第8話
8.
七月二十八日。
冷涼な気候のロンデュルンにおいて、夏は駆け足にやってきては過ぎ去ってしまう季節のことだ。牛が飼育小屋に入り、もっと短い収穫期がやってきては去り、あとはあっという間に雪が降るのを待つばかりになる。
その貴重な短い夏を寝て過ごしてしまったエリザベスは、夏の花のスケッチができなかったことを思い出す、そんなことにしか今は、意識を向けることができないでいる。
エリザベスはひとり。
いつかそうだったように、今はひとり。
熱は下がった。助かった。でも。
……ワーナー夫人は行ってしまった。ローラが追い出した。
寝台の上、エリザベスは紅茶の入ったカップをくるくる回す。冷めていて、渋い。味の繊細さはまるでわからないのに、苦みだけは舌を刺す。ひょっとすると二番煎じの出涸らしかもしれない。もう、エリザベスのために奔走してくれる人はいないから。
ローラは高らかにこういったという、
「お前は傍についていながら、この子が毒を盛られるのを防げなかったじゃないの! 家庭教師失格! 失格よぉ!」
父ジョージもまた、妻の意見に賛同したのだそうだ。
「家庭教師の仕事は子供を躾ること、守ることも含まれる。あなたはその任務を失敗したのだ」
と。言って。
エリザベスの大好きな先生は。ワーナー夫人は、あっけなくグレイウィルを追い出された。最後の別れの挨拶さえ、させてもらえなかった……。
すべてはエリザベスが起き上がれるようになる前に行われたから。発することのできなかったさようならを、腫れがひいた喉の奥にしまい込んだまま。
いなくなったのはワーナー夫人ばかりではない。メイドのヘレンは配置換えになった。遠い別宅の掃除婦として飛ばされてしまった。
リチャードにも会えないままだった。彼はもうグレイウィルを旅立ってしまったのだろうか? 父親みたいだという人と一緒に。
次に会えるのはいつになるのか、そもそも社交界デビューさせてもらえるかもわからないエリザベスだから、会えるかどうか、わからない。
身近な人間たちを一気に失うと、足元ががらがら崩れていく感じがする。もう血を吐くことはなく、瞼が腫れがって目が見えなくなることもないのに、恐怖だけがいつまでもこびりついている。
新しくエリザベスづきになったメイドは太ったあばた面の中年女で、てきぱきと仕事が早いのはいいものの、その間ものべつまくなしに喋りまくる。
「あたしぁねえ、先々代の旦那様の頃からお仕えさせていただいてますけれども、ちょうどそのときもこんなことがあってねェ。ちっちゃいお嬢様が突然原因不明のお熱を出して、そのままいかれちまったんですよ! ねえぇ。エリザベスお嬢様は助かってよかったですねええ」
悪い人では、ないのだと思う。
けれど今のエリザベスには荷が重い相手だった。第一、声が、すごく頭に響く。
「それにしたって毒だなんて! ひどい話だこった。お嬢様、なああんにも悪いことしてないのに。かわいそうなことですわねえ、ねェ?」
ジョージとローラがなんといってワーナー夫人を追い出したのかも、エリザベスはこのメイドのおしゃべりから知った。だからだろうか、それと彼女はなんの関係もないと分かっているのに、彼女の顔を見るたびにワーナー夫人がもういないということを実感させられる。
エリザベスの気持ちはまだ整理がつかない。現実はひたすらつらい。
「そんじゃ、あたしはこれで。毒、おお、毒! いやな言葉だこと。安心してくださいねェ、お嬢様、これからのお食事はぜえんぶ、毒見してからお出しするってキッチンが言ってましたから!」
そうして仕事が終わったメイドが行ってしまうと、エリザベスはようやくほうっと息をついて寝台の上で寝返りを打った。途端、ちくりと肘と膝に痛みが走る。寝付いた間に体力を消耗して、転んでもないのに擦り傷のように血が滲んでしまった箇所だった。そこに寝間着の生地がひっかかったのだ。……着るものの質が、下がったのをエリザベスは感じている。
もしかしてだけど――ワーナー夫人はこれまで、エリザベスの待遇についてローラに訴えてくれていたのかもしれなかった。ほとんど乳母のように、彼女がローラによる嫌がらせから守ってくれていたのかも。
もう、確かめるすべもない。エリザベスにできることは空いた窓からのぞく月を見上げて、
(先生。ワーナー夫人。どうかよい夜をお過ごしください)
と祈ることだけである。神様に祈った。無事と、幸せと、安寧を。その結果を知るすべはなかったけれども、祈ることで心が救われてほしいと願った。祈りは、半分は自分に向けてのことだったのかもしれない。
みじめな夜が始まろうとしていた。たとえローラが殴りに来たって、誰も庇ってくれない夜が。
エリザベスがすべてを拒否して眠ろうとしたとき、コンコン、とノックの音がした。扉から? いいえ、音が違う。慌てて反対側をむく。
金色が光った。見間違いかと思ったけれど、おかしいのはエリザベスの目の方だった。どうして……どうして?
