第二章 壁

5


 新居「コーポ・峰山」での最初の夜は、夢か現実かわからない、奇怪な出来事で幕を閉じた。

 戸嶋はこの出来事をただの「睡眠時の曖昧な意識によって作り出されたもの」だと解釈したのだが、それでは説明ができないほど、あの出来事は毎晩繰り返された。

 けたたましく壁を叩く音から始まり、実態のない人間が周囲を歩き回っているかのような気配、金縛り、自分の体にのしかかりこちらを見つめてくる真っ暗な顔、あらゆる出来事が微妙な変化を見せて降り続く。


 戸嶋は、ようやくそれが「自身の病気でも、睡眠時の曖昧な意識でもないこと」に気がついたのは、新居にやってきて一週間が経過した頃だった。

 毎日毎日、夜眠っていると確実にやってくる異常な出来事に、内心参ってしまっていた。しっかり眠れているのかすら曖昧になり、日中はなかなか行動することが出来ず、徐々に部屋も荒れ始めてきている印象がある。片付けくらいはしないとと考えるものの、過剰な焦りは病気の悪化に繋がりかねない。かと言って自分のペースでと考えていると、なかなか部屋は片付かず、最終的には週に一度利用している家事援助、いわゆる訪問ヘルパーのときにまとめてやろうという運びになった。


 戸嶋はそんな自分の選択に少し驚いていた。

 自他ともに認める几帳面な自分が、こんなにもぞんざいになってしまうなんて、やはりよく眠れていないのではないか。自分でもその疑問符に行き着くが、処方箋にてしっかりとした睡眠が取れるように薬も出してもらっている。

 眠っている感覚は確かにあるというのに、必ず金縛りがやってくる。その時、ほんの短い時間かも知れないが、奇怪な現象がまとわりつくときだけ、意識を引きずり出されているような感覚に近い。何にしても、夜になったら必ず始まる壁を叩く音に、すっかり神経質になっていた。そんな中、二〇二号室のインターホンが鳴り響く。

 戸嶋は思わず扉の方へ目をやった。体の動きの機敏さは輪をかけるようで、ついで聞こえてくるかも知れない「ノック音」に耳を欹たせる。しかし音は聞こえてこずに、「ケアセンター・優しさの、今西です」と声が聞こえてくる。

 一連のことですっかり頭から抜け落ちていたが、今日は訪問ヘルパーの日である。戸嶋はいそいそと慌てて扉の元へと駆け寄り、「ヘルパーを忘れるなんてらしくない」と、毎晩の悪夢の影響の強さをそので自覚した。


 精神障害を持つものが利用できるホームヘルパーは、精神保健福祉法の規定「精神障害居宅介護等事業」として、利用することができる。

 主に精神障害者福祉手帳を持っている場合か、精神障害を理由とする障害年金に受給しているものであれば、一日に時間単位で利用することができた。

 これらの事業は利用する者の所得状態により負担額が変化し、非課税世帯、つまり生活保護世帯や低所得者層であれば基本的に負担額がかからない。


 だが戸嶋は一般就労の経験もあり、年金も厚生年金がかかったものを受給しているため、生活保護の申請はしていない。

 昨年度の課税状況も踏まえて、ホームヘルパーの利用も最低限に留めている。元々戸嶋は生活能力が比較的高く、部分的に極端に強く症状が現れる急性期の統合失調症だったため、家事の補助を行う家事援助の時間数も短めに取っていた。


 これらの福祉サービスの利用は、一般的には申請をすることで初めて利用できるものであるが、福祉にまつわる多くの制度を自分で把握して申請することは極めて大きな負担になる。そのため、それらの福祉制度に関わる調整を行う相談員の力を借りることが多い。戸嶋も例外ではなく、急性期時点からお世話になっている相談員がこれらの福祉制度の申請を行ってくれていた。

 そのため、戸嶋と相談員が調整した日時に、ヘルパーがやってくることになる。普段であればしっかりと把握して出迎える準備を整えていたが、そんなことも頭から失せてしまうほどに、今の自分は疲弊しているようだった。

 扉を開けて軽く会釈をすると、穏やかなに微笑む今西支援員が頭を下げてくる。そのいで立ちは見慣れた支援員の制服に、自分の名前が書かれたケースファイル、いつでもメモが可能なバインダーと簡素であり、その姿が随分遠い日常のように思えてしまう。


