第四章 部屋の住人

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 掲示板の投稿者への文面は自分でも驚くほどに簡素だった。


 「コーポ峰山の二〇二号室の住人です。話に興味があり連絡させていただきました。もし貴方の投稿が、コーポ峰山の二〇二号室での出来事であれば、お返事いただけると幸いです」、本当に僅かな文面のみで表現されたメールの送信から連絡が届いたのは翌日の明朝である。

 件名すらも書かれていないメールであり、読む前から大体の内容は察する事ができるもので、そもそも返信があった時点で、この投稿者は「コーポ・峰山」と何らかの関わりがあることを示唆している。でなければこんな簡素な文面に返信することはありえないだろう。


 内容は予想通り、「自分もコーポ・峰山の二〇二号室に住んでいて、あの出来事はそこでの出来事だった」ということである。

 掲示板に書かれた内容の全ては実際に体験した出来事であり、嘘偽りのない実体験だと書かれていた。しかしその先は戸嶋も予想外であり、「部屋で生活する前と後では、何かがおかしくなった」ということなのだ。


 具体的に言うと、「幻覚を見るようになった」のだという。それは世間で語られるような心霊の類であったり、他の人間の心の声のような奇妙な出来事の数々と文面を読む限りは解釈することができる。まるで元々何もなかった人間が「心霊体験」を通じて「霊感体質」になったような話と思える。

 これがどういう意味なのかは判断がつかないが、少なくとも投稿者に何かしらの変化が生じたのは事実であろう。

 それが一体どのようなもので、どのようなことが起こったのかはわからない。それでも戸嶋はこの文面に書かれている内容が作り話だと決して思えなかった。

 この部屋には何かがある。それは人知の及ばず、事故物件なんてチープな言い方では表現しきれない、なにかかもしれない。きっと投稿者も同じことを感じ取り、もっと深いところもまで「部屋」のことを理解してしまったのではないだろうか。


 ふと戸嶋の頭に、二〇三号室の住人であるミズキのセリフが過る。

 「部屋について深く知ってはいけない。早く二〇二号室から立ち去るべき」細かい言い回しは覚えていないが概ねそんなものだったような気がする。もしこれがそのまま、「部屋について知れば知るほど危険」という意味であれば、自分がやろうとしていることはとんでもなく恐ろしいことなのではないだろうか。


 降って湧いたような疑問に対して歯止めをかけたのは、昨日のインターホンである。

 投稿者の実体験と酷似したものが、自分にも起き始めている。これだけの事実ですでに、この部屋が持っている「なにか」について十二分に見せられていた。

 ちらついた超常的な存在が自身の生活に食い込むことで、危険な好奇心がゆらゆらと目の前で揺蕩っていることを肌で感じる。気がつけばメールの返信を書き込んでいた。


 自分にも似たようなことが直近で起こったこと、できれば投稿者が知っている情報について教えてもらいたいこと、どのような経緯で投稿者は引っ越しをするに至ったのかということ、山のようにある聞きたいことをできるだけ絞った上で文章に落とし込んでいく。

 できるだけ堅い文章にならないように心がけるものの、客観的に見てそれが適切であるかは分からず、送信まで尻込みしてしまうが、ここに来て「引き返す」という選択はなく、ほんの数回の躊躇いを持って、投稿者へ返信を送る。


 メールを送信してから、再度メールを受信するまでの間、一時の沈黙が部屋の中に流れた。この部屋は、なにか隔離されたように音が聞こえてこない。

 鉄筋づくりということもあるのだが、隣人の生活音すらほとんどしないのだ。静かなことは良いことだとずっと思っていたが、この物件に限っては別の見方も出てくる。


 この「二〇二号室」だけが他とは異なる隔絶された空間だったら?

