第10話



10.




剣。諸刃の。きぃん、と音がする。剣先が古い石の床をかすめた音だ。


フェンシングの試合のように、けれど剣先につけるカバーはなく、それを振るう人にも手加減はないように思われた。


「――お父様!!」


エリザベスは絶叫した。グレイウィル伯爵ジョージはちらりとエリザベスを見て、また視線を前に戻す。


前――ジョージの剣を紙一重で交わしながら、いたぶられているのはリチャードだった。彼の金の髪が、満月の下にこうこうと光った。


「エリザベス!」


と、リチャードは叫ぶ。まだ若い少年のまろい声。小さな身体をくるっと回転させて、彼はジョージの一撃をかわしたが、服が破れ血が流れた。


「やめてェ! お父様、やめて! 何をしているの!!」


エリザベスは父に飛びつき、難なく突き飛ばされる。


「娘よ、なんだってこんな夜半に出歩いているんだ? 家庭教師は何をして――ああそうか、もういないんだったか」


と父は笑い、エリザベスを見ることはない。


「ホラホラ、どうした小僧。かかってこないのか、うん?」


父はリチャードと同じ、金髪碧眼の美男子である。代々受け継がれてきた美貌を醜悪にゆがめ、小さな身体の少年をいたぶる姿。これは本当にエリザベスの知っている父なのだろうか? 何もかもが悪夢のようだった。


エリザベスは打ち付けた肩をかばいつつ叫ぶしかない。


「リチャード……リチャード! 逃げて!」


だが、逃げられないのは誰の目にも明らかだった。


ジョージには立派な剣が、柄のところに宝石飾りをあしらった重い剣があり、リチャードは生身のままなのだから。


ついにその切っ先が少年の身体をとらえた。きゃああ、とエリザベスは悲鳴を上げた。


「ベス――!」


と、リチャードは確かにエリザベスを見て、手を伸ばし、エリザベスはそっちに行こうとして足は動かず。立ち上がれもせず。


リチャードが父ジョージの剣に切り伏せられるのを、ただ眺めるしかなかった。


こと切れた少年の、右の肩口から左の脇腹までまっぷたつに切られた傷口から、大量の血が噴き出る。石畳の隙間に血は染み入り、グレイウィルの城に何百年も前の戦乱の頃を思い出させた。


「天の軍勢が君を迎え入れんことを。安息を!」


と、父は剣を鞘に仕舞い、歌うように告げた。そして目を細めた顔で、返り血に濡れたままエリザベスを振り返り、


「ベス、いったいどうしてこんなところまで? おかげで取り逃がすところだった」


と、まるでなんでもないことのように言うのだった。


エリザベスは夕食をその場に全部吐き戻した。


父はそっとエリザベスをよけて、磨いた靴の先に吐瀉物がかからないようにした。彼は不思議そうにエリザベスを見下ろす――不思議そうに、ではなくて、本当に不思議に思っているのだった。娘が彼の予想を超えることをするはずがないのだから。


「なん……ッ、げえ。なんで……ぉぷ……ッ」


と、エリザベスはなんとかそれだけを言葉にすることができた。ぜいぜい咳き込みながら、自分の出したもののにおいに苛まれながら。


「なんで、リチャードをぉ……ッ」


ぼろぼろ泣きながら、父の膝に掴みかかり、小さなこぶしで布地を握りしめた。


あーあ、とジョージはだめになった衣服に残念そうな目を送ったが、生真面目にも娘に答えてやることにした。


「なぜって、あれが我が家に入り込んだ害虫だからさ」


ジョージは中腰になってエリザベスの顔を覗き込んだ。彼は決して膝を折り曲げることはない。偉大なる女王陛下の前以外では。


「なんだ、ほしかったのか?」


「あああ……ぁぁッ」


エリザベスは手で這ってリチャードのところへ向かう。石のくぼみに指をひっかけて進んだので、爪が割れた。それに構うこともできない。


少年の死に顔は安らかだった。どこか、ごめんね、というときの顔に似ていた。左右均等の彫刻みたいな顔だ。骨格が全体的に華奢で小づくりで、彼は角度によって女の子みたいに見えた。眠っているように、幼く見える。金色の髪は血に染まってもきらびやかだった。海のように深い青の目が瞼からのぞくことはもうない。二度とない、のだ。


「これは我が家へ放たれた間諜だったんだよ、エリザベス」


と後ろからするジョージの声には、エリザベスの耳が悲しみのあまり半ば塞がっていなければわかっただろう、戸惑いと慈愛があった。


彼は彼なりにエリザベスを愛しているし、彼らしい理屈でもってリチャードを切ったのだった。


「どうせグランパかどこかが送ってきたんだろうが……、ふん。私たちグレイウィルの血族を疑うなどして、そのままですませてなるものか。必ずや借りは返してやろう。――だからエリザベス、かわいいベスや、お前もそう気に病むな。代わりの犬か猫でも探してやろう」


エリザベスはきっと顔をあげた。憎悪、ではない炎が胸に渦巻いていた。失望、だろうか。絶望、に近いのかもしれない。このひとが、我が父が、こんなことをするとは夢にも思わなかった。エリザベスの敵はいつだってローラだった――父ジョージはその背後で、女の戦いを笑いながら見ているだけの人。直接的な被害を与えられたことはない、諸悪の根源である人。ただそれだけの。


でも考えてみれば、この人がエリザベスをローラの手の届かないところにやってくれていたら。たとえばアミリアの実家だとか。遠くの乳母に預けてくれていたら。


エリザベスの人生は、違っていたのだ――


彼女の意識はそこで終わる。


「ベス? かわいいベス、気絶してしまったのか。おやおや」


と、あくまで不思議に思うことを隠しもせず、ジョージは娘を見下ろし、


「おおい、誰か。いるかい? ベスが死体の上で気絶してしまったよ。救い出してやっておくれ」


と使用人たちを呼んだ。彼がパンと手を叩けば、決して音が届く範囲ではなかったのに、わらわらとフットマンたちが現れる。


ここはグレイウィル。伯爵であるジョージの支配する領域である。彼はここの王であり、エリザベスを含むすべてを統括する支配者だった。


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