「戸嶋さん、おはようございます。お時間のとおりに伺いしましたが、大丈夫でしたか?」


 今西は確認の為そう尋ねられるが、その言葉に妙にどきりとさせられてしまう。神経質かも知れないが「時間通りに来たのに忘れていたのか?」と問いかけられているようだった。もちろんそんな思考に陥っている時点で、自分が寛解の状態から少しずつずれ込んできていることを自覚させる。

 いや、大丈夫だ。

 頭によぎった嫌な感覚を振り切るように、戸嶋は声をワントーンを上げて「ちょっと寝坊してしまって」と頭を下げる。それを聞いた瞬間今西の表情が一瞬こわばった気がする。どうやら「服薬がしっかりできていないのではないか」と疑われてしまったようだ。


 これには明確にそう確信する理由がある。

 利用者の家に実際に訪れた上で支援を行う「居宅支援」は、家事援助や日常的な物事に対しての支援を行うホームヘルパーのほかにも、医者から必要性が認められ、看護的な面での支援が必要であると判断された場合、訪問看護を利用することができる。訪問看護では文字通り、健康管理全般の支援が行われ、そこには食事の指導や服薬などがメインになる。

 実際には、現場の役割というものは制度ほど縦割りではなく、福祉や看護の現場ではより曖昧になる。訪問看護であっても、家事援助に近い支援を行っているものも多く、それは逆もしかりだった。

 戸嶋のように、病状がかなり安定しており、寛解状態であれば、訪問看護よりもホームヘルパーを利用することもある。それこそ負担額がその時の課税状態に直結する制度システムであるため、その時々によって利用状態は全く異なるのだが、戸嶋のホームヘルパーは訪問看護に近い形で、服薬管理もその範疇に含まれていた。


 同時に、精神障害における悪化のわかりやすい目安として「生活リズムの乱れ」が挙げられる。

 特に睡眠は、乱れが目立ちやすく、「眠れなかった」や「朝起きれない」というものは、不調の前触れということは当事者も支援者も熟知の上である。

 精神障害、特に統合失調症は症状に大きな波が生じることのほうが多く、特にこの不調の前触れは意識されることが多い。今西もまた、戸嶋の不調の前触れを先んじて感じ取ったのだろうが、戸嶋は自身のややこしい状態を、支援者よりも遥かに正確に理解していた。

 統合失調症は病識、つまり「自分が病気になっていることを意識しているかいなか」が、とりわけ症状に影響する傾向があった。主治医いわく、戸嶋はその的確な病識と自身の変化に、やや敏感すぎるほどの理解ができていたからこそ、急性期から一気に寛解まで回復することができた可能性があるとのことだ。

 これは概ね戸嶋も理解できており、感覚として「病気」と「それ以外」を容易く理解することが出来たからこそ、今のこの状況の歯がゆさが喉に引っかかるように言葉をつまらせる。


 あの悪夢は、決して病気が原因ではない。

 それこそ悪い夢程度の現実感にも関わらず、体や精神に与える影響は、恐ろしいほどにリアルだった。もし仮に、あれが病気による幻覚であるのなら、戸嶋は既にそれを「病気に原因がある」と自覚できるはずである。

 今までの経験から確信できる感覚に、戸嶋は自信があった。同時にその自信が、あの悪夢をさらなる奇怪さを与えることになる。


 どれだけ考えても、整合的な言葉で、あれを表現することができない。字面の意味合いと、感覚の折り合いがついてくれない異質さ。戸嶋は出来事として起こったことより、いつまで経っても溜飲を下げない不快感のほうが負担になっていた。

 そして、これを今西生活支援員に話したところで、彼女は戸嶋の話を「急性期の陽性症状だ」と判断してしまうところまで、容易に想像がつく。いわゆる健常者である彼女にとって、寛解状態というバックボーンがあったとしても、あの夜中の出来事を「統合失調症の症状ではないなにかである」と判断するのは、困難という表現すらも生ぬるいほど、ありえない話である。