 そう考えれば、この部屋に多くの情報が届かないことについてもなんとなく合点がいく気がした。なんの変哲のないただのアパートの一室に対して、大仰な言い方ができるのはこの部屋の空気感が明らかに違っているからかも知れない。

 そんな逡巡に駆られた戸嶋だったが、それを説明できるほどの言葉は持ち合わせておらず、ただただ薄気味悪さを感じるほどの静謐に心臓の音だけが添えられている。

 黙りこくっている最中、戸嶋は立ち上がって寝室の壁の前に立つ。何度も、黒い人型のなにかによって叩かれていた壁あの人型は、しきりにこの部分の壁を叩いていたはずだ。

 ここになにか、あるのだろうか。漠然とした考えが起点となり、戸嶋も同じように扉を叩いてみる。扉をノックするような音がくぐもったまま反響するばかりで、微かな波を残して音は消えていく。特に、壁そのものに変わったものはないように思えるし、毎夜ここが叩かれる理由もさっぱり検討がつかない。


 壁。叩かれている理由。


 戸嶋は逡巡させられる。もし、ここで起きている奇妙な出来事が、本当は「二〇二号室が原因ではない」とするのであればどうだろうか。

 二〇二号室のことばかり調べていたため気が付かなかったが、もし仮に隣の「二〇三号室に原因がある」と考えると、この壁のことも含めて合点がいく。


 二〇三号室の間取りは視認したことがないため分からないが、このアパートの階下の間取りはすべて、全く同じ作りの部屋が二つ並んでいたはずだ。普通に考えて二階も同じ間取りで作られていると考えて良いだろう。

 壁を目の前にしている戸嶋の真後ろにクローゼットがあるため、「間取りがすべて同じ」という前提を踏まえるなら、壁が叩かれた場所はクローゼットに当たるだろう。

 戸嶋はふと昔読んだ怪談を思い出す。部屋で殺人事件が起きて、その死体が押入れに遺棄されたというものだ。遺棄された被害者は自らの存在を知らせるため、近隣の住人に知らせようとし、あえてその場所を示し続ける。古典的な怪談と言われればそれまでだが、妙に合点がいってしまっている自分もいた。

 それにもし、これがこの部屋の曰くに近いのなら、調べても調べても「コーポ・峰山」での事故情報が出てこないことに恐怖を抱かせられる。

 遺棄された被害者がもし、未だこの壁の向こう側に居るのであれば?

 その部屋は今、ミズキが住んでいる。恐ろしい可能性でありながら、戸嶋は無意識に固唾を飲まされていることに気がつく。人間、起きている現象に何かしらの理由をつけたいからか、必死に理由を探してそれらしいものを見繕ってしまうのだろう。


 だが、それでもこれなら「二〇二号室が事故物件ではない理由」にもなる。事実の有無はこの際どうでもよく、戸嶋にとって精神的な安息をどれだけ生じさせることができるかのほうが重要だったのかも知れない。


 そんな嫌な想像をしていると、パソコンから通知の音が鳴り響き、それがすぐに先程のメールの返信であると期待して、ディスプレイの前に戻れば、案の定、投稿者からのメールが届いていた。

 内容はかなり意外なもので、「最近まで二〇二号室に住んでいた」ということと、「引越し先もさほど遠くではないから、会って話さないか」という旨である。

 正直持病のこともあり、直接会うのは躊躇われたが、投稿者がお互いの危険がないようにと、近場のカフェを選んでくれたことから一定の信頼が湧き、戸嶋はこれに同意する。

 待ち合わせ時刻を確認するメールを飛ばせばすぐに返信があり、なんと今日これから、一三時には会うことができるということだったので、戸嶋はすぐに約束を取り付ける。

 あまりにもとんとん拍子に話が進んでいることに驚きを隠せないが、部屋について知ることができるチャンスとしてはこれほどまでにない好条件である。戸嶋はなんとなく、この気を逃すことができないと考え、いそいそと外出の準備を始める。


 しかし、戸嶋は盲点だった。

 自身の持病が「新しい人と会う」ということが非常に大きな負担になるということをすっかり忘れていたのだ。

 ある種の高揚によって生じた全能感によっていそいそと返事をしてしまったが、公共的な場所では余計、幻覚症状が激しくなる事がある。

 それに加えて今はこんな状況だ。些細なことでも過剰な幻覚症状が生じてもおかしくはない。戸嶋の幻覚は主に「幻聴」であり、特に人混みほど自分を罵るような言葉が聞こえてくる傾向にある。今はそこまで過剰ではないが、久しく人混みを避けて行動していたため、どのようにそれが出てくるかは未知数だ。


 急に外出することへ恐怖が生じ始めた戸嶋は、一旦息を整えるために、冷たい水を一気に喉へと押し込み、服薬箱から急激な症状の悪化があったときのために頓服薬を取り出した。