窓ガラスの外、リチャードが、いた。バルコニーも何もないのに。まるで宙に浮いているみたいに。
「――!」
エリザベスがほとんど悲鳴を上げて窓に取りついた。重たい上げ下げ窓の、ネジ式の、グレイウィルにおいてさえ古い鍵を苦労して開け、さび付いたような窓の戸を肩まで使って上に開く。
「り、リチャード、どうして……」
「お邪魔します」
と笑って彼は室内に滑り込んできた。エリザベスは彼の後ろ姿を、なんてことないさ、と言わんばかりにわざと埃をはたく仕草をする背中を見、頭を突き出して下を見た。すると、案外近いところに下の階の窓のひさしがあって、見上げるとここの窓にも同じものがある。リチャードはこれに立っていたのだった。こんな危ないことを!
エリザベスが振り返って問い詰めようとしたときだった。
「おっと、」
と、かなり近くで声がして、リチャードの清廉な美貌がエリザベスの目と鼻の先にある。
病み上がりの身体が、心臓が爆発しそうになった。顔にかーっと血が集まって、真っ赤になっていくのがわかる。
裏切られた怒りなど、どこかに飛んでいってしまった。だって。目の前に、リチャードがいるのだ。顔があるのだ。青い深い海の色の目が。
彼はエリザベスの頭ごしに、落ちかけていた上げ下げ窓を受け止めた。片手で。
「よっ……と」
と、そのままするする下まで窓を下げて、手が巻き込まれないようにさっと引いた。エリザベスが真似したら、間違いなく手の骨を折るに違いない。
年は、十一歳だという。そうとはとても思えない。リチャードは大人のように振る舞い、エリザベスはそれに陶然とする……この二人には、いつの間にかそんな関係ができあがってしまっていた。上下関係、に近いのかもしれなかった。
リチャードはエリザベスのつむじをしばらく見つめていたが、やがて静かに、
「生きてて、よかった……」
心から安堵した声だった。
「君が死んでなくて、よかった」
エリザベスの目に涙があふれた。えぐ、としゃくりあげる少女に、少年は腕を広げる。
飛び込んできた小さな身体を抱きしめて、リチャードはエリザベスの頬に頬を寄せ、彼女の髪の柔らかな匂いを感じた。
「死んでしまったかと思った。でも、君は生きていた。――女王陛下、感謝いたします……」
少しずつ、エリザベスの泣き声は大きくなっていった。
メイドが様子を見にこないのは、もはや彼女がグレイウィル伯爵家で見捨てられかけていることを示している。けれどそんなことを気にかける暇もなく。
大人と子供のように少年は少女を慰め、そうして時間が過ぎていった。夜はとっぷり更けていく。妖精の森はきらきら光る……。
「もう行かないと。無理を言って出てきたんだ」
やがてリチャードは言い、その言葉に嘘はなかっただろうけれど、
「いや。行かないで。ここにいて。もう私のそばには誰もいないの。あなたと一緒にいたい。私の目を見て話してくれるのは、あなただけだった」
と、まるで舞台の縋る役の女優のように、エリザベスは彼に縋りつくしかなかった。
リチャードの悲しそうな顔は、エリザベスの胸を痛ませる。それでも九歳の子供は、自分を制御できなかった。
リチャードはきっと、ものすごく地位の高い人の子供なのだ。貴族の女の子の部屋に忍び込むなんていう、突拍子もないことをやらかすくらい向こう見ずなのは、それだけ周囲の支えがあるから。今まで失敗らしい失敗もなかったに違いない、そうなれるだけの才能や頭の回転の速さを持った人。
エリザベスはそうしたものに憧れて、けれどそうはなれないと諦めた子供だった。リチャードは彼女の憧れの権化だった。
「あなたは誰なの? どうして窓から忍び込むなんてことができたの?」
「それは話せないんだ、ごめんね。ただ……ただ、君がちゃんと回復したのをこの目で見たかったんだ」
リチャードの手が優しく、しかし断固とした意志でもってエリザベスの手を引き剥がした。
「エリザベス・アン・ハウスオブグレイウィル。誓うよ――すべてが終わったら、僕の本当の名前を君に伝えよう。また会いに来るよ」
「あ……」
手が離れ、リチャードは身軽に扉の方へ。その先には誰がいるともわからないのに、ぱっと飛ぶように跳ねて、暗い廊下の果てに消えてしまった。
エリザベスはしばらくその場に立ち尽くしたまま。
何が起きたのか、頭では理解して感情が拒否していた。
大切な宝物が喪失する痛みを、エリザベスははじめて味わう。母の顔を知らない自分に初めて気づいた、五歳の時と同じに。
頭の中がぐるぐるしていた。彼女はそのまま寝台に戻り、病み上がりも手伝って再び熱がぶり返して寝込んだ。
三日、うんうん唸りっぱなしに唸り、起き上がったときには誰もいなかった。
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