第五章 異界

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 部屋に戻った戸嶋は強烈な疲労感から、服薬だけを済ませてソファにもたれかかる。

 そこから先の記憶が曖昧なのは、すぐに意識から手を離したためであろう。


 時間が一気に経過したような感覚とともに、意識を取り戻す。不眠時によくある感覚だった。時間の感覚がめちゃくちゃになり、意識の時間と現実の時間が錯綜している。

 どうして目が覚めたのかはわからない。夢すらも記憶されていない意識の中で、ぼんやりと意識に早鐘を鳴らしたのは、壁を叩くような鈍い音だった。


 戸嶋はその音に体をはねのけるように飛び上がった。

 それまで夜中に聞こえていた扉を叩くような音ではない。まるで何か硬いもので、何かを殴りつけているかのような異音、聞いたこともないその音に全身の毛が逆立つ感覚を覚える。

 戸嶋は無意識に、今起きたであろう音の正体を探ろうとして視線を部屋中に見回した。決して広くない部屋の節々は、月明かりが深淵に注がれ、モノクロームのような色彩を浮かべている。そのため完全ではないが、眠気眼の戸嶋にもほぼ全て、死角なく見渡すことができる。

 にも関わらず異音の正体には影すらもなく響いていて、ただ音のみが静かな世界に響いている。


 そこで戸嶋は、異音と並ぶ違和感に気がつく。

 部屋が、静か過ぎる。このアパートの一室はたしかに静かであるが、ここまで極端に音がなくなるのはありえない。

 腐っても日本の首都の片隅、夜すら眠りにつくことはなく延々と喧騒の破片を聞くことになるこの部屋で、こんなにはっきりと異音を確認する事ができるのは、「外界からの音がないから」に他ならない。


 当然そんな疑問にかられている間にも、異音は響いていて、よく聞けば少しずつ音が変化しているような気すらした。

 最初は硬いなにかで物を叩く音。無機質だったその音はやがて、何かが潰れるような音が混じり始め、最終的には潰れた何かを床に叩きつけるような音に変わっていた。

 モノクロの視界には一切、音の根源が垣間見えることはなく、真っ暗な世界で音のみが輪郭を帯びていた。

 戸嶋はこれが現実のそれであると到底思えなかった。こんなものが現実であってたまるか。

 その感情が思考を引きずり回し、荒くなる呼吸を絞り込むように胸部を握る。皮膚に赤みが残る程度には、衣服の上から握りしめ少しでも現実感をなくそうとするが、皮肉なことに引っ張られた胸部の皮膚の痛みがより現実感を強調する。


 音が、止んだ。


 残響すらも今は聞こえてこない。ただひたすらに静かな世界で戸嶋は立ち尽くすばかりである。音にばかりかまけていたが、冷静に室内を見回してみると、戸嶋はおかしなことに気がついてしまう。


 この部屋は、一体どこだ?


 自分の部屋と今見ているこの部屋はそもそも家具の配置が全く違っている。

 室内が真っ暗であること、気味の悪い異音、そして自分が座っているソファとテーブルの位置のみが変わっていなかったため気が付かなかったが、そもそも戸嶋の部屋にはない、テレビが月明かりの光沢が生じていて、そこで自分の部屋でないことに気がつく。

 部屋そのものはおそらく、二〇二号室で間違いない。暗がりの中でもある程度の間取りは視認することはでき、それがよりこの不可解な状況に気味の悪さを滲ませる。

 戸嶋は確かに、自分の部屋に戻ってきてソファで眠ってしまったはずだ。

 にも関わらずどうして同じ間取りの違う部屋にいるのだろうか。考えれば考えるほど混乱が頭に食い込んでくるが、更に戸嶋を混乱させるように、今度は何かがすすり泣くような音が聞こえてくる。


 その音はどうやら部屋の外、ちょうどドアスコープから見える景色の範囲にあるようで、戸嶋は導かれるように扉の前からドアスコープを覗き見る。


 魚眼レンズを通したような景色に戸嶋は頭が痛くなる。

 また、同じ光景だ。立山や自らが過去体験したような出来事、真冬に外に締め出された少年の慟哭が、今にも耳元で聞こえてきそうになる。

 いや、この音は明らかに耳元で聞こえている。わけがわからないことの連続に卒倒しそうになるが、それを許してくれるものはおらず、閉じることのない瞼を携えて、戸嶋は思わず扉を開いてしまった。