「大丈夫ですか? お薬の方はちゃんと飲めてますか?」


 戸嶋の逡巡に踏み込むように、今西は会釈をしながらすたすたと室内に入ってくる。当然それに対して抵抗はないものの、戸嶋は最初にホームヘルパーに入ってもらったときを思い出すほど、今西の態度を注視した。

 それは、戸嶋がこの部屋で微かに感じた「違和感」に対しての答えを得るためである。もし仮に部屋自体がおかしいのであれば、足を踏み入れた今西も反応を見せるはずだった。なかば祈るような気持ちで今西を注視していると、彼女は服薬カレンダーを一瞥して「薬は飲めてますね」と冷静な分析を吐露する。

 支援者として判断するのであれば、この状況は「なんとなく違和感はあるが不調の確信には至らない」程度であろう。

 多少部屋は汚れているものの、部屋での活動レベルがそもそも低いため、極端に目立った汚れ方とは言えない。それに、ホームヘルパーを利用する者の中ではかなりマシな部類だろう。統合失調症を始め、精神障害を抱える人たちの大部分が掃除や自炊など苦手とする傾向があり、適切な自己管理ができていないことも多い。

 それは「自分を適切にケアすることが苦手」ということでもあり、だからこそ随所でバランスが崩れていく様が見て取れる。そのような傾向があるから、支援者は同じような部分を中心に違和感を気取り、適切な支援を提供する。長年そんな様子を見ていると、支援者の微妙な動きの違和や、見ている視点、助言される内容の傾向などが見えるようになってくる。それが寛解という状態と噛み合った結果が、舐めるように相手のことを観察し続ける今の戸嶋のような視点を産んだのだ。


 しかし過剰な視線は相手にも違和感を突きつけかねない。なんとなく、一連の悪夢の出来事は自ら吐露したいと思えない。できれば考えたくもない話なのだが、それ以上に「症状が悪化している」という判断をされることが不服だった。

 病状について、たしかに治療という意味では彼ら専門職のほうが遥かに知見に優れているだろうが、一方で病気そのものへの理解は間違いなく自分のほうが上であると、戸嶋は確信している。

 それが客観的に見てどうかはわからないが、病気から来る些細な感情のさざ波すらも、自分は感じ取ることができる。逆に外界から発生しているストレスについても同様で、区別には絶対の自信があった。だからこそ、戸嶋は澄ました調子で対応する。


「薬は飲めてます。最近は荷ほどきが大変で、部屋が散らかっているんですが、今日はそのお手伝いをと思って」


 今西は戸嶋の言葉を聞きながら部屋をぐるりと見回した。多少整理されていないと感じながらも、どうやら「部屋そのものへの異変」は感じ取っていないらしい。住環境を観察するような視点と、自らの私情をあえて混ぜるように「いい部屋ですね」と感想をつぶやき、荷ほどきの最中のダンボールを確認する。

「それなら、今回は部屋の整理を中心に支援させていただきます。戸嶋さんはダンボールの荷ほどきをお願いします。ごみの分別等に関しては一緒にするので、できるところまでしていきましょう」


 今西は適切に今回の支援の内容をまとめて、早速ゴミ袋を分類し始める。これに関しても精神障害のホームヘルパーがよく行うものだ。特にゴミの分別は地域生活の壁になりやすい。ホームヘルパーもそうだが、福祉の基本的な原則は「自分でできることは自分でする」ということであり、それが困難な場所にピンポイントな支援を行う。

 戸嶋は今西の言葉に従いながら荷ほどきを済ませていく。心なしか今まで停滞していた分、自らの動きが随分と機敏に感じられた。当然ながら、今西の視線もあるからだろう。一人の時と支援者が入っているときだと、やはり感じ方は全く違う。一時間の支援の中で、支援者もどこまで相手の生活の質を高めていけるか、それがかかっているからこそ、支援者の動きもまた性急になる。


 目的がある程度固定化された支援であれば、戸嶋も体感時間が短くなる。ほとんど会話もなく無心で作業をするというのは、一人暮らしを始めてから久しくしていなかったことで、その間は、この部屋で起きた不可解な出来事から完全に意識をそらすことができていた。

