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 投稿者から指定された場所は、「コーポ・峰山」から徒歩一五分ほどの喫茶店だった。

 古びた老舗といった雰囲気で入ることを憚られたものの、お互い人混みが過ぎるところで話し合うことは苦手ということもあり、静かで干渉のないそこが選ばれる事となる。

 外観に対して内装は非常に瀟洒であり、いかにも昭和に建てられた最先端の洋風と言わんばかりの作りである。

 淡いオレンジ色のシーリングファンの音を挟むように、来店時の扉を鳴らす鐘の音が店員を呼べば、気だるげなマスターが戸嶋を一瞥すると「あの方のお連れさん?」と最奥のボックス席を指さした。そこには生真面目そうな青年が座っていて、入り口に立っていた戸嶋に気がつくと立ち上がって静かに頭を下げた。


 戸嶋はその態度に引っ掛かりを覚える。「どうしてこちらのことをすぐに分かったのか?」という、在り来りな疑問。

 そういえばとメールの内容を考えると、互いに何かしらわかりやすい目印を決めておくべきだったと思い直してしまう。場所と待ち合わせ時間だけを決めただけで、お互いの目印になるようなものを決めていなかったのだ。にも関わらず、投稿者である生真面目な青年はこちらにすぐに気が付き、会釈までしている。


 その態度に引っ掛かりを抱きながら、戸嶋はボックス席まで足を運ぶ。同じように目の前で会釈をして「掲示板の方ですか?」と、少し声を潜めて確認すると、青年は首を縦に振る。

 その速度感は待ちに待ったと言わんばかりで、彼もまた何かを抱えているような雰囲気をまとっていた。

 一言で言うならどこかおどおどしたような雰囲気であり、気弱な印象を受けるものの、それは彼自身が発しているというより、「なにかに怯えている」と言い表したほうが適切かもしれない。

 神経質そうに周囲へ目配せをする彼の態度は、なんとなく急性期の自分と重なって思えた。


「直接お呼び立てして申し訳ございませんでした。僕、近くの大学に通っている立山光一と申します」


 最初に口火を切ったのは、過去二〇二号室に暮らしていたという立山の方だった。具体的な自己紹介はなく、足早なことから「一刻も早く二〇二号室について知りたい」という性急さが漏れ出ている。


 それと同時に戸嶋は、「立山光一」という名前に見覚えがあったような気がして、ほんの数秒意識を飛ばす。その態度に立山は訝しそうに戸嶋を見つめるが、すぐに立山の名前を見た場所を思い出した。


 「コーポ・峰山」の大家である野中が一瞬だけ見せた「過去二〇二号室に住んでいた住人名簿」の中で、直近まで二〇二号室で暮らしていた住人、それが「立山光一」だったはずだ。

 つまり彼は、自分が引っ越してくる前まで、部屋の住人だったのだ。それがネット掲示板を通じて巡り巡ってくるということはなんとも因果なことであると感じつつ、戸嶋も自らの名前を名乗る。


「今、二〇二号室に住んでいる戸嶋です。立山さん……もしかして、私が越してくる前まで、あの部屋にお住まいだったのでは?」

「えぇ。直前まで、あの部屋に住んでました。とはいっても、たった半年程度ですが」


 立山は淡々とした調子でそう話しており、思わず戸嶋は不思議な感覚を抱かされる。

 関わりの端々で生じる違和感。おどおどした様子はあるのに、部分的に何処か、「そこに言及しないのか?」というズレを纏っているようだった。そのズレが最初の疑問符と結びつき、更におかしな雰囲気を強調する。


「あの、立山さん、部屋の前にお聞きしたいことが、あるんです」


 戸嶋は言葉を切らしながら、絶え絶えの声を振り絞る。自分がこれほどまでに人との関わりができなくなっていたのかと愕然とするほど、声が出なかった。

 現れた感情と口から出そうとする言葉が結びつかず、妙に振り絞るような力の出し方をしてしまい、不自然な発声になってしまっている。

 戸嶋は思わず顔をしかめたが、立山は真剣な眼差しで「えぇ」と相槌を打ってくれる。

 そこに軽蔑の態度は一切存在せず、ただただ真剣な眼のみがこちらを向いていた。緊張はあれど、相手に敵意や軽蔑の念が存在しないという事実が安堵を産み、戸嶋は深呼吸の後に、今までの疑問符を一気に吐き出した。


