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 静観な町並みから自宅に戻ってくると、誰もいないリビングが飛び込んでくる。実家ぐらしのときは、必ず言っていた「ただいま」という言葉一つなくなるだけで、随分と印象が変わるのは、初めての一人暮らしだからだろう。帰宅のたびに誰もいない一室を一瞥するたびに、実家の不愉快な記憶も浮かび上がってくるが、ひとまずこの静かな自宅に帰ってくるということに慣れるには、もうしばらく時間がかかりそうだ。


 まだ片付けきらないアパートの一室は、これからの生活に対する期待と不安が混在しているようだった。今までのように他者に縛られる人生ではなく、いい意味でも悪い意味でも、あらゆることが自分の責任で行われ、自分の責任で時を過ごすことになる。一切の言い訳が効かない生活を今後していくとなると、はからずもその緊張と高揚が浮き出るような気配がある。

 中途半端な荷ほどきには、過去に対しての不安以外にそんなものがあるのではないかと、戸嶋は踏んでいた。とはいえ荷ほどきをしないと部屋がごちゃごちゃしたままだ。部屋から帰ってきて適当にお茶を開け、重苦しいダンボールの前に腰を下ろせば、眼下には半開きのダンボールから覗く思い出の品々が顔をのぞかせる。


 ふと、戸嶋はダンボールに手をかける寸前で動きを止める。何かが、ダンボールの中で蠢いた気がした。


 その後すぐに息を呑む。そんなことはありえない。このダンボールの中に入っているのは、古めかしい卒業アルバムや、子どものときから愛用している筆記用具の類、大切にしている本など、なにかが「動く」ようなものはないのだから。しかしそんなものを感じると目覚めは悪く、なんとなくダンボールを開く手が妨げられた。無論それは、「初めての一人暮らしで少々心もとない」だけではない。戸嶋の頭にちらついたのは別の不安である。


 けれどもその不安を頭に浮かべてしまうと、本当に恐れていたことが現実になってしまいそうで、戸嶋はあえてそのダンボールを別の方向へ滑らせて、衣服が入った別のダンボールの荷ほどきをする。

 そもそも昔の思い出の荷ほどきは優先順位が下がるし、この気分の悪さの中であの荷ほどきをしたくなかった。なんなら、あのダンボールごと捨ててしまっても良いとすら思うこともある。思い出の類一式をわざわざ実家から持ってきたのは、「そうしなくてはならないから」という、強迫観念のせいであろう。そのため自発的に捨てることもままならないわけだが、持っているだけでタンスの奥にしまい込むことくらいはできる。

 とにかく、あれには触れたくない。戸嶋はそれを何度も反芻して頭の中で言い聞かせる。ちらついた不安を拭うように、黙々と荷ほどきをしていけば、その不安も徐々に鳴りを潜めてくる。


 ある程度の荷ほどきが終わる頃には、すっかり夜の帳は下り始めていて、月明かりが窓から差し込み、暗がりによってあらゆる輪郭が曖昧になり始めていた。

 普通であればもっと早い段階から電気をつけるものなのだが、戸嶋はその頓着が薄く、電気をつけ始めたのは夜の一九時を回った頃であり、人によっては真っ暗と形容するであろうどす黒い暗闇である。戸嶋はというと、さしてそれに問題を感じず、「暗くなってきた」程度の感覚でしかないのだが、この感覚のズレで何度も苦しめられた記憶がある。


 元々戸嶋は、やや感覚過敏的なところがあり、特に音と光には殊更強く反応する傾向があった。音は人よりも遥かに立体的に聞こえるようで、甲高い金属音はより苦手意識が強く、些細な音のトラブルで頭が割れるように痛み、激しい耳鳴りが襲ってくる。光に関しては音よりも遥かに仕事へ影響があり、特にパソコン作業のようなブルーライトを強く受け取る作業は、長時間続けることが出来ず、最終的には目を閉じて作業するに至った。タッチタイピングができればある程度の文章は、目を閉じていてもかけるし、最後の添削作業のみで目を開けば良いのだから、光に対して敏感であってもさほど気にかからない。