 冷静に考えるとそんな馬鹿なことをしたのはなぜなのか疑問に苛まれるが、ドアスコープの少年に対して哀れみを持ってしまったのかもしれない。


 声をかけるはずだった。この奇妙な悪夢が現実とは違うことを自分自身噛み締めたかった。

 しかし扉を開いた先の光景に、思わず言葉を失ってしまう。


 扉の先にあったのは、二〇二号室の扉分のスペースの鉄製の足場だけだった。そこに泣き崩れる少年は、そんなことも気にすることなく開け放たれた扉にすがりつき、「ママ!」と声を上げて二〇二号室へと入っていってしまう。

 当然その場に立っていた戸嶋を気にすることなどなく、部屋の中へ向かい、その後は気配そのものが消えていた。


 戸嶋は思わず外側を覗き込む。一体外はどうなっているのか? そんな疑問に答えを渡したくて外を一瞥すれば、アパートの外観は、この二〇二号室を除き闇の中に消えてしまっているようだった。

 通路を二〇二号室から見て右に進めば一階に続く階段があるのだが、階段すらも闇に食われていて視認することは敵わない。

 存在がそのまま切り取られていると言ってもよいだろう。


 頭が、どうにかなりそうだった。戸嶋は今この瞬間も、自分が見ているこれらが、自分の妄想のたぐいなのではないかと思い込みそうになるが、ここまで視覚に露骨な変化が生じる妄想など、感じたことがない。

 すべてが滅茶苦茶に結ばれた世界の隙間に立っているような感覚。

 夢か現実かすらも理解を拒む偉業の領域だった。

 戸嶋は思わず扉を閉める。そこから見える非現実的な空間を見れば見るほど、正気を保つことができなくなりそうだったから。


 部屋に飛び戻って乱暴に扉を閉めると、今度は目の前にふたりの大きな影が生じた。

 到底、同じ人間の影とは思えないほどの大きさだった。天井に達してもまだ余りある巨体がどす黒い影になり、耳元で怒鳴りつけるような甲高い音で思わず頭が割れそうになる。


「もういい加減にして。私ばっかり子どもの世話なんて、もう、知ったことじゃないわ」

「子どもを作りたがったのはお前なんだから世話をするのはお前だ」

「仕事だけやってればいいんだから、楽よね。私はずっとここであの子といるんだから」


 戸嶋の目の前で聞こえてきたのは、おそらくは子どもを巡る夫婦の会話のようなものだ。

 一瞬それは自分の記憶の再現であるかと考えるが、逡巡してもこんなこと記憶に残っていない。これは一体、誰の記憶なんだ?

 疑問符に押しつぶされそうになっている最中、音がふと止み眼の前の人影も同時に消え去ってしまう。


 わけが分からなかった。

 今までこんなことは起きたことはない。怒号のように、目まぐるしく展開される大量の幻惑に圧倒されながら、それらすべてが明らかに現実ではなく、部屋の中で起きた様々なことが無作為に見せられているような気すらしてくる。


 今までこの部屋であった出来事、その言葉が戸嶋に引っ掛かりを産み落とす。

 自分がこの部屋で経験したのは、おかしな悪夢に壁を叩く音である。そこは部分的には違えど立山も同じような出来事を噛み締めていたはずだ。


 にも関わらずどうして今になって、こんな不可解なことが連続して起きているのか。これがただの夢ならばどれほど良いだろう。

 そう願った瞬間、戸嶋の頭に強烈な衝撃が走る。モノクロの視界はそのままに閃光が爆ぜるような感覚が空間を歪め、気がつくと戸嶋は体の質量をそのままに床に伏せてしまっていた。

 倒れ込んだ戸嶋は自分が現在どのような状態なのかさっぱり意味が分からなかったが、すぐに自分が置かれている状態に気付かされる。


「死ね、死ね、死ね」


 自分の上の方からそんな言葉が聞こえてくる。そこで漸く、戸嶋は自らに向けられた殺意を気取らされた。

 痛みはないというのに体は一切のコントロールを許さず、ただ呆然と床に体を拘束するばかりだった。


 重苦しい筋肉の感覚を嘲笑するように、戸嶋の暗い視界は涙に歪むように滲んでいく。すぐに気付かされた。自分は涙を流しているわけではない。倒れ込んだ衝撃で後頭部から流れ出した血液が視界をにじませたのだ。