「どうして先程、私がメールの送信主だとわかったんですか? 合図や目印もなしに……」

「いや実は、僕もそれを忘れてしまったと思ったんですが……」


 立山はそこで言葉を詰まらせる。同時にそこには申し訳無さそうな顔が浮かんでいる。言葉を躊躇っている様子の彼であるが、やがて決意を決めたように話し出す。


「戸嶋さんが、なんとなく他の人と違っていたので……変な意味ではなくて、あの部屋に住んでるんだなっていう、なんていうんでしょうか。僕もあまり理解できていないんです。ただ、雰囲気でっていう感じで」


 立山の言葉に戸嶋は一瞬、憤りを感じた。「他の人と違っていた」という言葉が率直に「精神病を持っているから」という思考に結びつき、それを指摘されたことに対しての憤りである。

 確かに文面と会ったときの態度から、「なんとなく精神病っぽい」と言われることは、ない話ではない。そのマイナスの経験が戸嶋にとって癇に障るものがあり、頭に熱が上る感覚を抱く。


 しかし冷静になってよく考えてみると、立山はあくまでも「部屋を基準に」判断している。

 あの部屋に住んでいるからこそ生じる何かがある、言い換えればそう解釈する事もできる内容に、戸嶋の頭はすぐに冷静さを取り戻す。


「あの部屋に住んでいると、何かが変わるっていうことですか?」

「僕が感じるだけ、だと思います。この感覚についてご理解していただくためには、僕があの部屋で起きたことをお話するところから始めなければいけません」

「概ねは、掲示板で確認していますが、もう一度、いいですか?」


 立山は神経質そうに辺りを見回しながら、小さく語りだす。

「大学進学のためにこっちに出てきた僕には、とにかくお金がありませんでした。だから場所が悪くても、ある程度の家賃で暮らせる物件があそこ、コーポ・峰山でした。相場から安いのは気になりましたが、曰く付きでもないし場所柄の家賃の安さだろうと考えて、入居したことを今でも後悔しています」


 話を聞きながら戸嶋も「ほぼ同じ状況である」と心のなかで反芻する。


「暮らしている中で変なことが起きたのは入居初日の夜でした。金縛りと人が歩く音、人の気配なんかの感覚です。最初は精神的な疲れからくるものだと思っていたんですが、それが何度も続いて、最後には、自分の顔をしたヤツが、自分の体に乗っかることが多くなっていきました。流石に毎日こんなことが続くのはおかしいと思って、僕は部屋でなにかあったと仮定して、二〇二号室のことを調べていきました」


 立山はそこまで話して、ガサゴソと新聞記事を取り出した。

 見る限り古い新聞紙のようで、彼はその中の一部分、見落としてしまいそうな小さな部分に書かれた記事を指さす。

 そこにはこの地域周辺を示す言葉とともに「女性会社員が行方不明」という見出しがあった。

 内容としてはこの辺りに住んでいた女性会社員が失踪したというものであり、情報提供を求めるものだった。

 被害者の名前は「橋場瑞希」、新聞に記事を寄稿したのはその親族であるようで、「行方不明になった家族を新聞の力で探そうとした」と受け取ることができる。

 現に、情報提供の欄には「橋場明智」という、同様の名字の人物が書かれていた。

 戸嶋は思わずその新聞を食い入るように確認する。「これは?」と疑問符が生じるよりも先に、立山はこの記事について言葉を滑らせる。


「唯一、あの部屋で起きたかも知れない、事件です」

「……どうしてこれが、あの部屋で起きたと言えるんです?」

「野中さんから、なにか話を聞いていますか?」

「いえ、特に何も……というより、私は持病を持っていて、それが理由でさっぱりと交流もなくて」


 中途半端に本当のことを述べてしまったことが後ろ髪を引くが、立山はそんなことよりも部屋のことに興味があると言わんばかりに「そうですか」と深い言及をすることなく、野中が漏らした出来事を語る。


「部屋の曰くについての話を聞く時、自分が知っている限りだと二〇二号室で起きた事件という事件は、夜逃げくらいだった、そうなんです」

「夜逃げ?」

「えぇ。なんでも過去二〇二号室に住んでいた左官の男が何も言わずに自分の恋人と共に、家賃の三ヶ月分を滞納してそのまま部屋から消えたそうなんです。まるで忽然と消えたような、不自然ないなくなり方で、家賃滞納があったことから、夜逃げだと判断されたそうなんです。塗装を取り扱う大工の若手だったらしいんですが、その夜逃げした若者と交際していたという人物が、先程行方不明になったという橋場さんに似ているそうなんです」

