7
「なにか、部屋でありましたか?」
覚束ない応え方をした戸嶋にミズキは、含みのある言い方をする。
一瞬そのまま聞き過ごしてしまいそうな言葉に戸嶋は寸前で「部屋で」という言葉に引っ掛かる。不自然な態度であることは誰が見てもわかるだろうが、どうして「部屋」とあえて限定的な言い方をしたのか。
戸嶋は直感する。この隣人は、戸嶋が住んでいる部屋二〇二号室がどんなところなのかを知っていて、それで何かしらの警告を発しているのではないか。いくつかの逡巡が戸嶋の口元を動かし、「この部屋は、何なんですか?」と曖昧な言葉繋ぎをした。
その言葉にミズキは歩みを止めて、戸嶋のほうを一瞥する。その動作を見て初めて、彼女が通りがかりに呟かれた言葉であったことを理解する。そのまま歩み去り、二〇三号室へと入っていく寸前、戸嶋の声に対してミズキは歩みを止めたのだ。
「部屋で、何があったんですか?」
ミズキは毅然とした面持ちで再度そう尋ねる。彼女の蒼白の肌と冷たい眼差しでそう言われると、なんとなく気迫を感じるが、それ以上に佇まいのドライさに対して、彼女が明確に部屋に住んでいる自分のことを気にしていることがなんとなく伺い知れる。
違和感がない訳では無い。ただのご近所付き合いにしては随分と気にかけてくれている印象があり、どうして赤の他人であるミズキがそんなことをする必要があるのかを考えると、素直に彼女のことを頼る気にもならないのだが、今の切迫した状況が戸嶋の感情を動かす。
「夜、ノック音、聞こえませんか?」戸嶋は脈絡なくそうミズキに言葉を投げた。
自身が最も不快に感じている出来事。あの悪夢の中でのノック音。一体あれは何なのだろうかという気持ちと同じく、叩かれている壁の向きが気になっていた。
悪夢の中では毎夜同じ場所がノックされていた。決まって全く同じ場所。その方向にはミズキの居室である二〇三号室が位置していたはずである。もしあの音が現実になっているのであれば、当然あの音はミズキにも届いていると考えるほうが自然だった。
それを確認したいという意志が働いたのかも知れない。しかし彼女から帰ってきた言葉は意外なものだった。
「音ですか。そう、貴方の場合、音……」
意味深な言葉だった。まるで人によって生じる現象が異なっているかのような口ぶりである。
同時にその態度は、ミズキの部屋まであのノック音が聞こえていないことを示していた。ありえないことである。この物件は木造住宅であり、あれほど激しいノック音がなっていれば、少なくとも隣接する二〇三号室には何かしらの影響があってもおかしくない。
よくよく考えてみれば、この物件はさほど大きなものではない。戸嶋が入居前に聞いていた「コーポ・峰山」の部屋数は四件であり、二〇二号室と二〇三号室以外に二部屋あったはずだ。そのどれからも、苦情の類が出てきていないということも引っ掛かる。
頭を割るような激しいノック音はたしかにあったというのに、まるでこの部屋以外には伝わっていないかのような振る舞いに、戸嶋はその時初めて混乱した。
戸嶋は直感する。自分が持病で精神疾患を持っていなかったら、もっと混乱しただろうと。もし仮に自分が精神病由来の幻聴を経験していなければ、「自分がおかしくなったのではないか」と感じて精神的に参ってしまってもおかしくなかった。だが自分は、精神病由来の幻聴を知り尽くしている。その感覚とは明らかに異なるノックの音。あれは間違いなく現実に鳴っている音だと確信できる。
尤も、この感覚のズレが戸嶋を悩ませる一因となっていた。加えて自分があの部屋で感じてきた一連の出来事について、他者から信用を得る手段すらも失ってしまったことになる。他の住人にすら認識されない出来事を、アパート外の人間に信じさせるのは不可能に近いだろう。
戸嶋は独り愕然と項垂れる事となるが、ミズキの態度は違った。「部屋、見せてもらってもいいですか?」と意外な発言を行い、二〇三号室の扉から離れて、戸嶋が立っている二〇二号室の前まで移動し、半開きの室内を一瞥する。
「もちろん、抵抗があるのであれば構いませんが……」
名前のみを知る、ほとんど赤の他人を部屋に招くのは当然抵抗があったが、四の五の言ってられる精神状態でないことは自分がよく理解していた。
ましてや、中には竹澤の顔を覗き込んでいた人型がいるかも知れないと思うと、独りで二〇二号室の扉を閉めようとは思えない。素性もわからないということを考えれば一抹の不安こそあれど、言い知れぬ未知の不安を抱き続けるよりは遥かにマシに思えた。
