9
日の暮れ始めた町並みは、昼間とは全く違う世界を瞳に映す。光の散乱によって生まれたオレンジ色の空は、日の傾きによっては生々しい鮮血を思わせる色彩へと傾き、まるでこの世を異界であると吹聴しているかのようだった。
何の変哲もない町並みは宵に照らされてまた別の顔を見せはじめ、それが戸嶋にとって心を軋ませる。
自分の中で何かが変わったといえば大仰だろうか。薄明かりで影が強調される道を一瞥すれば、絵の具を垂らしたようなアスファルトの影から、何かが滲み寄って来そうな感覚に惑わされる。そんな感覚がよぎってしまうのも、恐らくはあの部屋の異質さに感づいてしまったからなのかも知れない。
気味の悪さを懐きつつ戸嶋は、コーポ・峰山の大家をしている野中の自宅までやってきた。
初見の印象はさほど悪くなく、気さくながらそれぞれの住人には関心がないと言わんばかりに、「好きにやってくれて良いから」と、切り捨てる言い方をしていたことは記憶に新しい。入居時の戸嶋にとって野中の無関心さは、「病気に対しての寛容さ」と都合のよい受け取り方をしたものだが、その無関心な態度も、アパートに纏わりつく異常な感覚と照らし合わせると合点がいく。
戸嶋の頭の中によぎったのは、朧気な記憶の中でけらけらと笑う野中が、なにか狡猾な目的を持って嘲笑を浮かべていたのではないかという疑念である。
日本における心理的瑕疵物件は、あたかもそこで何もなかったように物件を貸し出す事ができる「抜け道」があるという。どうやらインターネットでは比較的有名な話のようで、「一度心理的瑕疵物件として一定期間の貸し出し契約した後、それを解約する」という方法をとれば、物件に生じる説明責任はなくなるらしい。
こんな事が本当に行われているのか甚だ疑問であるが、戸嶋は二〇二号室での異変と、自分の病状を鑑みて「あの部屋は何かがおかしい」という大前提ができてしまった時点で、疑念は戸嶋のかなりの部分を支配することになる。
戸嶋は今までの奇怪な出来事に対して「統合失調症のせいだ」とすっかり思い込んでいたが、隣人であるミズキからの言葉にそれが少しずつ変わり始めていた。
散々抱いた「自分がおかしいのだろう」という考えに一石を投じるように、「部屋そのものがおかしい」という見解が述べられた時、まさに激震が走った。なぜなら、統合失調症という病気を持った時点で、自身につきまとう「自分がおかしい」という感覚が、久方ぶりに真っ向から否定されたからだ。
幻聴、幻覚、統合失調症で出現する理解のし難い感覚は、関わる人間すべてに不信感を植え付けた。いくら病気のことを理解している専門家であろうと、病気によって出現している支離滅裂な内容に対して向ける視線は、不快極まりないものがある。「この人は病気だから」そんな憐れみじみた感情すらも、激しく高ぶった感情の前には不快感へと変わる。
特に戸嶋は、症状が徐々に悪化していく慢性的なものではなく、急激な悪化をしてその後急速に症状が収まっていく、「急性期」を経験したからこそ、なおのこと自分に向けられる相手からの視線に対して敏感だった。何度、「自分はおかしくなんてない」と思って、悟らせぬように歯を軋ませたことか。
その経験がミズキによって拭われた。この事実のみが、大家である野中の自宅のインターホンを鳴らすよう、戸嶋の体を動かしていた。
不意に鳴らされたインターホンに対して、野中は気のない調子で玄関扉を開ける。
訪ねてきた相手のことを確認するまでもなく扉を開くのは、普段の警戒心の乏しさが見て取れる。この態度から、彼が大家としてどの程度役目を果たしているのかたかが知れていると感じさせられた。
野中は存外に驚いた様子を見せず、「あなたは~」とあえて答えを先送りにするかのような口ぶりで「戸嶋さんですね」と確認している。その次に出てきた「二〇二号室の」というセリフは、ほとんど言葉を切ることなく、捲し立てるように飛び出ていることからも、野中が戸嶋の来訪を予期していたことはなんとなく感じられる。
「どうされました?」
野中は多く語ることなくけろりとそんな言葉を投げる。
その先に続く言葉を投げたいのは態度からしてわかったが、墓穴を掘る事はしたくないようで彼はそれ以上の言葉を続けることなく、戸嶋の様子をうかがうようだった。
「あの、二〇二号室について、お聞きしたいことがあるんですが」
戸嶋の言葉に野中は一瞬表情の動きを止める。それが「二〇二号室にはなにかがある」と吐露しているようなもので、妙に滑稽に見えてしまう。
同時に戸嶋は、背中を指先で撫でられるような身震いを抱く。間違いない、二〇二号室は何かがあるのだ。それも他の心理的瑕疵物件にない、もっと異常ななにかが。一般的な物件であれば何かがあれば一斉にそれが流布されるものだが、二〇二号室はそれすらもない。具体的に何かが起きた形跡がない一方で、どこか「異常ななにか」がある。
