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 眠りについてからどれだけの時間が経過した頃か、ふと目が覚める。一体何によって目が覚めたのかは分からないが、特別に珍しいことではない。持病を持ってから夜中に頻繁に目が覚めることは日常的になっていった。最近はそのようなことも少なくなっていたが、新しい環境でこの程度の覚醒であれば良い方だろう。

 しかしその日は、普段の中途覚醒と違っていた。静謐で満ちていた室内に、なにか異音がする。一瞬自らの幻聴であることを疑ったが、「とんとん」と何かを叩くような音が聞こえてくる。これは明らかに幻聴とは異なるものだった。戸嶋の幻聴はこれほど立体的ではないし、そもそも何かを叩くような音が幻聴として聞こえたことはない。統合失調症の幻聴は大抵、「人の声」や「自身に対する攻撃」が現れるものである。


 それでもこの奇怪な音には身構えてしまう。この異音の正体が判明するまで、安心することができないと頭で何度も反復し、真っ暗な中を狼狽するように周囲を伺う。異音の残響が沈黙に変える寸前、その異音は再び「とんとん」と軋むような音を上げる。


 音は戸嶋が眠っていた寝室の壁、二〇二号室から見て左側の壁から聞こえてきた。その方向を向き、戸嶋は絶句する。

 何もない壁に向かって、真っ黒い影が、まるで扉をノックでもしているかのように叩いている。正確に言えば、壁に向かって項垂れる影が、小刻みに揺れているようだった。その間は等間隔で「こんこん」と指関節で扉を叩くような音が響き渡っている。その現実味のない光景に、戸嶋は声を出すこともできないまま体を強直させる。次に湧き出てきたのは、その非現実的な光景が自身の幻覚の類であるかを考える自己懐疑。だが即座に、それは打ち砕かれる。恐らく、理性で自分の過去の幻覚のことを遡るよりも早く、一瞬にしてそれがこの世のものではないことを思い知らされる。


 感覚としては命の危機が差し迫っているものに近い。自らの一挙手一投足が、死に直結しうるのではないかと実感させられた。そこまで言ってしまうと大仰かもしれないが、今までに経験したことのない「不明瞭な存在」に対しての恐怖感は、拭うことができずにそこにあるようだった。そんな正体不明の存在を前に、戸嶋は何も言わずに布団に入り込む。思いっきり布団を被って、「自分は何も見ていなかった、これは夢だ」と言い聞かせて呼吸することしかできなかった。

 何度も、何度も、何度もそのことを反芻して、頭の中から瞼に焼きつけられた暗がりの影を忘れるように努める。しかしながらその程度で記憶からあの影が抹消できる事はできず、加えて戸嶋のことを嗤笑するように、扉の音は感覚を狭めていく。

 とんとん、とんとん、とんとんとん、とんとんとん、とんとんとんとん。

 戸嶋は震えが止まらなかった。一瞬これが持病による震えか、投薬による副作用かを疑うが、そんなことがあるはずもなく、心臓は爆音を上げる。布団と皮膚の間にはじんわりと汗を張り付かせ、不快さは「恐怖」という理由付けを更に助長していく。体と感情というものが一定のつながりを持つことが頭でわかるからこそ、上がっていく血液の熱により、深く茹だされるようだった。


 ジメジメと不愉快な気持ちを更に掻き立てるように、「とんとんとんとんとん」と、明らかに人間が出せる感覚ではなくなるほど、激しい音が周囲に散乱し始める。もはや間隔すらも途絶え、連続した音の羅列に戸嶋は再度、近くにいるのが「この世のものではない」ことを実感させられる。

 もう何度、確信めいたことを繰り返しただろう。どこかで否定したい気持ちがあったのは容易に理解できる。もういっそ、これが持病の再発であっても構わないとすら思えるほど、今の自分は切迫を極めていた。それでも戸嶋にできることなど何もなく、最大限の抵抗として念仏を唱えてただひたすらに、布団に顔を埋めるのみである。その間にも壁を叩く音はひっきりなしに鳴り響き、こちらが失神するまで続くのではないかと思った矢先、ぽつりと音が途切れた。


