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 一連の出来事の根源に二〇二号室があると確信した上で、自室の玄関を開くことは、それまで経験したことのない感覚だった。

 

 見ている景色は同じなのに、ただひたすらに恐ろしい。

 錆びついた蝶番の音が耳鳴りのように鼓膜に触れ、床を引きずるドアがノブを通して、不快さを手のひらに伝えてくるようだった。目の前に飛び込んでくる自分の部屋は、それまであった馴染み深いものではなく、鬱蒼と広がる真夜中の森を眺めるような、そんな感覚に近い。

 すでに完全に日が暮れている上、月すらも視認する事ができないベランダはただただどす黒い陰影を強調するばかりだった。


 戸嶋は自室の扉を開くとすぐ部屋中の明かりを点灯させた。

 単純に、恐ろしかった。曰くの可能性のある部屋で暗がりのまま過ごせるほど神経は太くないと自覚しているからこその行動である。

 ぱっと灯された白熱電球の淡い光が室内を照らし、一時の安寧を無機質な室内に灯すことに成功する。だが光があるからこそ、部屋中のあらゆる隙間や暗がりが更に強調されてしまったようで恐ろしくなる。


 これからどうしようか。戸嶋は茫漠とそんなことを思う。

 抱えたところでどうするもこうするもないのだが、それでも足はひとまず台所へと向けられた。

 食事をする気は起きなかったが、どっちにしても夕食後の服薬はしなくてはいけないため、冷蔵庫から引っ張り出した買い置きの惣菜を電子レンジで温めてそれを食すことにした。


 その時、戸嶋は椅子に座ってゆっくりとという気分には到底なれなかった。

 だからか、電子レンジの前に居座って箸を持ち出し、その場で開封して立ったまま食べ物を口に運ぶ。

 その間にも視線は部屋の最奥、自分が普段眠っている布団やその脇、忌々しい人型が壁を叩いていた場所へと向かい、穴が空くほどそこを眺めていた。

 文字通り視線にぽっかりと暗い歪みが生じるまで凝視を続けた結果、見えてきたものはただの壁であり、壁紙とその下にあるであろうモルタルを想起させるばかりである。


 食事を終えて服薬も終える頃になっても、戸嶋の視線は変わることなくただ一点を眺め続けていた。しかし延々とそれをしていることはできなくて、かと言って気持ちが落ち着くこともない。そんな中で戸嶋を駆り立てたのは、つけっぱなしにしたラップトップパソコンである。

 ディスプレイは真っ暗になっているが、電源ランプの部分は薄く点滅しており、電源を切り忘れたことを思い出させる。

 戸嶋はパソコンの前に腰を下ろして検索エンジンを立ち上げた。しかし今度は、パソコンの向きをずらして、常に視界に寝室側を見ることができるようにして、最大限の警戒を腹に決めた。


 検索エンジンでは、このアパートのことや、それにまつわる噂がヒットすることはなかった。

 戸嶋はこのことに疑問を抱きながらも、どこか腑に落ちる部分がある。戸嶋の直感は確実に、この部屋の異常さを感じている。にも関わらずインターネットにすらそれが全く存在しないという歪さ。これに戸嶋は心当たりがあった。


 心霊スポットでもたびたび言われる事がある。

 心霊スポットというと不良のたまり場のように、汚らしい廃屋に下品な落書きがスプレー缶でなされているのが常であるが、危険な場所にはそれすらも見られないという話だ。

 本当に「やばい」とされている場所は、人すらも地を踏まないとされている。足を踏み入れることすら、本能的に拒絶が生まれる圧倒的な異空間。この世には度々そのような、強烈な畏怖を込められた場所が存在していて、そこに至るまでの底しれぬ何かを思わせる。


 多くの場合それは「幽霊」や「神」なる高次元の存在であるとされるらしい。


 現代では科学の発展によってあらゆる事象が解明されてしまったことで、現代人から忘れ去られた超自然的な存在。

 戸嶋もそんなものが果たして存在しているのかはわからない。しかしそれでもこの部屋は、そんな高次元なものの存在が、嘲っているような気味の悪さがあるのは事実だった。

 具体的に何かがあったわけではない、しかし、「なにか」がいるのかもしれない。そんな感覚がこの部屋の情報を曇らせ、インターネットと言う情報の網目にすら掛からない奇妙な現象を産んでいるのではないか。