戸嶋は確信を込めつつも、先走らないように相手の答えを持つ。
一方の野中は「部屋でなにかありました?」と今度は妙にスムーズな事実確認をしてくる。その態度の急変が、過去にも同じ問いかけをされたことを物語っているようだった。
「部屋で、変なことが起きるんですが……」
意を決して戸嶋は、しかし漠然と自らの居室で起きる不可解な出来事について羅列する。それがどこまで相手に届くかは分からなかったが、それでも伝えなければ何も始まらないというのが、気持ちの発端である。
けれど話を聞く野中は、部屋で起こった出来事の数々に顔を顰めていく。その顔色は面倒臭さが如実に現れ、おもむろにキャビネットに置かれていた名簿を一瞥する。
一体何を確認しているのかと怪訝さを強めると、野中はそれまでの態度を翻して、露骨な嘲笑を戸嶋に向けた。
「そのようなことを言われましても……うちの物件は、事故物件等ではありませんし、そもそもにわかには信じがたい話ですが」
「私もそう思うのですが、本当なんです。夜中に、壁を叩くなにかがいるんです!」
戸嶋はできるだけ相手に不快感を与えないようにそう叫んだ。
正直なところこの話をしている時点で気持ちが焦ってしまい、怒りが言葉に乗ってしまいそうになるものの、そんなことをすれば逆効果であることは目に見えている。
対して野中は、あくまでも態度を翻さない戸嶋に対して「それって、そちらの勘違いでは?」と持ち合わせた札を切るように続ける。
「確か……戸嶋さんは、精神的なご病気がありましたよね?」
「えぇ……まぁ、ですがそれとこれとでは……」
戸嶋の反論に、野中は「関係がないとはいえないのでは?」とあくまでも毅然としていた。
その堂々とした態度は、確実に戸嶋の神経を逆なでしたものの、相手の言葉を待つ選択をする。
「素人質問で恐縮なんですが、精神病って、一般人には見えないものがみえたりすることも、あるんでしょう? 戸嶋さん一人暮らし、初めてってお話ですから」
野中は嫌な笑みを浮かべて、先程から眺めている名簿のようなものをちらりと戸嶋へ見せる。
そこには過去二〇二号室に入居していた名簿のようで、その中で自分の名前の横に「精神疾患有り」と備考に書かれていた。
戸嶋は思わず顔を顰めた。こんなものを見せる必要は全く無く、にも関わらずそんな行動をした野中は、明確に「貴方は他の人と比べて違うんですよ」と言わんばかりの態度であった。
それを見せた野中はすぐに名簿を閉じて、追い返すように「ただ部屋が合わないということなら、退去いただくしか……」と鼻にかかった態度で話し出す。
「あぁでも、契約期間以外だったら違約金もかかりますよね? どちらにしても、決めるのは、えっと……戸嶋さんですからね。ただはっきりしないことに、大家として対応することはできないということは、伝えておきます」
野中はそこまでの態度を見せたにも関わらず、不意に顔を歪ませて頭を下げる。
その態度に戸嶋は久方ぶりの、腹の底から湧き上がる怒りを感じた。
演技を悟らせまいと顔を見せなくする狡猾さ、入居者の名前すらろくに覚えていないこの大家の態度。にも関わらず、こちらの事情は驚くほど正確に理解しているという、浅ましい感性。ほとほと呆れてしまう。
いや、戸嶋は最初からこうなることをなんとなく想像していた。
精神障害を持っているということは、部屋の貸し借りにおいて大きなリスクになる。中には激しい幻聴により壁に穴を開けてしまうような人もいるようで、ましてや部屋の貸し借りも立派な契約である。
そんな中で、好き好んで精神障害を持っているという、大きなリスクを犯して部屋を貸し出すのは、それこそその層をターゲットにしている不動産会社くらいのものだ。
精神障害を持っていると転居することも難しくなる、この部屋に引っ越してくる時に、相談員である竹澤や、部屋を探してくれた不動産会社から言われた言葉が頭に引っかかった。
その原因がまさに目の前にあると戸嶋が理解する頃には、漠然としたやりきれなさが、拳の中で蠕動した。もはや今の自分にとって、「二〇二号室で怪奇現象が起こっている」ということよりも、「精神障害を持っているから」という理由でまともなものの見方がされないことのほうが、よっぽどみぞおち辺りに怒りを孕ませる。
しかしながら、その怒りを既のところで押し止める事ができたのは、皮肉にも「転居が難しい」という事実である。
本当であれば今すぐこんなところから出ていきたいが、転居をする金も、場所もない。
実家に帰ることも、もう二度とないと腹に決めて家を飛び出したにも関わらず、「部屋がおかしい」という理由だけではそれも難しい。それなら尚更、こんなところで怒りを発露することが、自分にとって不利に働くことくらい、冷静さを欠いた戸嶋も理解していた。
だからぶっきらぼうに「そうですか」と言って頭を下げる事ができたのかも知れない。まともな感性が働いていたら、きっとそんなことはできなかっただろうと、戸嶋は心のなかで大きく深呼吸をする。