 残響こそあるものの、一瞬で静寂に帰した周囲の状況を、戸嶋は自らの心臓の高鳴りをもって理解する。痛いほどに鳴り響いている爆音が、血管を揺さぶるように痛覚を刺激していると、壁を叩く音はそれ以上響き渡ることはなかった。徐々に心拍が正常に戻っていく感覚がした。口を開くことなく鼻で荒く息を吐けば、じんわりと脳の周りが熱を帯び、休息に筋肉が弛緩していく。謎の異音がようやく消えたのだ。そう肌身で感じた途端、今度は体が急に重くなる。何かがのしかかっているような圧迫感が襲ってきた。

 金縛り、不意に頭に浮かんだ言葉は戸嶋が思っているよりも適切に、肉体を縛り付けていた。その感覚、はこれまでに経験したことのない不可解さであり、全身の筋肉が強直するように力が入り、更にその上から質量のない圧力によって押さえつけられているような感覚に近い。

 いつの間にか仰向けになった体と、部屋に流れているであろう生暖かい風が頬に触れ、まるでこちらを見ろと言わんばかりに瞼をピクつかせる。閉じきった瞼にすら力が入っているようで、上手く体を動かすことができない。同時に、目を開けていいものかと恐怖が躊躇させる。それを嘲笑するように周囲には、再び気配が廻り始めた。


 呼吸が、激しく高鳴っているのを肌で感じさせた。音を気取る鼓膜はというと、まるで膜でも張っているかのようにくぐもった音しか脳に響かせず、戸嶋の感覚に触れているものは、どこから生じたのかわからない歪な人の気配、体の上にのしかかっているなにか、そして振動になっている浅い自分の呼吸である。

 戸嶋は一瞬、これが全て自分の夢かなにかだと錯覚する。少々前に自分が想起した、統合失調症の症状の一つかと思い至るも、これほどリアルに心を揺さぶられる記憶はなく、その可能性すら頭振る。何が起こっているのか? 自分はどうなっているのか? 数多の疑問が降って湧いては、同時に「恐ろしい」という感情に気圧されてしまう。

 最初のノック音を聞いてから、どれくらいの時間が経過したのだろう。どこから先が現実であるのか、はたまたこれが夢なのか、戸嶋は必死にこの状況から抜け出すため、様々な理由を思案するが、当然のようにそのどれもが意味をなさず、周囲で廻っている気配に揺さぶられた。


 一体どれくらいそれが続いた頃かは分からないが、突然廻る気配が動きを止めた。あくまでも、周囲を廻っていたなにかが動きを止めただけであり、沈黙の影を踏むように、気配の存在はありありと瞼の外側に息づいていた。それから気配は静止したまま黙り込み、暗がりに立ち尽くすが如く存在し続ける。


 そこからの時間はより長く感じた。永遠のように感じられたというほどのものではないかもしれないが、少なくともそれに近い時の圧縮を突きつけ、閉じきった瞼には力が入る。表情筋の痙攣が少しずつ筋肉に痛みに変わり始め、その痛みが恐怖心と拮抗し始める。そんな折、先程まであれほど強く感じていた恐怖心が少しずつ弱くなっている気がした。

 強い恐怖に晒され続け、不快な現象が続いたせいで、一種の慣れが働いてしまったようだ。不快な感覚は変わりないが、正体不明なものに対しての恐怖心よりも、「どうして自分がこんな理不尽な事態に晒されているのか」という不快さが勝り、そこを皮切りに今度は怒りの感情が芽生えてくる。

 そうなれば今まで固く閉じていた瞼も、怒りによる浅慮で力が緩む。一瞬、本当に視界を開けていいか躊躇が生じるものの、その躊躇は目を開いた事による後悔によって感情ごと流されることになる。


 瞼を開いた先にあったのは、真っ黒の顔だった。


 一瞬それが、どのようにしてこちらを見ているのか理解できなかった。固定された視点から入ってくる情報によると、仰向けになった戸嶋の体に正座をしている状態から、前のめりになる形でこちらの顔を覗き込んでいるようで、息が止まりそうになる。同時に今まで体を縛り付けてきたであろう圧力は、これが原因だったと腑に落ちるところもあり、少しずつ合点がいくような納得も生じた。

