第一章 部屋

2

 引っ越しの荷ほどきの作業というものはこれほどまでに大変だっただろうかと、戸嶋樹は腰を鳴らした。

 最低限の荷物しか入っていなかったはずであるが、それでも使い込んだ衣服や本の類などはそれなりの重量になっていたようで、二階にまで運び込んでくることはそれなりに肉体的な疲労がかかっているようだった。新居というにはあまりも在り来りなアパートの一室、ここから自分の生活が新たに始まっていくのだと思うと、なんとなく侘しさもあるのだが、それでも自分ひとりだけの生活というものは随分と気楽に思える。生まれてからもう三十年と経過しているのに、実家を出たのはこれが二度目であり、体験はしているものの目新しい一人暮らしの再開だった。


 戸嶋は早速、越してきたばかりの「コーポ・峰山」の二〇二号室をぐるりと見回した。扉を開け放ってすぐに玄関があり、上がり框を越えた右隣にリビングへの扉がある。入ると六畳のダイニング兼用のリビング、リビングに併設されたバスルーム、そしてリビングの奥の仕切りを隔ててベッドルームが位置している。ワンルームに毛が生えた程度の物件であるが、それでも一人暮らしをするには十分である。トイレは玄関の右に設置されており、バストイレ別の物件が絶対条件であった戸嶋にとってそれを満たし、かつ賃料が尤も安かったのがこの物件である。尤も、この場所を仲介してくれた管理会社は一般的な不動産屋ではなく、社会的に身寄りの少ない人間に対して積極的に部屋を貸し出し、場合によっては家財道具のレンタルなどもしてくれる。戸嶋も管理会社を訪れたときには、利用している人間のあまりの様相に驚きを隠せなかった。自身を担当してくれた隣のブースでは、明らかにカタギのそれではない風貌の男や、自分に定住先がないと思しき発言をしている世捨て人同然の佇まい、とにかくそこに集まる人間すべて、世間から見捨てられた人間であることは、素人である戸嶋でも容易に想像ができるほどだ。

 そんな管理会社にて紹介された物件の中で、いくつかの条件に合致するのがこの物件だ。他の部屋はそもそも賃料が予算から大きくハズレていたり、部屋の質そのものが悪かったりなど、理由はいろいろで、戸嶋が選んだのはここ「コーポ・峰山」であった。


 築年数こそ古いが、数度リノベーションされているとのことで、外観に対して内装は随分と新しい。それこそ中で暮らすにしては申し分ないほどにきれいだと感じられる。それだけの物件が相場よりも幾分と安かったため、戸嶋はここに越してくることになったのだ。何分経済的にも困窮しており、特に今は金がない。それに加えて長年のブランクも祟ってすぐに就労することも難しい。八方塞がりの状態から、戸嶋が選択できることなどさほど多くはないのだ。

 荷ほどきもそこそこに、戸嶋は環境の変化による疲れを拭うように、まだ何も置かれていないリビングの床にごろりと寝そべった。思わず目をつぶってしまうほど、体の疲労は蓄積していて、横たわることで初めてそれを自覚するに至る。人との関わりが負担になるのは分かりきっていたので、そのような負担を最小限にするために、既に大家への挨拶は済ませた上で、今日はゆっくり休めるようにベッドのみを使える状態にしていた。


 懸念点はいくつもあるが、戸嶋に最初の不安を与えたのは大家である野中の態度だった。どこかそっけない態度、といえば聞こえはいいと思うほどに無関心であり、干渉してこないことは良いことだとリフレーミングしてみても、味気ない態度にいい気分はしない。極めつけは「退去の際はできるだけ早めに話してくれ」とのことで、入居早々に退去のことを話されるのは、持病が大きく影響していると確信させるには十分すぎることだった。

 とはいえ、様々な人の助けを経てこの物件に越しているのだから、早々何処か別の場所へ転居することは考えていない。それこそ、よほどの理由がない限りはこの場所で暮らしていこうと腹に決めている。それを体現するように、戸嶋はひとしきり目をつぶった後、荷ほどきを再開した。


 忙しかった頃に比べると、今の時間の流れは随分とゆっくりに感じられる。勿論それは主観でしかないのだけれど、心の余裕と相まって、気持ちは晴れ晴れとしている。実家で暮らしていた頃はこんなにも、晴れ晴れとした気持ちになることは久しくなかったが、そこを出て一人自らの心と向き合うということは、じんわりとした時間の流れを、肌で感じるに等しいことのようだ。黙って荷ほどきをして、自分の過去と向き合っていると、窓からは日は傾きはじめ、西日がうっすらと部屋を茜色に染め始める。

