第9話
9.
妖精帝國コールスランドの、短い夏が過ぎ去った。もう九月も終盤に差し掛かろうという頃。カレンダーを見ると二十五日だった。
最近の大人たちのパーティーは喧噪がひどい。高く鳴るバイオリン、いつまでもピロピロと同じフレーズを弾くピアノ、おしゃべりの域を越えたカン高い笑い声の真ん中にいるのは、もちろん義母ローラだ。
エリザベスはため息をついて本を閉じる。グレイウィル伯爵家の小さな図書室から探してきた冊子で、ヴァンパイアについて書かれていた。
心臓を銀の短剣か釘で刺さなければ死なない。正しく埋葬すれば蘇ってこない。聖水を戸口に振りかけておけば入ってこれない。流れる川は渡れない。日光でボロボロに焼け死ぬ。――けれども、それらすべての制約は、力の強い古いヴァンパイアには適用されない。
(ずるいわ、そんなの)
と、エリザベスは思った。
(強ければ全部の約束を跳ねのけられるなんて)
でも、案外人間もそうなのかもしれなかった……六百年の時を生きる女王陛下は例外として、大臣たちが悪いことをしても罰されないなんてよく聞く話だし。
エリザベスは本に目を通す。もうずいぶんたくさん、妖怪や幽霊についての本を読んだ。
それからスケッチブックを取り出して、見聞きしたたくさんの人あらざるものたちの絵を、挿絵や口絵をマネして書き写した。
――リチャードはもしかしたら人間ではなかったのかもしれない、と。
思い始めたのはいつからだったろう。もしかしたら最初から、気づいていたのかもしれない。
母の幽霊が出たバルコニーに現れた男の子。不思議と足音がしなかった子。使用人たちに聞いてみても、いいえ、その頃にお子さん連れのお客様なんていらしたかしら……そう、笑われる。
ワッハッハッハ。と、大人の男のダミ声が廊下とつんざいて聞こえてきた。パーティーは時間をかけて肥大し、ますます長くなり招待客は多くなるようだ。
エリザベスは今開いているページを見つめる。
長い髪をたらした女性に、ヴァンパイアが忍び寄る短編小説のワンシーン。
女性は愛する夫がヴァンパイアだと知り、絶望するが彼と一緒に生きることを決め、ヴァンパイアにしてもらう。そのなりかけの最中に、夫の兄にいいよられる。ヴァンパイアになりかけの人間に、最初に血を与えたヴァンパイアとは別のヴァンパイアが血を混ぜると死んでしまうらしい。
夫の兄は彼女を殺して自分のものにしようと、血を混ぜようとする……血を混ぜるって、どういうことなのかしら? 自分の手でも切って、相手の傷口に擦り付けるのだろうか。
「この世は、気持ち悪いことばっかり」
……ということが、どうやらエリザベスにもわかりかけてきた。
ワーナー夫人の次の家庭教師はまだ見つからない。というか、父はその義務を忘れているのではないかと思う。ローラが思い出させないようにしているのかも。
もし――もし、父が自分に向けていた最後の関心があとかたもなく失われ、完全にローラの管理下に置かれたら、と思うと、エリザベスは恐怖のあまり身震いする。もはや頼れる人は誰もいないし、雇用主に逆らえない中でも身を挺して守ってくれた人たちも、いない。心の拠り所だったリチャードも。
そのときがきたらエリザベスはローラに殺されるかもしれない。みんなが、そんな、考えすぎですよぉと笑う中で。
最近のローラはとくに、常軌を逸していた。
深夜、パーティーはとっくに終わったのに正装して盛った髪をさらにかき上げ、カン高い声を発しながら庭を歩いていたり。ヴィクトリアの男友達、つまりは六、七歳の男児を執拗に問い詰めて泣かせたり。バスタブに何時間も浸かっていたり、そのまま化粧をするものだからおしろいが全部禿げてしまったり……といったことを、エリザベスは新しい太ったメイドから聞かされていた。
彼女はヘレンの半分も気遣いがなかったが、そのぶんいろんなことを聞かせてくれるので、エリザベスはこれまでになくグレイウィル伯爵家の内情に詳しい。もっとも、話すうちの大半は眉唾な噂話だったが。
ローラが狂っている理由は、なんなのだろう。太ったメイドが言う通り、次の子を妊娠しているせいなのだろうか?
さて、夜が来たのでエリザベスは本を閉じる。部屋に運ばれてきた夕食は冷めてパンもカリカリに乾いていたが、最近はずっとこうなのだった。守ってくれる大人がいないと、子供の扱いというのはすぐに落ちていく。
大人しく寝る支度をしているうちに、メイドが今日の服を回収し、明日の服を衝立の上に広げて部屋を出ていった。
よし。エリザベスは寝間着のまま立ち上がり、あのバルコニーへ駆けあがった。
この邸宅の東の隅っこに、妖精の森が見える一画に、近づく使用人はもういない。
バルコニーで母に会えたのはあれっきり。分かれの日以来、リチャードが来たことだってない。それでもバルコニーはエリザベスにとって大事な場所だった。あそこからすべてが始まった気がする、という思いさえあった。
今までに何十回となく行き来していたから、自室からの道のりはもう目をつぶっていたって歩けた。足取りは軽く、そう――エリザベスは完璧に油断していた。
重たい鉄の扉を押し開けるコツはもう掴んでいた。誰かが油を挿してくれたように、今日の扉は素直で音も出さない。
まさかその先に剣戟が広がっているとは、思いもよらなかったのだ。
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