そんな思考が一周する前に、戸嶋は条件反射が如くミズキを自宅の中に招き入れていた。理性が戻ってくる頃には、彼女は既に室内に入り込んでいて、ぐるりと室内を見回している。まるで心霊系のテレビ番組で、甲斐甲斐しく霊視を する霊能力者のようないで立ちと想起するも、よくよく見ればミズキのほうが遥かに幽霊らしい佇まいをしているところが実に歪だった。
しかしながら、ミズキは霊能力者のように、指を指して心霊の存在を指摘するなどということはなく、「戸嶋さん」と声をかけてくる。
「ここで何があったのか、できるだけ正確に教えてもらってもいいですか?」
ミズキは冷静に、二〇二号室で何があったのかを戸嶋へ問いかける。そこには当てずっぽうな推測を並べるテレビの霊能力者ようなチープさはなく、今までのどんな人間よりも力強く感じられた。
だからか戸嶋は、ほぼほぼ初対面である彼女に対して一切の躊躇いもなく、ここで自分が見てきたものを、できるだけ事細かく話した。いつの間にかそれは、自身の病気のことも触れるほどにプライベートな内容になっていき、戸嶋自身ここで起こった出来事が現実のそれであるという確証が持てないでいることも打ち明ける。
すべてを無言で聞き終わったミズキは、表情を歪めて首を横に振る。
「戸嶋さんがここで見たものは、幻覚じゃないんです。私もここのすべてを理解しているわけじゃない……でも、この部屋が異常だって言うことは、分かります」
「信じて、くれるんですか?」
戸嶋が呟いた言葉に、ミズキは真剣な眼差しで首を縦に振った。その表情は単純に、戸嶋の話を信じているというより、もっと自分ごとに捉えているようだった。他人事とは決して思えていないような態度。同時に自分の病気のことなど、いい意味でも悪い意味でもあまり興味がないと言った面持ち。
間違いなく、ミズキはこの部屋について何かを知っている、そう確信させる凄みが彼女にはあった。けれどもミズキは、具体的に二〇二号室について言及することはなく、静かに踵を返し「私から言えることは、すぐにここから出ていくことです。決して、決してこの場所が何なのかを知ろうとしてはいけない」とだけ言葉を繋いだ。
「ミズキさんは、何を知っているんですか? ここは一体何なんですか!?」
戸嶋の叫びにも似た疑問符に、ミズキは当然のように毅然とした態度で戸嶋の方に振り向く。表情はぴくりとも動かない。青白い顔色と全くの無表情、その態度と話の内容と相まって、冷静さを通り越した不気味さが垣間見える。
その態度だけでそれ以上の言及を妨げられるような気がした。その感覚に違わず、ミズキは「この部屋について深く知ることが、一番の危険になるから」と言い、今度は戸嶋に質問をする。
「戸嶋さん、貴方は、貴方が越してくる前の住人のことを知っていますか?」
これには思わず戸嶋は顔を歪めた。当然、自分の前の住人など知る由もない。
戸嶋はこの物件を「心理的瑕疵物件」としての説明を受けていなかった。ミズキからこの質問をされた戸嶋は、心理的瑕疵物件、いわゆる事故物件であっても、次の入居者が問題なく住んでいれば引き渡したあとに説明義務がなくなるらしいということを思い出す。
もしかしたらここは、説明がなかっただけで何かしら問題のある物件だったのだろうか。それまで浮かんでは「そんなことはない」と決め込んでいた可能性にぶち当たり、それが戸嶋の表情を歪めることとなる。
そんな態度をミズキの前で晒せば、彼女も当然のように戸嶋の事情を察するに至る。
大方何も知らないままこの物件に入居してきたのだろうという推測がなされたことは、すぐにミズキの表情へと刻み込まれ、途端に気の毒そうな表情へと変わる。今まで一貫して無表情であったミズキの人間的な態度に、戸嶋は妙に不気味さを感じるが、そんな戸嶋の感情を遮るように「やっぱり」と溢れた言葉は、ミズキ自身が噛み締めているようだった。
「戸嶋さんの前に、ここに住んでいた人は皆、短い時間でこの物件から出ていきました。それも、違和感があって物件のことを調べ始めた後すぐに、です。いいですか? 絶対にここのことを調べてはいけません。深く知れば知るほど、貴方はこの部屋のなにかに引きずり込まれるでしょう。私も正直、この部屋になにがあったのかはわからないんです。わかるのは……この部屋について深く知れば知るほど、おかしくなっていくということだけです」
ミズキは、今までの少ない言葉数に対して随分と長く言葉を発した。それでも彼女の言葉を、戸嶋は上手く咀嚼し切ることができなかった。
理解できたのは「二〇二号室に暮らすものは短いスパンで出て行ってしまうこと」と「部屋について調べることが危険である」ということだけ。
これだけの情報では、「この部屋で何が起きているのか」や「そもそもこの部屋で何が起きたのか」という部分の理解には至らない。すべてが漠然と「二〇二号室は何かが変だ」という薄皮一枚をまとう情報しか残されていない。