 問題はそれが、周囲からすれば「サボっている」と見られることで、仕事の出来栄えと関係なく何度も陰口を叩かれ、上司から叱責されたこともある。感覚過敏については、正式な見解を得ていなかったこともあって、目を閉じての作業は人がいないときに限定し、それ以外はブルーライトカットメガネでなんとか作業することができるほどだった。勿論、そんなことを続けていては体を壊すため、その結果が今の休職状態であると言えるだろう。

 思えば、戸嶋は自分が見ている景色が他の人間と違っている可能性について、考えたこともなかった。自分が見ている光景、聞こえている音、すべて同じように他の人も感じているだろうと思っていたが、どうやらそれは違ったようで、何度もそのことが軋轢になった記憶がある。今となっては、もうどうしようもないことであるが、何となく自分の中で、それが棘になって溜飲を下げるに至らない気もしている。


 そんな昔話を考えているうちに、外は完全な夜に閉ざされ、これ以上の荷ほどきは明日以降しようと思い至る。自分ひとりでは作業の切れ目も曖昧で、なんとなくの時間で作業を切り上げてしまったが、そのまま適当な食事を取ってシャワーを浴びて寝るには十分な時間である。

 それに、新しい住環境についた戸嶋にとって、持病の薬を正確な時間に接種できるように、服薬カレンダーをみっちり一週間分、薬手帳を眺めながら準備していく必要があった。その時間を加味すれば、少々無理のないところで留めるのは正解かもしれない。


 戸嶋の持病、統合失調症は服薬が今後の人生で常に付きまとうもので、それと付き合っていく上で服薬管理は欠かせない。統合失調症というと、不治の病のように思われるかもしれないが、たしかに完全に元の状態に戻るようなことは極めて稀である。それでも、症状が殆ど出ずに安定している状態となる「寛解」というものは存在する。現在の戸嶋は、「寛解状態の統合失調症」であり、継続的な服薬によって症状がほとんど出ていない状態だった。


 戸嶋の統合失調症による主な症状は、「幻聴」と「幻覚」である。統合失調症の中では最もポピュラーな症状であり、一時は入院するほどの激しい幻聴が聞こえていた。聞こえるはずのない声、理性ではわかっていても、そのあまりにリアルな声に対して、戸嶋は昔から悩まされていた。勿論、あまりにも非現実的な幻聴であればある程度自分でも対応ができるのだが、仕事中に陰口に近い幻聴が頻発し、それによって職場での就労が困難になってしまった過去がある。


 統合失調症の幻聴症状は、そのあまりのリアリティに多くの人間が「現実だ」と思い込んでしまう恐ろしさがある。実感はありながらも、それでいて病気のせいだと理解する事はできるのだが、感情のコントロールができず爆発してしまうことがある。

 その時の感覚は言い表し難く、強いて言えば「我慢に我慢を重ねた状態で、些細なことを理由に爆発してしまう感覚」が長時間継続することに近い。気持ちのコントロールが一切利かず、それに加えて常にまとわりつく幻覚、それが継続した結果心はすり減ってしまう。

 薬は統合失調症によって起こった精神的な異常を、薬でコントロールする。状態が安定していれば、ある程度の服薬コントロールで症状はかなり抑える事ができるし、そうなってしまえば強い幻覚症状に悩まされることもなくなる。当然、それはしっかりとした服薬がデキている前提であり、それが失われた瞬間から坂を転げ落ちるように症状は悪化し、不安定になる。

 戸嶋は統合失調症と付き合っていく道を選んだ。恐らくは、完全に元の状態に戻ることはないだろう。自分自身それを理解しているからこそ、服薬の重要性を骨身にしみているのだ。それを怠らないようにするために、どのように服薬をコントロールするかは精神障害を持つ者にとって最重要である。


 戸嶋は幸い、決められた薬に対して特に不快感もなく、安定して服薬することが出来ていたため、百円ショップの服薬カレンダー程度で賄うことが出来ている。人によっては訪問看護やヘルパーなど、他者の助けがないと安定した服薬が行えない人もいる中で、戸嶋は一定の水準の能力を保持していた。