 戸嶋の小さな考えの取っ掛かりはそんな風に歪み、やがて仮説と呼ぶにはあまりにも辺鄙で杜撰ながら、行動に走らせた。


 この周囲の情報は、おそらくは出てこない。

 だからこそ戸嶋は検索エンジンにあえて「事故物件」「出てこない」という、類似例を探すことにした。異質さを抱えながら、けれどもそこに上がることのない何かがネットの海に埋もれているのではないかという、淡い期待を込めて検索する。


 薄氷のような可能性だと思って検索をすると、戸嶋が思っている以上に、それに該当するような場所があることを知る。

 勿論それらすべてが、出処の判明したようなものではなく、あくまでもネット上で語られているただの「噂話」の領域を出ないものばかり。

 サジェストに表示される候補ワードも「変な場所」や「やばい部屋」のような、いたずらに扇情的な言葉で書かれており、その程度がうかがえるようなものがほとんどであるが、一つ気になるページに戸嶋は目を留める。


 それは不特定多数の人間が集まるネット掲示板である。

 その中のオカルトを扱っていると思しきカテゴリーの書き込みだった。このような掲示板は「スレッド」と呼ばれる一つのまとまりに、主たる話題を提供する「スレ主」なる人物がいて、その「主」の話題提供に意見を述べるような形で書き込みがなされていた。

 何の変哲もないただの掲示板。そこに出されていたタイトルは「事故物件じゃないのに部屋がおかしい」というもので、投稿者が過去住んでいた部屋でおかしなことが次々と起こったにも関わらず、そこは事故物件の類では全くないということで、「曰くのたぐいはない」と判断したという。

 内容を字面で見るとなかなか興味を駆り立てられ、それは掲示板の人間にも同じだったようで、次々とその「おかしなこと」について尋ねる書き込みが相次いだ。


 しかし奇妙なことに、その「おかしなこと」へ投稿者が言及する素振りがないことだった。この手の心霊系の話では、異常事態が先に書き込まれ、恐怖感を演出するのが常套手段であり、ネットでよくある「掲示板系の怖い話」ではそれが定石のはずだ。


 にも関わらずこの投稿者は「なにもないのにどうしておかしなことが起こるんですか?」や「みなさんも同じ経験はありませんか?」など、異常のある部屋そのものの存在を確認するような質問ばかりしている。

 これには掲示板の人間も困惑し「具体的に何が起こったかがわからないとなんとも言えない」という旨を訴える人が増え始めてきた。

 それでも投稿者は「あのときのことは思い出したくない」や「言いたくない」と言葉を濁すばかりであり、急激に書き込みが減っていった。これではそのままスレッドが落ちてしまいそうになり始めた時、投稿者は焦り出す。「自分が頭がおかしいと思われるかも知れませんが」という口添えから、部屋で起こった数々の不可解なことについて話し始めたのだ。


 部屋で起こる「おかしなこと」は、一般的に言われるような「幽霊が出てくる」というものではないらしく、具体的に言うと「部屋で過去の出来事が追体験されるような感覚に陥る」というものだという。

 発端となる出来事は「金縛り」であり、毎日必ず、時刻はわからないが同じような夜更けに金縛りが始まる。

 その金縛りは体の上に重りが乗っているような感覚に近く、物理的に動かすことができないような状態らしい。そして金縛りに喘いでいると、自分の体に乗っているものが、正座をした人型のなにかであり、苦痛にもがく自分の顔を正座の状態から覗き込んでくるという。

 その顔は、どういうわけか自分自身なのだそうだ。


 これを見て戸嶋は鳥肌が立つ。ふと視線を部屋の奥、寝室の方に向かわせても、モノクロームの部屋が黙り込んだまま佇んでいるばかりで、再びディスプレイに顔を向けたときの明暗の差が目が痛くなるほどだった。


 この部屋で最初に自分が体験したことと、同じではないか。


 直感がささやくように「この書き込みはこの部屋で起こった出来事だ」と戸嶋は確信する。

 金縛りで自らの体の上に座り込んでいたのは、自分と寸分たがわず同じ顔。自分と同じ顔かはわからないが、こんな怪談は他に聞いたことがなく、書き込みから感じられる間取りについてもこの部屋のことを指しているように思える。


 「曰く付きがない」ということも含めて、まるで自分の部屋を客観的に見られて、このような書き込みがされているようだった。

 戸嶋は思わず、更に下へとページをスクロールさせ、続きを読み込むことになる。


 書き込みは幸い続いており、それから起きたとされる出来事についても言及されていた。

 部屋にやってきた当時は、「金縛り」以外の怪奇現象は見られず、それも「自分の精神的なもの」だと決めて考えないようにしていたそうだ。

 それができたのは、眠りという意識が薄い時間の起きた出来事だったからであり、次に起こった怪異は、より現実感があったという。


 ある日の夜に鳴ったインターホンが、次の不可解な出来事の幕開けである。

 時刻は夜半、そろそろ床につこうとしていた頃合いにインターホンが鳴り響く。当然ながら投稿者は怪訝な思いで対応しようとするも、金縛りの一見もあって恐ろしさが先行してしまったという。