「つまり、恋人と夜逃げを選んだ、って言うことですか?」

「単純に考えればそうなんですが……、このあたりから部屋で再びおかしなことが起こるようになったんです。それが、あのドアスコープの出来事です」


 例の掲示板に書かれていたもので、「自分の過去を映し出すという異様なドアスコープの出来事」だった。

 戸嶋は話を止めるのはどうかと思ったが、自分も体験したドアスコープのことについて聞きたいことをぶつける。


「そのドアスコープのことなんですが、あれは本当に、立山さんの過去なんですか? 実は自分も、同じような経験をしていて、ドアスコープから同じような景色を見たんです」

「そうでしたか……でも、正直僕も、あれがなんだったのかはわからないんです。僕の母親は毒親だったかもしれませんが、同じようなことを経験している人だって大勢いるはずです。だから、自分の記憶かどうかはわからない。でも確実に、ドアスコープにはおかしな光景が現れた……これだけの事実でいいと僕は思います」


 戸嶋の疑問符に対して立山の答えは随分と曖昧で、妙に抽象的な言い回しである。その言い方に立山の怪奇現象に対しての複雑な心境を物語っているように思わされた。

 そんな中で戸嶋は「話を遮って申し訳ない」と頭を下げて立山の語りを促す。そんな戸嶋に立山も小さく会釈し、再び話を本筋へと戻した。

「ドアスコープの出来事、最初は全然違ったんです。夜中に扉を叩かれるけれど、そこには誰もいない。ドアスコープを覗いても、そこには何もなかったんです」

「というと……掲示板で書かれていたのは、真夜中のノックから暫く経った後、ということですか?」

「正確に言えば、僕が夜逃げの件について、この記事を見つけてから、ドアスコープに過去の自分が映るようになったんです。この時、僕は理解できてなかったんですが、今になって思うんです。もしかしたら、あの部屋について知れば知るほど、おかしな現象が増えていくんじゃないか、って」


 戸嶋は思わず顔をしかめた。

 頭に浮かんだのは自らもドアスコープを覗いた時の出来事である。立山が言うようにあの時自分は、「掲示板で二〇二号室の話を見た後」に起こった。彼の言う、「部屋について新しい情報を得る」というものに合致している。


 よくよく思い返して見ると、戸嶋には立山のように新たな怪奇現象が発生していない。

 新たなに起きた違和感がドアスコープの出来事であり、立山のような緊急的な怪異へは遭遇していないのだ。

 そんなことを思い返していると戸嶋は、自分と立山の体験の中で明らかに異なっている部分があることに気がつく。

 ノック音だ。壁の一部分を頻りに叩き続けるあのノックの音が、話に一切できていていない。戸嶋があの部屋で最も悩まされたであろう怪奇現象が、立山にはなかったのだろうか? 溢れた疑問はすぐに言葉に表現され、戸嶋は話を切るように尋ねた。


「……立山さん、話が変わるようで申し訳ないが、金縛りの時に、壁を叩くような音を、聞きませんでしたか?」

 立山はそれに嫌な顔を一つせず、「壁を叩く音?」と戸嶋の言葉を反芻する。

 それから顎に手をおいて自分の記憶を辿っているようだが、答えに行き着くことはなく首を横に振った。


「聞いたことがありません。僕が聞いたのは、玄関ドアを叩く音くらいで……戸嶋さん、詳しく教えてもらってもいいですか?」

「えぇ、自分も同じように金縛りに襲われることが多かったんですが、その時に真っ黒い影の塊が、壁を叩くんです。ちょうど二〇三号室の方の壁を、延々と叩き続けていました」


 そこで、空気が変わる。戸嶋ははっきりと立山の呆気にとられた表情を確認し、寒気が生じた。

 この感覚はなんなのだろうか。掛け違えたボタンをはっきりと自覚するような、不思議な感覚。しかしながら戸嶋は、その感覚が明らかに恐ろしいものであるとはっきりと理解していた。


 だから、立山から溢れた「二〇三号室って?」という言葉の意味をすぐに理解することになる。それでも即座に受け入れる事はできなかったようで、「いや、隣の部屋……女性が住んでましたよね?」と祈るような思いで立山に言葉を返す。