 現在戸嶋が服薬している薬は、過剰な脳神経の動きをある程度抑制する作用のある抗精神病薬。激しい症状がもし仮に出てしまった時の頓服薬。所謂うつに近い症状が現れる陰性症状に対して、気持ちを高めていく抗うつ剤の三種類だ。

 主に日常的に服薬しているものは抗精神病薬で、これは統合失調症に頻発する幻覚や幻聴を抑えるためのものである。戸嶋はこの種類の薬を毎食後に服薬している。抗精神病薬は過剰な鎮静作用によって傾眠や体重増加などの副作用があるものの、現在戸嶋が服薬しているのはそこまで強い反応を示すものではなく、落ち着いている状態をより長く継続させるための服薬だ。


 現在、統合失調症が寛解している戸嶋にとって、健常者と言われる人々と異なる部分はこの服薬のみである。勿論服薬の副作用により、不調に陥ることはあるが、統合失調症的な症状は、ここ数年は現れていない。正確に言えば、実家を出て精神障害者向けのグループホームに入居してから、落ち着いている。


 しかし戸嶋は不安視していた。新しい生活、新しい環境、新しい寝床で眠りにつけるかどうか。人にもよるが精神病を患っている人は夜が一つの関門になる。体の疲労に対して、本来「体を休める」時間に当たる夜には、数多の感情や記憶が爆ぜるように頭へ流れ込んでくる。これこそが統合失調症に頻発することであり、「頭が働きすぎてしまっている状態」なのだという。黙っていても無尽蔵に頭へ情報が流れ込んでくるような、過去の記憶を引きずり出して延々と再生され続ける感覚は、戸嶋にとって今でも鮮明であり、恐怖感を与える事となっている。


 その感覚が一度でも生じれば、次に同じように陥る可能性が飛躍的に高まる。殊更新しい環境という状況なら、その状況が偶発性を伴って出てくることもあるだろう。

 戸嶋は久方ぶりに、寝るのが怖くなった。窓の外は暗がりに薄光を刺す月が雲に顔を隠し始め、僅かな情報すらも闇に閉ざしていく。何も見えなくなれば、それだけ頭の中が活発になりやすいことを、戸嶋は体感的に理解している。

 「大丈夫だろうか」誰もいない室内に、自分の声が木霊した。そんなことをぼんやりと話している時点で、自分のメンタリティが落ち込んでいることは理解できるのだが、それを落ち着かせる手段を持たない。一応、症状が激しくなった時用に頓服薬はあるものの、それについても「妄想や幻覚が激しい時」に限定されている。つまりある程度、自身の認知コントロールでなんとかしなくてはいけないのだ。誰に利かせるわけでもない自分の言葉が、そのまま動揺を表しているようだった。


「寝よう」


 いくつもの逡巡が頭にさらされたが、そんな中で戸嶋が選択したのは「眠る」ことだった。これ以上、何か悶々と考えていても仕方がないのではないか。そう自覚した瞬間、戸嶋は体を動かせる。普段着用している寝巻き姿に着替えて、歯を磨き、静かに床につく。幸いだったのは、時計を置かずにスマホを使っていたことだった。戸嶋は特に寝る時の音には過剰に反応し、秒針が進む音すら気にかかることがある。特に今みたいな不安定な状況であれば尚の事、あらゆる音が気になってしまう。

 それもなく、ただただ自身と布団がこすれる音のみが、静謐の糸を破らずにさざ波を立てている。あまりの静けさに、静寂が音を立ててきそうなほどであり、戸嶋は正直安心して目をつぶる。静けさが強ければ強いほどに、頭の中で発生する音が大きく聞こえることがある。それもなく、ごく淡々とした意識が規則的な波形で眠りに落ちていくような気がした。それに伴い、体の糸が切れるように、少しずつ布団に食い込む体が意識を手放していく。

 意識が事切れる瞬間は、今までの不安はなかったかのように一瞬で、次には思考は一斉に眠りへ落ちていく。

 新しい環境の疲労が、むしろ心地よい眠りの足がかりになったようだ。戸嶋は妙に安堵させられながら、意識から完全に手を離した。

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