13
立山との会話を終えて「コーポ・峰山」に戻ってきた戸嶋は思わず我が目を疑った。立山の弁では二階に住んでいる住人は存在せず、「二〇三号室なんて部屋はない」ということだったが、今戸嶋の目の前には確かに、二〇三号室の扉がある。
戸嶋はすっかり混乱するとともに、「二〇三号室なんてものはない」という立山の言葉が嘘だったのかと逡巡する。
しかしその考えを、立山の人柄と態度から否定され、まるで夢幻の世界に迷い込んでしまったような焦燥に駆られた。
もはや、自分が見ている世界のどこまでが現実であり、どこから先が幻なのか見当もつかない。
自分は一体、今どこにいるのだろうか。間抜けな問いかけかもしれないが、戸嶋はいつになく真剣だった。
戸嶋はふと、今の自分が急性期の際に経験したことを思い出す。精神科への入院をしている時に苛まれた、あの一切の現実感のない病室のベッドで、座り込んでいるときと、変わらぬ非現実感にさらされていた。
ここはすでに、日常から隔絶された奇妙な領域。現実と非現実が錯綜する「特異点」なのだろうか。
戸嶋は立山の言葉の意味をすべて理解できなかったが、同時に鬱蒼とした薄気味の悪さは肌で感じる事ができ、小さく二〇三号室の扉に触れる。
手のひらに伝わってくる扉の感覚は、まさに現実のそれである。
他の壁のモルタルとは異なる材質、鉄製の冷たい熱がひしひしと伝わってくる中で、戸嶋はインターホンを鳴らした。
音は、聞こえなかった。このアパートに越してきて、外からインターホンを鳴らしたことがまだなかったからか、それがおかしなことであるかはわからない。けれども扉越しでガサゴソと音が聞こえてきて、扉が開かれた時点で、戸嶋は妙な安心感にさらされる。
二〇三号室は実在している、そう確信させる音だった。
「……はい」
ミズキは扉から顔だけを出して戸嶋へ軽く会釈をする。
部屋の中は、真っ暗だった。戸嶋から視認できるのはミズキの顔とノブを握りしめている手だけで、薄闇から見えるのは普段から身にまとっているワンピースであろう。
おかしい、こんなおかしいな見え方になるのだろうか。
ミズキの奥、二〇三号室の室内は、普通に考えて当然戸嶋が生活している部屋とほとんど同じ作りをしているはずだ。
つまり、玄関先から見える光景というのは、ほぼ二〇二号室、戸嶋の居室と変わらないはずだと言うのに、玄関扉から顔をのぞかせるミズキ以外、何一つ視認することができない。
真っ暗な闇の中に顔だけ一つ浮かんでいるようなようだった。
戸嶋は思わず息を呑む。今自分が見ている景色がおかしさに、気がついてしまったのだ。
いくらカーテンを締め切り、電気を消していたとはいえこんなことは絶対に起こらない。
扉を開けた時点で、室内には外からの光が入ってくるため、全くの暗がりになるなんてことなど、絶対に有り得ない。
だと言うのにミズキの部屋はただの闇で覆われている。
その光景が、「二〇三号室は存在しない」という立山の言葉に確信を持たせることになった。
「ミズキさん……一つ、聞きたいことがあるんです」
戸嶋はできるだけ自分の声が震えないように平静を装った声を出そうと努めた。
その努力がどれだけ実を結んでいたかはわからない。その答えは、無表情のまま沈黙を貫くミズキによって明白にされたような気がするが、戸嶋は臆せずに続ける。
「貴方は、何者ですか?」
振り絞った一言が数度残響した。
まるでエコールームに投げたような、虚しく空回る自分の声。
ミズキはそれに対して微動だにしないどころか、人間的な動作すらも失われていった。
動揺もなければ、感情一つそこには存在しない。戸嶋はふと、意識外で今までのミズキの行動が思い起こされる。
いつ会っても、彼女は同じ服装、同じ態度だった。
しかし、それでもこれまで不審さを感じることはなかった。
振る舞いそのものが人間的であり、自分に対しての最低限の思いやりを持っていた気がする。
彼女から語られる言葉は、何度も「二〇二号室から出るように」と促していた。
けれどその態度が、「意志を持つ死体」のように考えれば、妙に噛み合ってしまう。この奇妙な出来事の歯車を。