 一瞬、間が生まれた。ついで映ったのは蒼白になっていく立山の顔。気がつく頃には「二〇三号室は、あのアパートにはありませんよ」と、震えた声で鼓膜に触れていた。


「え?」

「あるのは二〇一号室と、二〇二号室ですよ。戸嶋さんの言うように二〇二号室の壁側を叩いていたなら、そこから先は壁しかないんです」

「……二〇三号室が、ない? 女性が……ミズキさんっていう女性が住んでいましたよね?」


 そう、女性が住んでいたはずだ。

 それを確認するように縋るような眼差しを立山に向けても、彼は未だ蒼白な表情で首を横に振る。そこから先の話が恐ろしいほど聞き取れない。


 いつか、相談員の竹澤と話したときのことを思い出す。感覚としてこの場にいるのは理解できるというのに、相手が何を話しているのか、自分がどう受け答えてしているかがとにかく曖昧で、とりあえず「二〇二号室以外に二階の住人はいない」という事実だけが頭の中に入ってきた。


 衝撃が、体中を鳴らすようだった。

 自分が見てきたものが途端に信用できなくなる。あの部屋で起こってきたあらゆる出来事はなんだったのだろうか。

 現実感が薄く体中を包む膜のような非現実がまとまりつく。鼓膜にずれ込む嫌な感覚が劈いては、倒れ込みそうになる。だが、何度も響く立山の声で現実へ引き戻された。


 「どういうことですか?」そんな声が聞こえてくるも、どうにも彼の声まではるか遠くの出来事のように思えてしまう。


 戸嶋はこれほどまでに大きな衝撃を受けたのは、持病により自分ですら現実と妄想を区別できなかった時に、唯一の「現実」の尺度となっていたのが、隣人であるミズキであったからだ。

 彼女は現実に存在していて、自分の中で唯一、確実に現実だと言えるもの、そのイメージが一瞬にして倒壊していくようだった。

 それすらも、自分が創り出した幻影だったのか? 

 崩壊した現実を突きつけられたような感覚がいまだ足先をふらつかせ、頭にフラッシュを焚いたような眩暈が視界をぐらつかせる。


 明らかに、狼狽しているであろう戸嶋は、立山の声などほとほと聞こえなくなっていたが、立山は噛みしめるように戸嶋へ言葉を投げる。


「……戸嶋さん、二〇三号室が、あったんですね?」


 そこで漸く、戸嶋は現実に戻ってくることができた。

 信じられないが、戸嶋のことは信じているような声音。無理もない話だ。こんなことを聞かれてまともに取り合ってもらえるほうが異常である。

 立山が真剣な面持ちでそんな態度に出たのは、彼もまた「二〇二号室」を経験した異質な存在だからであろう。

 戸嶋の推察を確信させるように、立山は「おかしな話ではないかも知れない」と語りだす。


「あの部屋での出来事は、人に話しても信用されません。僕がそうでした。あの部屋で起きた数々の異常事態に対して、誰一人信じてくれる人はいませんでした。自分がおかしいんじゃないかって、何度も思いましたよ。だから僕は戸嶋さんのことを信じます」

「立山さん……貴方も、そんな経験が、あったんですね」

「えぇ。だから、その……僕の話も話半分に聞いてください。戸嶋さんはあの部屋で、存在しない隣の部屋を見た。だけど僕はあの部屋にいるだけで、色々な人間の人生を垣間見ているような気がするんです。ドアスコープからの景色もそうですし、それから先に起きた出来事も……」


 立山はあえてそこから先を語ろうとしなかった。彼自身、そこから先を語るのは不快極まりないことなのだろうと容易く理解させる態度である。だがそこから転じて、立山はとある仮説を立てたという。


「あの部屋について、僕なりに調べてみたんです。確かに、あの部屋は事件こそ起きてはいませんが、住むときの居心地の悪さは常にあるし、漠然とした、おかしな感覚がありました。それで、突飛かも知れませんが、僕はあの部屋が、特異点なんだと思うんです」