 そこで投稿者がした行動は、恐らく戸嶋も同じ行動を取るであろう、「反応することなく息を殺して、ドアスコープから外を伺う」というものだった。


 ページはそこで切れており、続きは別のページに切り替わるようになっていた。

 ほとんどすぐに次のページを読み込ませている間、戸嶋は思わず息を飲む。ドアスコープから見えたものはなんなのだろうか。

 想像するだけでも怖気が湧いてくるようだった。ぼんやりとした想像で、薄気味悪い人間が指を指しているような光景が頭をよぎる。それは勿論自分の妄想であるが、読み込まれたページに書かれていた続きを見て、戸嶋は思わず言葉を失ってしまう。


 ドアスコープの先にあったのは、幽霊でも、悪意を持った人間でもなく、「投稿者自身」だったそうだ。

 それも一回り幼い投稿者自身。ドアを叩いて泣き叫び、「ママ入れて」と引っ切り無しに藻掻く、過去の自分がいたのだという。


 その光景に投稿者は覚えがあったそうだ。

 それどころか、それは忌々しい過去の記憶だったようで、多くは語られていなかったが「虐待」を匂わせるような経験を投稿者はしていたという。「テストの点が悪かったから」と言って真冬の外に薄着のまま何時間も出されたときの出来事が、そのままドアスコープの先に映し出されたというのだ。

 投稿者は当然すぐに扉を開き周囲を確認するが、そこには当たり前のように真っ暗な廊下があるばかりだという。


 部屋から見て右隣の居室の扉も固く閉じられているばかりで、あたかも最初から何もなかったかのように静謐が漂っていたそうだ。


 金縛りというポピュラーな怪奇現象に続いて出てきた奇妙な出来事、それは「自分の過去のトラウマをドアスコープ越しに見せてくる」というもので、それから毎日、日付が変わる頃合いでインターホンが鳴ったという。その都度、自分が過去してきた嫌な出来事がドアスコープ越しに映し出され続けたのだ。


 これには流石の掲示板の住人も首を傾げただろう。

 そんな話は聞いたことがないと恐れる人間も入れば、あまりの創作じみた話に「釣りではないか?」と疑う者もいた。しかしそれから投稿者は、何度も何度も自分のトラウマをドアスコープ越しに見せられたという。その内容が学校でのいじめや、受験での挫折など、あまりにも生々しいものが多く、「投稿者の言う事は事実なのではないか」と考える人も出始めていた。


 しかし戸嶋は戦慄した。投稿の内容もさることながら、掲示板の中で大半を締めていた意見が「投稿者が精神的な病気にかかっているのでは?」という意見が多く、それを支持するような見解がずらずらと並べられていたことだ。たしかに傍から見れば、この文章を欠いたのは何かしら精神病的な可能性を疑っても無理はない。


 一方で実際に統合失調症を患っている戸嶋からすれば、恐らく投稿者は本当に「この部屋で異常に晒されている」と感じていた。戸嶋自身も自覚していることであるが、統合失調症を持っている人の文章は硬い表現が多い。

 使う言葉も口語体は少なく、文章の切り替えが緩慢な部分がある。そのような「統合失調症を持っているような文章」にはとても思えないし、ある程度書き方はフランクなイメージを抱かせられる。


 これは恐らく、実際に統合失調症にかかってみないとわからない感覚であるため、当然ここの掲示板の人間がそれを見抜くことはできないだろう。

 けれど問題はそこではない。実際に統合失調症などの精神病によって起きている幻覚なのか、「普通の人間は区別する事ができない」という方に問題がある。


 自分の言っていることが何一つ信頼を持たない、それが真に恐ろしいことであり、通常生きている人間では決して経験しないことだろう。

 過ぎたことの中で、自分がどれだけ正当で、論理的な話をしたとしても「あの人は精神を病んでいるから」とひとまとめにされる屈辱。

 怒りを通り越して、「自分はこれから先も心から信じてもらえることはないのだろう」という憔悴、諦め。そこから生じる自己嫌悪。精神病を持ってしまうと、症状によって周りと強烈な軋轢が生まれてしまうのだ。