 フローリングに散乱した光の欠片が随分と眩しく感じられるのは、今まで日差しに背を向けて荷物を見ていたからだろう。

 西日が差し込む頃の時間は好きだった。社会人になる前は、過ごしづらい実家を飛び出して、適当に道を散歩するのが好きで、この時間はふらふらとしていることが多かった気がする。実家が小学校の頃から過ごしている場所から変わっていないからか、散歩でほっつき回る場所などは限られており、あえて幼い日に歩んだ通学路をダラダラと歩いてみたり、道草を食った公園を遠くから見てみたり、時間の流れを今のように感じていた気がする。それも社会人になってからはとんとなくなり、砂時計を黙ってみているような時間の流れを感じる時は、殆どなくなった。


 なんとなく、外を歩いてみたい。そんな気持ちが浮かび上がってくるのはおよそ必然であろう。暫くの間、忙しない時を過ごしていた中での休息の一時、過去の出来事が思い出されないはずもなく、荷ほどきを放り投げて、戸嶋は玄関を開けて新居から見慣れない光景を一瞥した。

 とはいっても、二階廊下から鉄柵に手をかけて眺める程度であり、視点はさほど高くなく、展望台から一望されるような感覚は見られない。ただひたすらに、のんびりとしたアスファルトの群れが地平線まで伸びているだけの光景。何の変哲もないと言われればそれまでだが、そんな景色すら今の戸嶋にとっては、緩く流れる人生の一時のようで、どこか充足感があった。


 そんな戸嶋に「あの、二〇二号室の方ですか?」と声がかかる。声に釣られるように、戸嶋はそちらへ視線を向ける。隣の二〇三号室の扉の前に、声の主であろう女性が訝しむように立ち尽くしている。その女性は引っ越しの段階では見たことのない人物であり、鈍色のワンピースにサンダルをつっかけている、生活感あふれる服装である。部屋着の割にワンピースという部分が引っかかるが、それ以外はどこにでもいそうな佇まいだ。

 ただ顔色はお世辞にも良いとは言えず、発色の悪い白い肌は不気味で、どこか死相を思わせるのは気の所為だろうか。思わぬ紊乱者に戸嶋は「はぁ」と気のない返事を返すことしか出来ず、困り顔で女性の方に顔を向けた。

 すると彼女は、ぺこりと頭を下げて「隣に住んでるミズキです」と丁寧な挨拶に出る。正直、どうして声をかけてきたのかということで頭が一杯になっていたこともあり身構えていたが、単純に近所の挨拶だと思えば気持ちは緩む。同じように「二〇二号室に越してきた戸嶋です」と返すと、ミズキと名乗った女性の顔は少しだけ変わった。


 どこか物憂げな表情を浮かべているものの、気にしている確信に対して立ち入ることは避けるように、こちらの顔を伺っているようだった。

 挨拶からその表情の変化は、数秒にすら至らないほどの短い時間であったはずが、とても長い時間が流れているように感じられた。その原因がこの女性にあるのか、それとも戸嶋が持っている持病のせいであるか、どちらであっても突然現れた隣人との間に流れる空気感を一新させるには至らない。

 「あの、なにか?」妙に気まずい沈黙を最初に裂いたのは、戸嶋の方だった。その言葉にミズキはハッとするように、しかし悩まし気な面持ちで「あの、困ったことがあれば声でもかけてください」と、無理やり笑みを作って頭を下げる。そしてそのまま踵を返し、二〇二号室から見て左隣にある二〇三号室へと入っていってしまう。奇妙な隣人の態度に、戸嶋は訝しさが残りつつも、単に「お節介な隣人」程度の認識で留められることになる。


 戸嶋は一人暮らしが初めてだった。だから隣人関係などというものは初めてで、元々人間関係に対して上手くいったことがなかった戸嶋にとって、深追いさえされなければそれで良い、程度のものでしかない。だからこそ最低限の関わりに止めようと決めていたし、こちらから深追いをする必要もない。

 むしろそちらのほうが気持ちが楽である。今のやり取りの中も、得られたのは「隣の住人はミズキという女性で、妙に世話焼きの可能性がある」ということだけであり、一人暮らしがなにか変わるものでもない。

 だから戸嶋は、隣人との不自然な初対面に、さほどの関心を示すこともなく、そそくさと散歩へと足を運んだ。

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