戸嶋は話の信ぴょう性以前に、この話が理解に値するものとは思えなかった。
こんな非現実的な話を事実だと受け入れるほうが甚だ困難だろうし、そもそも話のレベルは、病気が悪化して入院していた際、妄想の症状が強い人と話したときの内容と同じようなものである。
こんなものを信じるほうがどうかしていると頭では理解できながら、今まで部屋の中で起きたあらゆる出来事、病気の妄想や幻覚ともまた違う現実感。生真面目そうな隣人がこんなことを真顔で話していることなど、様々な角度からミズキの話に一様の整合性を通しているようだった。
しかし同時に、今の話が現実に近づけば近づくほど、戸嶋の中で今度はミズキに対しての疑問が湧き上がってくる。
彼女はこちらに対して明確な忠告をしながら、自らはその危険性の高い物件の横、二〇三号室に留まり続けている。整合の付かない矛盾に戸嶋は当然の引っ掛かりが生じ、それに対してミズキへ疑問を投げる。
「もし……もしそれが、事実なら、どうしてミズキさんはここで暮らしているんです?」
ミズキはその言葉に対して「そうですね」と肯定的な態度を見せるものの、次の切り返しでは「とにかく、戸嶋さんはすぐにこの部屋から出て行ってください。病気持ちの貴方にはより、ここは危険でしょう」となおも戸嶋のことを案じていた。
戸嶋はミズキの話から、「この部屋が異常であること」は強く理解させられるものの、どうして彼女がここまで極端な肩入れをしてくるのか、なぜ彼女自身がこのアパートにとどまっているのかという、本質的な部分がひた隠しにされていることに引っ掛かりが拭えなかった。
けれどもミズキは、戸嶋の逡巡を縫うように玄関へと移動しており、ゆっくりと玄関扉に手をかけていた。一体いつの間にそこまで移動したのかと思わずにはいられない程の速度感であるが、それはおよそ、自分が思考の世界に閉じ込められていたからこその感覚なのだと思うと合点がいく。既に彼女はこの部屋から歩み去りたいという感情を精一杯吐露しているような気すらしてくる。
ミズキがこの部屋に向けている感情は恐らくそんなもので、それは戸嶋にもはっきりと感じられる。特に「毎日叩かれる壁」に対しての彼女の態度は露骨だった。そもそもこの部屋のことを知っていて、自ら望んで長居する人間などいるはずがない。それでも戸嶋はミズキに、これだけは確認したいということがあった。その感情が「あの」という言葉へと代わり、扉を開いていたまま体を制止させたミズキは無言のまま立ちすくむ。
「……夜、貴方の部屋まで音は、聞こえますか?」
渦巻いていた疑問符が収束したのは、なんてこともない質問である。だがそれが、戸嶋にとっては自身が正気であるかを分け隔てる重要な要素だということは、幻覚や幻聴に対して十分すぎる理解がある戸嶋だからこそ理解できることであった。
返ってきてほしい言葉は決まっている。「あの音は確かに鳴っていて、うるさいくらいだ」彼女の言葉が唯一、自分が体感してきたことが現実へと帰結させるような気がした。だが、ミズキから告げられた言葉はその願いを打ち砕くには十分すぎるものである。
「……その音は、この部屋の中でしか発生していないものです」
ミズキの言葉は重苦しく胸に突き刺さる。それは遠巻きに「自分がおかしい」ということを告げられているような気がした。足先から全てが崩れ果てる感覚に立っていられなくなる感覚に陥ったものの、ミズキはその感情の変化を読み取るように、扉を開いたまま戸嶋へ振り返る。そのままミズキは口を開くが、その内容は戸嶋にとっては衝撃的なものだった。
「でも、貴方が体験したことは現実です。今のところ、貴方はまだ正気だと思いますが……ここに住み続ける限り貴方はどんどんおかしくなっていくと思います。だからすぐに、ここから出た方がいい。私が言えるのはそれだけです」
ミズキはその応えを待たずに、扉を閉めて二〇二号室から歩み去ってしまう。
残された言葉は戸嶋へ「自分がおかしくない」ということを確信させるものの、同時にこの部屋の異常性が際立つような感覚を突きつける。
戸嶋は閉じられた空間の中で、今までなんの変哲もなかった二〇二号室をぐるりと見回す。視覚的には全く持って変化のない空間が、今までの経験とミズキの言葉から、どこか異様な雰囲気へと変わりつつある気がした。それは今までのどの感覚よりも異質であり、この世のものとは思えぬ違和感が纏わりついているようだった。
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