名前のつけられていない部屋

古井雅

序章 幽霊アパート

1


 コンクリートに反響する街の喧騒からは、程遠い郊外のアパートは静かな佇まいと隠密さを備えている。一方そのアパートには、とある「噂」がある。よくある話であり、周囲からは「幽霊アパート」と言われるような場所、はたから見ればただそれだけのこと。しかし大家の野中にとってそれは死活問題であり、入居者が定着しないこと、そもそも入居希望者が入ってこないことに直結する重篤な問題である。


 大家としてこの「コーポ・峰山」の管理をしてから、野中はまだ日が浅いものの、どこかこの物件が他のところとは違っていることを肌で感じていた。

 具体的に何かがあったわけではない。そもそも野中は「コーポ・峰山」から少し離れたところに住んでいる。そのため、さほど物件に対しての知識を持っている訳では無いが、管理するものとして物件に足を踏み入れることは多々あった。時間にしておよそ数時間程度。爪の先程の時間でありながら、野中はあまりの空気の悪さに顔をゆがめ、「プライベートでは立ち入らないでおこう」と、腹に据える感覚を抱いたのは今でも鮮明に残っている。

 この物件がいまだ存続しているのは、具体的な目撃襟や体験談があるわけではない、というところが大きいだろう。そんな体験談が出るようになっては、未だこの物件に居を構えている、酔狂な人間も根こそぎ立ち退くことになる。野中の直感だけの話であるが、そう確信させる程度には「コーポ・峰山」は不気味な佇まいを都会に根付かせている。


 アパートに越してきた大学生、立山光一が退去するという話を聞いたのは昨日だった。二〇二号室の入居者で、昨月越してきたばかりだという。管理者という立場でありながら、管理のほとんどを契約している不動産会社に丸投げしている。住んでいる人間がそんな名前であったと思い起こすまで時間がかかるという体たらくさであるが、それでも「退去」となると耳を欹てるには十分すぎる理由である。


 とりわけ「二〇二号室」ともなれば、野中の個人的な興味も湧き出てくる。「コーポ・峰山」のなかでもとりわけ「やばい」と言われているのが、そこである。野中が大家になる以前から、そこは忌避されていたと聞いている。この手のオカルト話に興味がなくても、そこに染み付いた話は興味を惹かれるものがあった。あそこに入居する面々は、ほぼ例外なく、一月と持たないという。商売をするうえではこの上ない厄介事であるのは間違いないが、それだけ一貫している割には、大家である野中ですら「二〇二号室」で何が起こっているのかを知らない。

 怖い話では常連の「髪の長い女がベッドで何かをささやき続ける」だの「丑の刻に扉を叩かれる」など、少しくらい具体的なエピソードが出てきても良いのではないか。野中の漠然とした感覚であるが、その手の話が全く出てこないのはまさに異質さを纏っているようで、心霊の類など一切信用していない野中が唯一、信じても良いかと思わせる原因となっている。


 そんな野中の「コーポ・峰山」に対しての距離感は、はたから見れば職務怠慢であると言われても仕方がないのだが、本日退去するという立山は、ご丁寧に野中のもとにまでやってきて、ぶっきらぼうでありながら「お世話になりました」と頭を下げに来た。最近の若者にしては丁寧だと思いながらも、野中はそのまま送り出すのになんとなく罪悪感が生じる。妙に丁寧な立山に、「こんなアパートに越させてしまった」ということへ漠然とした気持ちが出てきたのだ。そうなってしまえば「次に引っ越す先は決まっているのか」とか「何があったのか」という部分が気にかかる。そんな野中の気持ちを内包する言葉が「大丈夫? なにか、あった?」という抽象的なセリフだった。


 その言葉を聞き取った立山は露骨に表情を歪める。言葉は出てこないが、顰めた眉先とやつれた表情が「なにかあった」ことを物語っている。しかしここでも具体的な言葉が出てこない。終いには、そのまま何も言わずに再び頭を下げて歩み去っていってしまう。野中は急な態度の急転に気分を害された感覚にさらされながらも、「二〇二号室になにかがあること」を確信する。

 同時に、それは自分が預かり知るものではないことも理解していた。だから胡坐をかくように静観を貫くことを頭の中で反復する。これから無数に出てくるであろう好奇心に絆されぬように、と。

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