 むしろ、荷ほどきをしていれば数々の思い出の品々は、古い記憶を刺激し、喜怒哀楽すべてが境界線をなくし、景色を代わる代わるに移していくような錯覚にすら落としていく。

 渦巻かれた記憶の瑕疵に、忘れていた傷が蠢くこともある。それに追随するように、今度は馬鹿らしい記憶や悲しかった記憶、戻らない記憶などが滔々と溢れては消えていった。荷ほどきとはこれほどにセンチメンタルな気持ちになるものかとむず痒い気持ちを抱きながらも、作業を行っていくと、突然今西は視線を壁際に向けた。


「……戸嶋さん、この部屋、なんか変わってますね」


 今西の言葉に思わずどきりとさせられる。ついで至ったのは「どこがおかしいのか」ということであり、先程までの儚い記憶は一瞬で悪夢の記憶に塗り替えられる。

 今自分はどんな表情をしているのだろうか。違和感を悟られまいと必死だった。だからこそ出てきた言葉は、「どう、変わっていますか?」と今一つ理解ができていない調子を装ったもので、あくまでも知らぬ存ぜぬの態度を貫く選択となる。言葉を発すると同時に動悸の音がした。皮膚を刺すような心臓の鳴動が大仰に響き、相手の答えを待つ。


「いや、何でしょうね。なんとなく、変わっているような気がして」


 今西の回答は思った以上に曖昧なものだった。恐らく彼女も、それをしっかりと理解はできていないのだろう。

 彼女にあるのは、「室内に入ってきたときになんとなく抱いた違和感」程度のもので、その存在は非常に不明瞭である。今西はその微量の違和感についてほとんど意識していないだろうが、彼女の違和感を聞いた戸嶋は、思い至る節がいくつもあった。


 あの悪夢。ノックから始まる奇怪な気配のパレード、最後には顔を覗き込んで来る自分の顔。どれ一つとっても自分の中で説明の付かないあの出来事が犇めく部屋の中で、今西生活支援員は何かを気取った。いやそれは戸嶋の願望にすら近い想いであり、彼女が本当に悪夢と関連付ける何かを感じ取ったのかは彼女しかわからない。

 実際、戸嶋自身のこの部屋を最初に見学したときに、違和感があった。それはむしろ場所の雰囲気の違和感というよりも、どちらかというと部屋そのものに対して感じるものであり、なんとなく「他の部屋と違う」という漠然とした違和感が、この部屋にはある。問題はその違和感を上手く言語化出来ず、具体的に「他の部屋とどこが違うのか」ということはさっぱりわからない。

 一つだけ確信して言えることは、その違和感は「心霊」などという曖昧なものではなく、もっとはっきりとした違和感だということ。今西もそれを感じている時点で、部屋そのものがどこか歪んでいるのは事実のように思える。

 今西の言葉一つでこれほどまでに逡巡させられ、自身も感じていたであろう部屋への感覚が共有されたことで、戸嶋はより確信させられる。

 この部屋には、自分が関知しない何かが存在していて、それはもしかしたら「心霊」と呼ばれる非現実的なものの類であることを。


 同時にその事実は戸嶋に大きな手詰まり感を与えることになる。

 仮に、世の中に心霊などという非科学的な事象が存在していたとして、今の自分に何ができるのだろうか。この部屋に引っ越してきたのですら、悪辣な実家の引き剥がし支援によって成立したものであり、簡単に別の場所へ引っ越しなどできるはずがない。ましてやその理由が、「幽霊が扉を叩いている夢を見るから」だなんて正直に伝えれば、また入院生活に逆戻りになってしまう。せっかく努力して症状が落ち着いているというのに、そこを邪魔されることは戸嶋にとっては大きな負担だった。


 もしも、それを心の底から信じてくれる人がいたとしても、たった一人の支援者で現状を変えることなどできるはずがない。

 そもそも障害者が地域で生活していくことができるのは、「福祉制度があるという部分」が大きい。福祉の支援は基本的にチームプレイであり、個人の意見というより、多くの職員で決めて行く。そんな状況でたった一人「あのアパートは幽霊がいる」と主張してくれたところで、その人がおかしいと思われるだろう。支援者にとっても大きなリスクがかかってしまうことになるし、そんなことを受け入れる人間は、戸嶋の知っている中ではいなかった。