 そこで、戸嶋は自分の後頭部がなにか硬いもので殴打されたのではないかという推測が生じる。

 それに気がついたとき、今度は自らの衣服が変化していることを理解する。

 妙に、皮膚が外気に触れている感覚がした。その感覚はこれまで戸嶋が感じたことのないもので、身にまとっている衣服が女性用のワンピースであることに気づくのは、何かを求めて暗がりで指を動かした頃になってからだった。


「ミズキ、お前は俺の女なんだ、わかるだろう?」


 戸嶋の背筋に冷たいものが走り抜けていく。

 今のセリフを聞いて、この奇妙な連鎖に一抹の納得を与えた。


 これはおそらく、今まで隣人として振る舞い続けていたミズキこと、この部屋周辺で行方不明になった「橋場瑞希」の記憶の追体験だったのだ。

 橋場瑞希はこの部屋に住んでいた左官の男と交際していたが、何かしらのトラブルに見舞われて行方不明になってしまう。その「トラブル」とは、まさに自分が体験しているこの状況ではないだろうか。「トラブル」の根源がなんであったかなどはわからない。しかし、それが原因で橋場瑞希は、立山の表現を使うなら「この世のものではなくなった」状態にあり、それがこの異形を創り出したとすれば、どうだろうか。


 そんな推測が頭をかすめている間にも、自らの頭にはなにかが振り下ろされる。奇妙な感覚だった。これだけの出血を感じ、当事者と同程度の恐怖を感じているはずなのに、自分は冷静で痛みすらも感じない。

 自分は当事者になって、それを妙に俯瞰的な部分から、一連の状況を一瞥しているに過ぎないのだろう。


 ふと、耳元で鳴り響いているこの不快な鈍器の音は聞き覚えがある。

 自らを眠りから覚めさせた異音。よく思い返せばこの異音は、ほんの数分前に聞いたあの音にそっくりだ。

 ぐちゃ、ぐちゃ、何かを踏み潰す音に加えて、時折、ごき、という何かがへし折れるような音。

 理解する前にはなんの気なしに聞こえていたはずのこの音が、なんの音なのかを理解するだけで全く違う聞こえ方がする。


 鼓膜を自ら破り去ってしまいたくなる音だった。胃の内容物すべてが口の中に戻ってきそうな感覚を生じたところで、戸嶋の頭には、いや、橋場瑞希の頭に最後の一撃が振り下ろされる。


 戸嶋が感じたあらゆることが、その時橋場瑞希が感じたものなのかはわからない。

 しかしその時、戸嶋は確かにすべての感覚が当時の橋場瑞希に呼応したような感覚があった。

 痛みすらも通り越した不快感。流れ出る生ぬるい血液の温度。こみ上げる無力感。すべてが死者への手向けのようで、棺桶へ入れる六文銭を眺めているような、嫌な寂寥感が、ただただ戸嶋の感情の真横に並列していた。



 ふと、そこで戸嶋の意識が再度戻ってくる。時折ある、夢の中で突き落とされて、地面に激突する直前に目が覚めるような圧迫感だった。

 体中の感覚が途端にはっきりとしてくる。先ほどまでの異常にリアルなあらゆる感覚はたしかにそこにあったが、体に触れ合うような肌感覚という面では、リアルには遠く及ばない。


 現実的な夢と目覚めの間に居る不安定さが体中にまとわりつき、先程までの現実がなんだったのかを自問自答する。


 なんだったのか。今自分は、どこにいて、何を見ているのだろうか。

 あらゆるものが逡巡という言葉では片付けられないほど、リアルで気味の悪い映像の螺旋となり、記憶にこびりついている。

 一つ言えることは、あれはこの部屋で起きたであろう忌々しい記憶の断片ということだ。ミズキという言葉や、意識が途絶える寸前に自分の身を纏っていたワンピースは、紛れもなく彼女のものである。


 戸嶋は思わず確信する。ミズキは、橋場瑞希はこの部屋で殺され、その後何かしらの形で痕跡そのものを消されてしまった。


 自分の目の前に現れた理由はわからないが、この部屋にまつわる、あらゆる彼女の警告はこれに繋がっていたのかもしれない。

 気がつけば気がつくほどに、頭の中に鉛でも詰まっているかのように頭が重くなる。

 こんなものを、誰が信じてくれると言うのか。ミズキはおそらく何かしらの訴えをしているのだろう。

 それに対して、到底自分の話など理解して貰えない自分に、何ができるというのか。絶望に打ちひしがれながらも、戸嶋はミズキとの邂逅と関わりを思い出す。


 関係としては取るに足らない隣人関係でしかなかった。

 客観的に見てもそこは間違いないのだが、それでも戸嶋にとってミズキの存在は大きかった。

 初めての単身生活の中で、異常な住まいに対してはっきりとした傾向を与えたのは彼女であり、それでいて「自分の言葉を信じてくれた」という事実が、戸嶋に特別な充足感を与えていた。