 症状の浮き沈みが激しい統合失調症の頓服薬は、状態が酷い時に飲めばある程度症状を緩和してくれる。万が一に常に持ち歩いているが、最近では近場の移動が多かったため、使用はおろか持ち運ぶことも少なかった。


 これを使うようなことはしたくないと抱きながらも、不安が先走った戸嶋は、頓服薬や財布、スマホなど最低限の装備を整え始める。とはいっても、支度するまでにかかる時間は、健常者と比べるとかなり遅い。具体的に戸嶋は、色々な可能性を想定してしまい「あれは必要か?」と考えてしまうため、なかなか家を出ることができないことが多くある。

 そのため外出までの時間を決め、それに従うように行動していた。こうすればある程度のことは諦めをつけて動くことができるため、戸嶋には比較的合った方法である。


 この日の外出は急であったため、比較的早くその時間が来てしまい、最後にカバンの中に最低限の手荷物が入っていることを確認して、玄関の扉を開ける。

 昨日のことがあったため、念のためドアスコープを覗き込み周囲を確認するも、昨日のような異常事態はなかった。

 いそいそと玄関を開き鍵をかけていると、アパート階段の鉄板を鳴らす足音が響いている。この音は確か、ミズキのヒールの音だろう。

 戸嶋の推測をすぐに現実へするように、通路にミズキが現れ軽く会釈をする。相変わらず青い顔を浮かべており生気が感じられないが、「戸嶋さん」と向こう側から声をかけてくる。

 ミズキは変わりなく、二〇二号室の異変を気にしているのか、戸嶋にそう確認する。


「あの後から……大丈夫ですか? 変なことは、起きていませんか?」


 戸嶋はその答えに悩まされた。

 昨日のインターホンの件について、話してしまおうか。しかしそんなことを話しても、という迷いの気持ちが働いた。それに対してミズキは、隠し事を看破するように「何か、あったんですね」と神経質な表情をシワとして顔に刻む。


 その態度に戸嶋は耐えられず、昨日の出来事を話した。

 できるだけ簡潔に、自分の過去には触れないように。幸いなことにミズキはそれで十分だったようで、声色を毅然としたものとして「戸嶋さん。難しいことはわかりますが、一刻も早くここを出てください」と深々と頭を下げる。


 戸嶋は疑問だった。どうしてこの隣人は、ここまで関係のない自分のことを気にかけるのだろうか。ミズキは戸嶋の病気のことも知っているし、なおのこと「おかしなことを言っている」と考えてもおかしくないのに。

 尤も、戸嶋にとってそれは不幸中の幸いなのだが、どうにもミズキの肩入れには引っ掛かるところも多い。


 その態度と、戸嶋の先程の逡巡が嫌な噛み合いを見せた。「本当の事故物件は二〇二号室ではなく、二〇三号室なら?」その仮説が、彼女の態度を補完するようだった。

 溢れた好奇心は言葉になり「もしかして、ミズキさんの部屋にもなにかあるんですか?」と、できるだけ穏やかな言葉で尋ねれば、彼女は一瞬押し黙る。

 その態度はすでに「二〇三号室は何かがあります」と言っているように見えて、戸嶋はどきりと心臓が早鐘を鳴らす。


「ミズキさん?」

「……二〇三号室は、なにもありません。危険なのは、貴方の部屋なんですよ」

「はぁ、ご忠告いただきありがたいのですが、なかなかこの身分、引っ越しも難しくて」


 戸嶋の言葉にミズキは再び黙り込む。当然二〇三号室の話題はすでに触れる選択肢はないようで、話は突如「ドアスコープ」へと戻る。

「戸嶋さん、ドアスコープは、もう覗かない方がいい。それを見るたびに、貴方は部屋の力にあてられるから」

「……わかりました。できるだけ、見ないようにします」


 薄いその会話の後、戸嶋は頭を下げてミズキの横を通り過ぎていこうとする。

 そんな戸嶋に釘を差すように、ミズキは再度「あの部屋について、調べないようにしてください」と念を押す。戸嶋はこれに「ありがとうございます」と感謝の言葉を述べながら、自分の態度がおかしなことになっていないか心配になる。


 今まさに、その禁を侵そうとしているのだから。

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