 一瞬の間に駆けずり回った思考は、「支援者すらも自分の気持ちを吐露してはいけない」という結論を即座に導き出す。多くの支援者が、利用者の精神的な異変を即座に気づくことが求められるため、そこで違和感を生じさせてはいけないのだ。経験深い観察眼を掻い潜り、戸嶋は自分でこのアパートで安寧を見つける方法を探らなければいけない。


「戸嶋さん? どうされました?」


 戸嶋は怖気を感じた。今まで逡巡に苛まれ、周囲のことが見えていなかったために気が付かなかったが、非常に遠くから、なにかが聞こえている。

 静かに振り返って今西の方を振り向くと、彼女は特に変化も見られない様子で、戸嶋の態度の変調にのみ疑問を呈している。


 一方の戸嶋には、忌々しい「ノック音」が聞こえていた。遥か遠く、鼓膜のさらに奥底で鳴り響いているような、鈍い音は等間隔で頭を揺らす。こんこん、こんこん、じんわりと手のひらに汗を抱かせるには十分な音であり、戸嶋はそれだけであの悪夢の断片を思い起こされる。

 しかし戸嶋は思うよりも冷静に、「いえ」と今西に会釈をする。動揺を見せずにやり過ごすことは得意であったこと、何より頭の中で鳴り響いたノック音が、今回は明確に自分の幻覚であることを理解することが出来たからだ。

 悪夢のときに聞いていたノック音と、今頭の中で鳴っているものでは、明らかに違うものだ。。戸嶋の幻聴は他の統合失調症のものよりも現実感が落ちるもので、「頭の中で鳴っている」という感覚がかなり強い。そのため、一般的な統合失調症よりも幻聴への対処が楽であり、今回のそれも即座に「幻聴である」と戸嶋自身が納得できた。

 久しぶりの幻聴症状に戸嶋はうんざりさせられるが、心霊現象的な悪夢よりもこちらの方が遥かに手慣れているため、むしろ安心させられるような感覚があった。それが功を奏したのか、今西も「そうですか」と訝しさを残すことなく、いそいそとごみの分別に精を出している。


 ほっと胸を撫で下ろすように、戸嶋は玄関側にいた今西から視線を外して、壁伝いにぐるりとベランダ側にある荷造りダンボールへ視線を向ける。ざっと一八〇度体を回転させ、視界も同じように移動したのと同時に、一瞬視界の隅に見えた真っ黒い染みのようなものが引っかかる。


 形まで識別することは出来なかった。しかし戸嶋は、先程まで感じていた怖気が再び血流を迸り、心臓の脈動が引っ切り無しに体を揺らす。

 最初は鼓動の揺れのみが感覚を刺激し、その次には一瞬視界にかかった真っ黒な染みについての問が駆け巡る。

 今自分が見たものは、なんだったのか。不意に視線を動かそうとするがどうにも動かす気になれない。なぜなら側面の壁から迸る異質な感覚は、毎晩襲ってくる悪夢にそっくりだったからだ。それに今は、普段の感覚に加えて病気からくる幻覚のような気配すら混ざっている。いわば現在戸嶋には、先程の黒いなにかが「病気からくる幻覚」なのか「本当にこの世のものではないなにか」なのか、確認するすべがなかった。


 加えて今西も「戸嶋は調子が悪いのではないか」という疑問符を浮かべている。そんな状態で更にこのことを話すことも出来なかった。本当であれば全て打ち明けてしまえれば良いのだろうが、今までの入院の経験と病気の変遷を考えれば、この自由な生活を手放したくないという気持ちが恐怖よりも勝り、徐々に視界に入ってきている黒いなにかの存在を自ら否定した。


 戸嶋は自分が今、客観的に見てどのような状態なのか分からなかった。自覚しないほうが良かったということは今の段階であってもよく分かる。必死に視線を目の前のダンボールに固定し、背後から話しかけてくる今西の声や、玉石混交の無数の思い出の感傷には目もくれず、黙々と作業を重ねていた。

 それから今西のホームヘルパーが終了するまで、戸嶋の視界の片隅では、真っ黒な人型が揺れていて、昼間だというのにどす黒い表情を浮かべているようだった。

 見えているはずがないのに、広角を力いっぱい上げて嘲笑を浮かべているように見えたのは、戸嶋の気のせいだったのか、はたまた本物だったのか、知る由もない。

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