「……先程知りました。このアパートに二〇三号室は存在しない、貴方は一体、いや、ここは一体、なんなんですか?」
そこまで言っても、彼女は沈黙したままである。
慌てふためいて言い訳をすることもなければ、極端な拒絶の念を表すこともない。
ただ死人のような眼差しで、部屋と外界の縁に立ち尽くしている。
戸嶋は彼女からの言葉を待った。随分と長い沈黙のようだが、おそらくはほんの数秒にも満たない微かな時間なのだろう。
呼吸を止めても苦しみを感じる前に、沈黙の終わりがやってきた。
「戸嶋さん。貴方はここについて知りすぎましたね。今すぐ、部屋に戻ることなく、出て行ってください。私のことも、もう二度と調べないでください。いいですね?」
ミズキは一切表情を変えることなく淡々とそう言い放ち、扉を閉めにかかる。
戸嶋は意味が分からず、扉に足をかけて「一体どういうことなんですか!?」と食い入った。それでも、彼女は表情を一切変えることなく「言葉通りです」と同じ内容を反芻した。
ミズキの主張は一貫していた。
「部屋から出ていけ」それだけの事柄のみをこちらに伝えており、「二〇三号室」という存在しない事象が判明した今なおそれは変わらなかった。
それに対して戸嶋は思わず感情的に声を荒らげてしまう。
「一体、どういうことなんです!? お願いします、貴方だけが頼りなんです……もう、自分が見ているものが現実か、そうじゃないかすらわからないんだ!」
「……前に言いましたよね。貴方が見て、経験しているものは、紛うことなき現実です。貴方が精神病を持っているとか、そういうことは関係ありません。貴方は二〇二号室に近づきすぎました。今すぐ去らないと、飲まれますよ?」
「……飲まれるって、何に飲まれるっていうんだ?」
「あの部屋は、というよりあの空間は……それそのものが人間が知り得てはいけない存在。知ってしまえば気が触れて、この世のものではなくなってしまいますよ。だからあれほど、言ったのに」
ミズキはその言葉を残して、扉を完全に閉じた。
しかし戸嶋は、扉が暗がりに閉ざされる瞬間、ミズキの口元は小さく動いていたことを見逃さなかった。
「私のように」微かな音の揺れが意味を持った瞬間、すでに二〇三号室の扉は存在そのものが消えてしまっていた。
彼女が言っていた言葉の意味は、何一つ理解されることなく、戸嶋は眼の前に広がっている壁に手を置いた。
今の光景が現実であったかを確かめる。手に残る感覚は、熱を持たないただの外壁に成り下がり、先程手を置いていた、鉄製の扉の冷めた熱は、もうどこにもなかった。
指先を弄っても、扉の感覚は戻らない。
戸嶋は顔をしかめて、踵を返して自らの部屋、二〇二号室の扉を開き、項垂れながら帰宅することになる。
とにかく、疲れた。
色々な出来事が頭の中で爆ぜては脳神経に熱を与えているようだった。
疲れ切って、何をしようにも、頭に霞がかったような感覚が残り、戸嶋はその日をそのまま終える。当然、そのまま布団でぐっすりとということにはならず、椅子に腰をおろしてただひたすらに目を閉じる。
必死だった。何が起こっても、瞼だけは閉じていようと腹に決めて、戸嶋は座った状態で毛布に包まり、必死に眠りにつこうとする。
幸い体の疲弊が入眠を手伝って、戸嶋はものの数分で意識の糸を切らす。
事切れたような意識の喪失は、睡眠というよりは気絶に近く、幸いなことに途中で戸嶋の意識を覚醒することもなかった。
しかし、戸嶋は知らなかった。ミズキの行った忠告は、まさに「最後の警告」であったことを。
部屋で起こるあらゆる出来事は、現実。
そこに戸嶋の病気は一切関与する事なく、ただただ無慈悲に振る舞いを続けるのみだった。
戸嶋にとって悲劇だったのは、最後の最後で牙を向けた、二〇二号室の異変が、「二〇二号室の外扉」で起こってしまったことである。
勿論、それを中にいる戸嶋が確認するすべは存在しない。
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