 今まで、戸嶋の言葉を本当の意味で信じてくれた人はいなかった。

 特に統合失調症という診断名がついてからは、戸嶋の発言は「ちょっと変なことを言う人」から「頭のおかしい妄想魔」という評価へと変わり、何を話しても「おかしなことを言っている」という非言語的な感覚にさらされた。

 戸嶋の周りを取り巻く人間関係はほとんどその空気感に囚われていて、フラットな視線で話しかけてくるものなど存在しない。


 相談員である竹澤や、訪問看護の今西すらも、その独特な空気を纏っていた。

 対して、ミズキには「精神病」という先入観がなかった。ただひたすらに「部屋は危険だから」と愚直なまでに伝えるばかりで、何一つ色眼鏡で見ることはない。

 久方ぶりのその人間関係の構築に、戸嶋ははっきりと安心できたのだ。


 だからこそ、戸嶋は橋場瑞希のことをすんなりと忘れ去ることができなかった。異常な出来事の数々に、今すぐ部屋を抜け出さないのは、現実的に行き先がないということもあるが、橋場瑞希のことをなんとかしたいという気持ちも、多少の錨となっていると自覚する。


 戸嶋は眠りこけていた椅子から体を起こして、現在の時刻を確認する。

 先程までの出来事はすっかり戸嶋の中で「夢」として解釈されていて、あらゆる出来事の現実感がなくなり始めていた頃である。

 その一定の余裕があるからこそ、戸嶋は先程のように、他者のことを逡巡できた。


 だが、その余裕は突然地の底まで落とされることになる。

 時計を飾っていたキャビネットの方を見ても、何もない。あるのは見覚えのないソファであり、あたりを見回してみると、そこは自分の部屋ではなかった。全く別の部屋に、自分が眠っていた椅子だけで放り出されてしまったのだ。


 戸嶋は一瞬、自分が何を見ているのか理解できなくなる。これは、どこだ? 自分はどこにいて、何をしているのだろうか。間違いなく自分は部屋で眠っていたし、そこから移動してはいないはずなのに。

 異様な狼狽が襲ってくる中で、戸嶋は先程自分が感じていた狂気的な世界の事を思い出す。


 夢の中、と言って良いのかわからないが、あの部屋と今の状況は酷く似ている気がする。

 暗く、視界のほとんどを月明かりに頼る中、明らかに部屋の家具の配置や雰囲気が変わっていた。

 同じだ。意識こそ戻っているが、部屋は何一つ変わっていない。滅茶苦茶に継ぎ接ぎにされた部屋を歩き回っているような感覚である。


 自分は一体どこにいて、何をしているのだろうか。

 部屋から逃れられないという不可思議な状況に、戸嶋の心臓は徐々に早鐘を打ち始め、音のない部屋の中で、再び異音が鳴り始める。


 戸嶋は確信した。

 自分は、悪夢の中から出られてなどいなかった。悪夢を繰り返しているだけだ。戸嶋が確信する猶予を与えた上で、徐々に輪郭を帯び始める異音は、「縄の音」だった。


 張り詰めた縄に重力が掛かり軋む音。それがぎぃ、ぎぃ、と蝶番に似た不快音を作り出し、ただひたすらに耳障りだった。

 音は寝室の真横にあるクローゼットから響いていた。その時点で、クローゼットの中で何があるのか理解できる。

 あるのだ。クローゼットの中で首を吊る死体が。


 意を決してクローゼットの中を覗き込む。

 暗がりのクローゼットを見て思わず戸嶋は拍子抜けさせられた。

 覗き込むと同時に縄が軋むような音は消え、逆にすすり泣くような音が生じ始める。想像と実在のイメージに対立が生まれ、頭の中に混乱が生じつつも、真っ暗な中で月明かりに薄っすらと照らされた、それを見つめる。


 小さな女の子だった。クローゼットの壁側に顔を向けてうずくまる小さな少女。

 戸嶋はふと、その姿が橋場瑞希なのではないかと想起するが、その容貌は彼女のどことも似ていない。

 そもそも幼少の頃の彼女がここに現れることに説明すらつかない。それであれば、この少女は一体なんなのか。何度めかわからない思考のリフレインが、がしがしと頭を擡げてくる感覚に苛まれながら、戸嶋は「君は?」と声をかける。