適当にその場を諌めて大家の家を飛び出す頃には、既に辺りは夜の帳が下り始め、傾いた日差しが茜色に黒を滲ませる。
現実離れした赤黒い空がその場の空気を、まるで逢魔が時であると言わんばかりに強調する。ぽつりぽつりとアスファルトを踏み、自宅である「コーポ・峰山」へと歩を進める。
かつかつと響く足音が静寂にやけに鬱陶しく響く感覚があった。まるで美術館に響くヒールの音のように、耳によく障る音。
けれどそこで戸嶋はおかしいことに気がつく。ここは外のはず、自分の足音だけが際立って響いて聞こえるなんておかしいのではないか。
外に出れば色々な音が聞こえてくる。鳥の叫び声、車の走行音、他の人間の踵の音、あらゆる雑音で満ちているのが普通のはずだ。ふと足を止めて、他の音に耳を澄ましてみても、遥か遠くで聞こえるガサガサとした雑音ばかりであり、少なくとも半径数十メートルで聞こえてくる音は、自分の足音の残響を除いて存在しないようだった。
それだけじゃない。冷静に振り返ってみれば、このあたりはどこか変だ。
開けた住宅街の奥に、この「コーポ・峰山」は存在している。建築物だってそれ相応に見られるというのに、この辺りで自分以外の人間が歩き回っている姿をほとんど見かけない。
加えて、この辺りにはカラスすらも見られない。人間とある程度の共生関係にあるカラスは大抵、居住区であれば集団で飛んでいるところを見ることが多い。それが全くいないということの異常性に、戸嶋はそこでようやく気がついた。
高い知能を持ち、極めて高度なコミュニケーションを取るというカラスは、お互いに危険な場所を知らせ合うということが知られている。まさにこの場所は、カラス同士によって「危険な場所」と認識されているのではないだろうか。
突飛な考えであることは言うまでもなかった。にも関わらず戸嶋は今までの周囲の状況がありありと浮かんでくる。
アパートには数人の住人がいるようだが、そこで顔を合わせたことがあるのは、隣に住んでいるミズキだけ。よくよく考えればミズキも、転居の準備の際に一度も見たことがなかった気がする。ミズキ以外の住人は、顔はおろか姿を見たこともなかったはずだ。
おかしい。
ここら一帯がまるで、村八分のように隔離されているような感覚すら抱かせる。車通りは一切なく、改めて周囲を確認すれば周囲の建造物も、随分と古めかしいもので、人が住んでいるのかすら怪しいものばかりである。
戸嶋はふと、先程大家である野中が見せつけるように持っていた「二〇二号室住人名簿」のことを思い出す。
ほんの一瞬しか見ることができなかったが、「一つの部屋」に対して妙に、リスト人数が多く感じた気がする。なにせ通常サイズのバインダー一杯に小さな文字で表が羅列されているのだ。
今までの入居者人数と考えても異常すぎる量に思えた。「コーポ峰山」の総戸数は四戸であり、築三十年余と考えると、かなりの頻度で人が入れ替わっていることになる。
そればかりか、特記事項の項目まで見られ、赤字で「行方不明」と書かれている項目すらもあった。
そもそも、どうしてあのような名簿があるのか。戸嶋は知識がないものの、住人名簿なんてものは、部屋番号で整理するものではなく、すべてのまとめて集約するものではないのだろうか。あえて一つの部屋で表を作るのは、どう考えても非効率的である。
そうしなければならなかった理由をあえて考えるのなら、「四つの部屋の中で、二〇二号室の入退去の人数が特別多いから」とすれば、不思議と合点がいく。
同時にその事実に気がついた途端、総毛立つ感覚を覚えた。
一瞬だけ捉えた、自分が入居する前の五名の入居から転居までの日数。どれもこれも異常に短いスパンだった。二ヶ月から三ヶ月がほとんどで、ほとんどの人間が退去している。直近ではただ一人、半年ほど部屋に住んでいたというのは、自分の前にあの部屋の住人だった。確かな名前は、「立山光一」という人物だったような気がする。
ありえない話だった。これだけ短期間で人が変わるのは現実的に考えてありえない。
戸嶋は初めて、客観的な事実として「二〇二号室は何かがおかしい」という確証を得るに至った。同時に自分が見てきたのが、精神障害に起因する妄想ではなく、「部屋のなにかによって発生したもの」と実感したことが、より戸嶋の足を竦ませる。
今から、この逢魔が時にあの部屋に帰らなければいけない。
わずかそれだけのことが、どうしようもないほどに恐ろしく感じる日が来るとは、戸嶋も思ってもいないことだった。いくら拒絶しても、あらゆるものをそこにおいてきている状態なら、戻るしかない。そのことを戸嶋は同時に理解させられた。
どちらにしても戸嶋に選択肢など残されていなかった。
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