 それは逆説的に、その程度の思考レベルしかできないほど、状況は一瞬で戸嶋の心を恐怖一色に染めたことを意味する。視界一面に広がる真っ黒な顔の表情は伺い知れない。だからこそ想像がさらなる恐怖を増殖させるようだった。表情の伺えないこの顔が今、どのような意思を持ってこちらを眺めているのか。疑問はあれどそれを見てしまったら、間違いなく正気ではいられないだろう。

 戸嶋はとっさに開いてしまった目を閉じようとする。しかし、それができなかった。瞼が、下がらない。過剰な緊張が原因なのだろうか。理屈は分からないがどうしても目を閉じることができなかった。意識的に動かそうにも、目の前の顔に釘付けになっているような感覚がまとわりつき、目先にある窪んだ眼窩が広がっているような、曖昧な顔の輪郭を、穴が開くまで見つめてしまう。

 自分は一体、何をしているのか。この状況は。

 渦巻く疑問に対して答えは出ることはなく、ただただ真っ暗な顔を見続ける時間は、もはや一般的な時間の概念が存在しないような気すらするほど、長くも短くも感じられた。それが唐突に終わりを告げたことを実感したのは、朝日がさしてスマホにセットしたアラームが響き渡る頃であり、自分がいつ眠り、いつ金縛りにかかり、いつ意識を失ったのかすらわからない頃である。


 目を覚ます頃にはカーテンからうっすらと朝日が溢れていて、アラームの機械的な音が等間隔で鳴り響いている。自身はというと仰向けのまま目が醒めており、夜中の記憶は本当に存在したのかと思わせる程の静謐が部屋中を包み込んでいた。しかしそれとは裏腹に、戸嶋の体は、全身が筋肉痛に襲われ、衣服と皮膚の間には汗で滲み、穏やかな眠りをしたとは思えないほどの疲労が体の節々を鳴らしていた。


 戸嶋は体を起こして、軋むように痛む体を壁へ凭れさせる。もちろん、昨日になにかがノックしていた壁に体を預けるのは抵抗があり、体をあえて移動させて、ベランダ窓に背中を凭れ、朝日が壁のかかる玄関側に視線をやる。

 今のは、何だったのだろうか。冷静になって考えてみようにも、戸嶋は上手く思考をまとめることができないでいた。自分が体験した出来事は夢幻の類なのか、それとも実際に自分が体感したことなのか、はたまたこれは、自分が持っている病気が新たな症状として現れたものなのか。すべてがおざなりの説得力しか持たず、戸嶋はため息とともに強い辟易の念が溢れる。そんな戸嶋が出した結論は、「睡眠時における意識の曖昧な状態が作り出したもの」という解釈である。それ以外に、あの現象に何かしらの解釈をすることができそうもなかったから。

 むしろそれ以外の理由を当てはめてしまうと、薄暗いあの玄関がインターホンを鳴らし、なにかこの世のものではない存在が扉をノックしそうな気すらしてしまい、それこそ病気が再発してしまう危惧があった。

 だから適当に理由付けをしてしまうのが一番だろうと思ってのこと。そもそも、オカルトの類など一切信じていない戸嶋にとって、それ以外の回答などは最初から選択肢にすらならないほどだった。


 だが、そんな戸嶋でも、一つ明らかにおかしいことがあったことは覚えている。自分の体にのしかかって、こちらの顔を覗き込んでいた、真っ暗な顔のことだ。確かにあの顔はどこを見ても表情を映さずにいたが、意識を失う瞬間、戸嶋は顔を見ることができた気がした。そこにあったのは、誰のものでもない、自分の顔だった気がする。

 あれは一体何だったのだろうか。それを見た途端、意識は奪われる。まるでドッペルゲンガーでも見たような不吉な気分だった。当然戸嶋は、ドッペルゲンガーなどという虚構の産物を信じることはしない。それでも噂程度に概要を聞いたことがあるし、今回の話がそれに近いということを感じるだけで、深く追求することはない。あるのはただ、「新居で金縛りにあった」という事実だけなのだ。

 一方でそれだけで片付けることのできない、胸騒ぎを残すには、今回の出来事は十分すぎる。戸嶋はただ呆然と、自分が起きたことを咀嚼することしかできなかった。それが本当にできることなのかは分からず、凭れかかったまま、暫くの間動くことができないでいた。

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