 声をかけると言うより、とっさに言葉に出てしまったというのが正しいところだ。


 少女がこちらに向かって振り返る。

 一瞬、その間の時間が圧縮され、めまいに囚われる。どうして、そんなことが起こったのかはすぐに理解できた。


 少女の目は空っぽで、暗くても確認することができる真っ黒な眼窩に覆われていた。


 しかしそれ以上に目を覆いたくなったのは、彼女の顔には大量の痣が浮かんでいた。

 色はよくわからないが、斑状のそれは明らかに内出血の痕であり、彼女がここで何かしら凄惨な出来事に巻き込まれたことは事実であろう。

 それを訴えるように、少女は声にならない声帯を震わせる。

 微妙に動く唇が、すでに生者とは言えない少女の嘆きを物語り、戸嶋の頭に直接「ゆるして、まま」という脈絡のない言葉を伝えてくる。


 今、この音がどこで鳴ったのかはわからない。

 鼓膜を突き破り骨伝導で識別されたような音。戸嶋は体中の皮膚が総毛立つ感覚を覚えた。

 同時に戸嶋は、ほんの僅かしかない玄関への道のりを転がるように走った。


 ここはもう、「この世」ではない。夢でも現実でも何でも良い。速く、一刻も速くこの場から逃げなくては、自分もここに飲み込まれてしまう。


 体中の筋肉が弛緩していく音が、骨を通じて響いてきそうなほど、戸嶋は走った。

 しかし、小さな部屋の距離が途方も無いほどに膨張していると思えるくらい、走っても走っても、玄関へたどり着かない。戸嶋の視界は眩暈に晒され、皮膚と衣服の間には生ぬるい汗が湿り始めていた。


 もしかしたら自分はすでに、取り返しの付かない状況まで追い込まれているのではないだろうか。


 突如今まで部屋で過ごした時間が逡巡する。

 その中にはミズキから言われた「速くこの部屋から出たほうが良い」というセリフが強調され、戻ることのない時間の後悔に戸嶋を苛む。

 これが長くこの部屋にとどまった代償なのだろうか。

 嘆きを自覚するよりも先に筋肉の悲鳴が聞こえてきそうな中、暗がりの中で戸嶋はついに玄関の扉に手をかける。


 鉄のドアノブはドライアイスでも握っているように冷たかった。激痛に身を震わせながら思いっきりと扉を開け放ち、祈るような気持ちで二〇二号室からの逃走を図る。


 一歩、足を伸ばした先。

 そこにあるはずのアパートの通路はなく、広がっていたのはただの深淵だった。

 それを認識する頃にはすでに遅く、戸嶋は真っ暗な世界に浮かび上がる二〇二号室の扉から突き落とされる。二〇二号室の外側には何があるのか、そんな疑問が今日何度も頭をかすめていたが、その答えは単純明快、「何もない」のだろう。


 戸嶋はそのまま激しい落下感に晒された。それがどれくらい続いたのかはわからない。

 しかしその感覚はつい最近覚えのあるものだった。夢の中で意識が戻るときに訪れる、真っ逆さまに地面へ激突する瞬間の心臓の爆音。

 それが戸嶋の意識を再び真っ暗な二〇二号室の椅子の上へと戻すことになる。


「一体……ここは……」


 戸嶋はびっしょりと汗で濡れた顔に手をあてがう。

 未だ、ここは暗い部屋の中。

 夢だったのだろうか? 今日何度したかわからない問いかけに戸嶋ははっきりと答えることができる。


 夢などではない。これが、部屋に閉ざされた人間の末路。ミズキが何度も警告をしていた「早く部屋から出ていったほうが良い理由」であろう。

 戸嶋はふと、窓から降り注ぐ月光の傾きに目を奪われる。光の入り方が、先程と全く変わっていない。


 ありえないことだった。月のあかりは雲や時間帯によって、完全に一致することはない。

 にも関わらず、戸嶋はすでに体感で何時間もこの暗がりを経験しているのに、物理的な時間はほとんど経過していないことになる。


 閉ざされたのだ。二〇二号室に。戸嶋ははっきりとそれを自覚した。

 異形と化した部屋の内側で、逃れることのない部屋の狂気。突きつけられた戸嶋は、現実感もなく椅子の中で項垂れた。

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