 戸嶋は、何分か前の立山の言葉である、「自分の言葉を信じるな」という言葉が湧き上がる。

 一体彼は何を言っているのだろうか。あっけにとられている戸嶋に立山は更に続けた。


「特異点という言葉をご存知ですか? 物理学でいう……なんていうんだろう、簡単に言えばこの世のあらゆる常識が通用しないとある地点、という感じです」


 戸嶋は自分がさらに顔を歪めていることを実感した。

 正直なところ、昔物理学の授業を受けたときの感覚に似ている。はっきり言って本当に言っている意味が理解できない。別の言語で延々と話されているような感覚だ。

 しかし偶然にもその感覚は的を射ていたようで、立山は「量子力学」を専攻としている学生なのだという。

 だから特異点のことも「正確には一般相対性理論から生まれる……」と話しているが、戸嶋にはその言葉を理解する事ができなかった。


 一方で彼の言う「この世のあらゆる常識が通用しない地点」という言葉は、二〇二号室という異質な部屋を言い表すにはもってこいの言葉であるように思えるのもまた事実である。

 話が微妙に噛み合わない戸嶋と立山の会話を繋げていたのは「二〇二号室の特異性」であることは言うまでもなく、戸嶋もそれがあるからこそ、黙って立山の話を咀嚼する。


「物理的に、その特異点というあらゆる常識が通用しない地点というものは生まれる可能性があるんです。だから、ブラックホールでそれを覆い隠してしまうのではないか、そういう仮説があるんです」

「立山さん、申し訳ないが私には、その特異点っていうものがなにかとか、ブラックホールがうんぬんっていうのは理解ができない。まとめて、どういうことなんだ?」

「あぁ申し訳ありません。つまり、あの部屋は、というよりあの空間は、この世のものではないのではないか、ということなんです」

「この世のものではない……、この世のものではない場所だから、我々は、幻覚を見るし、金縛りにも遭う、ということか?」

「それだけじゃない。そこで起きたあらゆる出来事を追体験するんです。ドアスコープ越しの自分の過去、それはもしかすると、過去そこに住んでいた人間の記憶の蓄積かもしれません。あの部屋には、そういう特異性があるのではないか、ということなんです」


 正直、立山の言葉は未だ理解できなかった。

 爪の先程度の理解すらできていない戸嶋にとって、彼の言葉の妥当性を推し量ることはできない。にも関わらず、立山の表現は随分と適切にあの部屋を描写しているようだった。

 「この世のものではない場所」「存在しない幻覚」「他人の記憶を追体験する」、場所そのものに残る気味の悪い感覚がそれらを「特異点」という言葉で結びつかせた。


 立山は、彼の理屈に合わせて「特異点」なる呼び方をしたが、戸嶋の言葉に言い直せば「この世のものではない場所」というものが実にしっくり来る表現だった。


「あの場所は、この世ではないんでしょうか?」


 戸嶋から滑り出した疑問符は、立山もはっきりと断定する事はできず、ただただ言葉を濁すことしかできなかったが、概ねそこが戸嶋と立山の妥協点であると言わんばかりに首を縦に振る。


「そう言えるのかもしれません。あの部屋そのものが、全く別の世界、常世とでも言えるのかもしれませんね」

「だとすれば……私が見た、ミズキという女性は……」


 そこで戸嶋は、テーブルに出ていた新聞記事から、先程話に出ていたコーポ・峰山付近で行方不明に鳴った女性の名前を確認する。

 「橋場瑞希」、名前は二〇三号室の女性と同じ、「みずき」だった。瞬間戸嶋は怖気を感じる。


 もし彼女が、この世のものではない存在だとするなら? 立山との話に出てきた「常世」、つまりはあの世に近い場所であるという推測に、嫌になるほどの説得力が纏わりつく。

 そんな戸嶋を見て立山は神経質な顔を浮かべる。同時に何かに気がついたようで足早に言及する。


「もし、戸嶋さんが見た女性がこの人なら、できるだけ早くあの部屋から出ることをおすすめします」

「……どうして?」

「僕にはその女性は見えませんでした。もし、戸嶋さんが言うようにあの部屋が、あの世に近い場所なら、きっと僕より戸嶋さんは波長が合うのかもしれない。フィクションの話かもしれませんが、波長が合えば合うほど、部屋から受ける影響も大きくなると思うんです」

「そう、ですよね」


 戸嶋は同じことを思わされていた。立山の言葉は確かに荒唐無稽で理解できないものもかなり多い。

 しかし、戸嶋は突きつけられた気味の悪い事実に鳥肌が止まらなかった。自分が見てきたあらゆるものが否定され、この世のものではない場所という表現が恐ろしく似合うあの部屋。


 戸嶋は愕然とさせられた。今日もまた、あの部屋に帰らなければいけないことに。

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