空間ではなく、月光が窓から降り注ぐ自室の寝室であることに気がつく。


 月の光はわずかに角度を変えており、踵を返すように雲へ自らの光を隠し始めた。失われる光源に対して、戸嶋ははっきりと「時の進み」を実感する。


 悪夢が覚めようとしている、戸嶋は思わず肌感覚で直感し、転がるように自室の扉へと向かい、ドアノブを握りしめる。思いっきりノブを回そうとするが、そこで悪夢の循環で生じた真っ暗な奈落を想起する。


 今なら、外に出られるかもしれない。

 その考えの片隅で、もしくは同じような奈落が広がっているかもしれないという威圧感が嘲笑した。

 わずかそれだけの嘲笑がノブを回す手を止めて、激しい冷や汗が戸嶋の視界を濡らす。月光が隠れ始めた時点で、悪夢は変わりつつある。

 現実に戻り始めているということかもしれない。


 だがそんな状態で、扉の外が奈落のままなら? 足先が崩れ落ちて床に激突する時、それは再び「悪夢だった」と言えるのだろうか。


 現状の情報から生じることのない問が戸嶋の頭で一周したのとほぼ同時、後方から壁を叩く音が聞こえてくる。こん、こん、こん、等間隔で生じたノック音に、戸嶋は恐る恐る背後へ視線を向けた。


 戸嶋は我が目を疑った。

 いや、今更になってそれが現実かどうかなどを疑っているのではない。真っ暗な人影が、怪奇の発端と同じように壁際を叩いている。耳にこびりついて離れない、あの忌々しい音を。


 戸嶋は思わず、激情に身を任せて震えた拳で壁を叩いた。

 あの音を掻き消すように、できるだけ大きな音を。これから先もどこからかあの音を聞けば、今この状況を想起してしまうであろう、この音をなんとか現実から遠ざけたかったのかもしれない。


 我を忘れるように、戸嶋は玄関扉の横を覆うモルタルの壁を叩く。

 激しく、激しく叩いた。握りしめられた拳は感覚が薄れ、それとは反対に、力を込めすぎて開くことすら忘れたように筋肉は蠕動した。


 それでも、こん、こん、という音は止むことなく、未だ戸嶋の眼の前にはノックが止まずそこにあった。

 これが、自分を悪夢から覚めさせない原因であることは、戸嶋もなんとなく気がついていた。

 これをなんとかしなくては、戸嶋の思考は躍起になって頭を動かすも、答えなど出るはずがなく、延々と同じ場所を回っていた。


 こん、こん、こん。


 戸嶋は思わず耳をふさぐ。こんな音があるから、自分は部屋から出ることができない。

 怒りに飲まれるように戸嶋は激痛に震える拳をモルタルへ叩きつける。

 どがんと壁に穴が空きそうな音が響くも、壁はただただ黙したままそこにありつづける。


 ふと、戸嶋は違和感に晒される。


 今まさになっている壁をノックする音と、自分が打ち鳴らした壁を叩く音が、微妙に違っている気がする。戸嶋は思わず、痛みの激しい左手をかばって、右の拳ですぐそこの壁を叩く。


 こん、という音は変わらないが、直後に響くあの壁の音と微妙に違っている気がした。

 何度か音を鳴らして確認してみると、どうやら音の高さが違っているらしい。

 聞いてことがある。壁を鳴らした時の音の高さで、その奥がどうなっているかなんとなくわかるという。一般的に扉の向こう側が空洞になっていると、音が高くなるそうだ。


 戸嶋は思わず周囲の壁を少しずつ移動して拳で音を鳴らす。


 どこも、怪異によって鳴っているあの壁よりも少しだけ高い気がする。それもそうだ。こんな安アパートでは壁も薄く、音も響きやすい。ではどうして、あの壁だけが異なる音がなるのだろうか。


 戸嶋は恐怖すらもかなぐり捨てるように、音を鳴らす人影のもとへと近づき、同じ壁を静かに鳴らした。

 音が、低い。つまりこの部分だけ壁が厚いことになる。建築物において壁の厚さを意図的に変えるのはそれなりの意味があるはずだが、均等な間取りが必要なアパートにおいてそんなことをする意味は、耐震性などによって「どうしてもそこだけ厚くする必要があった」などのものがほとんどだろう。


 それ以外なら、建築した後に何かがあって、壁を厚くする必要が出てきたか。


 戸嶋は、そこで恐ろしい考えに至る。

 隣人であるミズキは、「二〇三号室」という存在しない部屋の中へいつも吸い込まれるように入っていった。

 場所としては、怪異がいつも叩いていたこちら側の壁にあたる。これは果たして偶然だろうか。なにか特別な、象徴的な意味があったのではないだろうか。


 現在ミズキ、いや橋場瑞希は行方不明であることを考えると、この壁は「死体を隠すために厚くなっているのではないか」という、最悪の仮定に行き着くことになる。

 橋場瑞希とともに部屋を借りていたのは、左官業の男だったという。一般人よりは、塗装や壁の施工に関する知識があってもおかしくない。もし、壁に関する専門的な知識があれば、「死体を壁に埋め込む」という考えを抱き、完全犯罪を企てようとするのかもしれない。


 もちろん普通に考えてそんな馬鹿なことをするとは思えない。しかし、その男も部屋によって気が触れていたとするなら、その凶行に至ったと考えて然るべきであろうか。


 気がつけば戸嶋は、工具箱から大振りな金槌を取り出していた。

 この程度で壁を破壊できるなどとは思わない。一方でもし、この中に彼女が、橋場瑞希がいるのなら、あまりにも悲惨すぎる。


 いまだ、ノックの音は止んでいない。戸嶋は思いっきり金槌を振り上げて、何度も、何度も壁へと叩きつけた。

 次第にその音がノックの音と同調しはじめ、壁が崩落する頃には、すっかり怪異によって生じたノックは止んでおり、同時に戸嶋は絶叫する。


 強烈な臭いとともに、壁からは漂白されたような真っ白い人の頭が見えた。

 からからと壁が崩落する音と共に、転げ落ちてくるそれを、戸嶋は震える手で拾い上げた。

 骨に触れた瞬間、戸嶋は悪夢の中で見てきた記憶が逡巡する。

 掴まれて鈍器を振るわれる瞬間の恐怖、絶望。橋場瑞希が感じたであろうあらゆる感覚が流れ込んできて、今日何度目かわからなくなるほどスムーズに、戸嶋の意識は途絶えることになる。


 事切れたように床に伏せた戸嶋だったが、その意識の外側で、二〇二号室の扉は静かに開け放たれる。自然と扉が開いたわけではない。


 「ありがとう」の言葉とともに薄れる体で、二〇二号室の扉を開いたのは、古い血液で汚れた橋場瑞希だった。

 奇しくも戸嶋の意識外で、この悪夢の出口は開かれることになったなど、戸嶋は知る由もなかった。

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