 当然戸嶋も同様の経験を何度もしている。何をしても信じてもらえず、一切の信用を失ったあの感覚。

 この掲示板に満ちている空気感はそんなものがあり、共感性羞恥に似た苦々しい感覚を覚える。それはページをスクロールすることにも表れており、大量の書き込みを無視して投稿者の書き込みばかり目で追ってしまう。

 内容を書き込んでいっても、誰一人として信じてくれないことでの感情の変化が、見て取れるようだった。そこに救いを差し伸べたい気持ちがあっても、この書き込みはすでに数週間も前のことであり、感傷的な気持ちの意味すらもないことに苦虫を噛み潰したような気分にさせられる。


 ふと、戸嶋は書き込みのされた日付が、比較的最近であることに気がつく。さほど遠くはない日付、もしかしたらこの掲示板の投稿者は、自分が見せられたあの「コーポ・峰山 二〇二号室名簿」の中にあったのではないだろうか。


 妙な邪推が働き、更にスクロールさせていくと、今度は投稿者が「物件に心当たりのある方は話を聞きたいです」という言葉とメールアドレスを残して、掲示板を去ってしまったことを知る。

 流石にこれだけ「精神病」を疑われればそうなってしまう気持ちも理解できるが、掲示板の住人たちにはこれが尚、癇に障ったようで、すっかり一連の話が「釣り」として判断されてしまっていた。

 戸嶋はメールアドレスをコピーして、自分のメール作成画面から投稿者へメールを作成した。そこに生じた判断は一秒にも満たないほど短い時間であり、淡い期待と哀れみ、そして「この部屋がなんなのか」という渇望が行動に現れたのだ。


 その時だった。


 アドレスを入力したと同時に、玄関からけたたましいインターホンが聞こえてくる。乾いた空間の中で異常な反響を残し、残響と自身の動作音が混じり合う。その後に立ち込める無音の中で、心臓の音だけが扉を叩いているようだった。


 当然そのタイミングで想起するのは先程の掲示板での話であり、「ドアスコープ越しに自分の記憶が再生される」というものである。しかし今は二一時過ぎ、掲示板での体験談の内容とは少し異なり訝しさが生じ、玄関の前でしまったままの扉を眺める戸嶋の足先を冷やす。


 「どちら様ですか」本来出すべき言葉が声にならない。黙したままのインターホンと、扉の先から一切の気配を感じないこと、掲示板での体験談に対する感情などすべてが混じり合い、ドアスコープを覗かせることを遠ざける。ただでさえ、ドアスコープを使うときは神経をすり減らすというのに、こんな状況でおいそれとドアスコープを覗けるものはそう居ないはずだ。


 そんな反駁を心のなかでしていても、何も変わらない。

 それを物語るようにインターホンは次の音を奏でることもなく、静かに扉越しで沈黙を貫き通し続けている。その僅かな時間の隙間が戸嶋を躊躇わせ、手のひらにじんわりと汗を滲ませた。

 不快だった。背中にまとわりつく冷や汗の感覚が、徐々にはっきりと知覚できるようになっていく。呼応するように心臓の音が早鐘へと変わり、体内の脈動を引っ切り無しに伝えてくる。


 いつまで扉の前で鬱々としていただろうか。それに嫌気が指したタイミングで、戸嶋はドアスコープから外の様子を伺う。勿論決して音を立てないように。


 魚眼レンズのような視界の中で、飛び込んできた最初の光景は、雪である。

 こんな時期にありえないことだった。無言のまま降り続きながら、鉄さびを覆い尽くすように纏わりつく白い雪、そこで扉を背に凭れて座りすすり泣いている少年。間違いない、これは「戸嶋自身」である。

 奇しくも投稿者と同じような経験をしていた戸嶋にも、似たような経験があった。戸嶋の場合は「テストで平均点よりも少し高い程度の点数であった」ということが母親の逆鱗に触れ、寒空のもと外に出され、ただ泣きながら単語帳の用語を頭に叩き込んでいくという記憶。


 あのときはそれに対して全くの違和感すら抱いていなかった。ただ、悲しかっただけ。

 トラウマというほどの出来事でもないと感じていながら、こうやって客観的な見方で晒されていると、随分と苦い感情が口先に纏わりつく。見ていたくない、不快だ。その感情を振り切るように戸嶋は思いっきり扉を開いた。あの日の、皮膚を劈いた、虚像のような美しさを持つ雪景色を振り切るように。その願いが届いたのか、戸嶋の目に飛び込んできた景色は、ただの暗がりを残す通路と、白熱電球の薄明かりに照らされた、赤錆に包まれる手すりだけだった。

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