第3話


3.




ひと月が経った。女王歴六百八十年、五月。


花壇の花はライラックに植え替えられ、チューリップは抜かれて捨てられた。荷馬車に乗せられ、裏門へ運ばれていくまだ十分に綺麗なチューリップの株を、エリザベスは残念に見つめた。


最近日差しが強くなってきて、半袖や七分袖の服をヘレンが出してくれている。


今日のぶんの授業は終わり。押し付けられた縫い物に励むワーナー夫人のかたわらで、エリザベスは足をぷらぷらさせた。


「お嬢様、今日はお外に遊びに行かないんですか」


「ううーん、今日はね」


エリザベスは言葉を濁す。今日は六歳の異母妹ヴィクトリアの元に、同い年の友達が複数名、遊びに来ているのだった。


通常、貴族令嬢たちの交友関係はその母親が設定する。仲のいい貴婦人から性格のよさそうな娘を持つ貴婦人を紹介してもらい、子供同士を交流させるのだ。もう少し大きくなってお茶会を主催できるようになるまでの予行練習だった。


義母ローラはおそらく意図的に、エリザベスにそうした交流の機会を持たせなかった。よってエリザベスには友達がいないままである。六歳の異母妹たちの輪の中に、九歳なのにずかずか入っていくのも、気まずい。話し方もわからない。


ヘレンはまだ若く、そうした事情に疎かったのだろう。ワーナー夫人に目でたしなめられてようやく気付き、あ、と口元に手を当てる。それから慌てて、話題を方向転換させた。メイドたちの間で、ある噂が流行っているのだという話へ。


――古いバルコニーに幽霊が出る。黒髪を垂らし、泣きながら徘徊している。


泣いている理由はこう、私の指輪はどこぉ……。私の、私だけの結婚指輪……。


「それってもしかして、私のおかあさまのことかしら」


ヘレンは頷いた。


「まったく、失礼しちゃうお話ですよぉ。あたしは前の奥様のことはうちの母さんの話でしか知りませんけど、そんな、化けて出るだなんて。そんな人じゃありませんでしたってば」


「ヘレン。その話はお嬢様に不適切ですよ」


ワーナー夫人が声を尖らせる。赤毛のヘレンははっと話すのをやめた。


エリザベスはふふっと声を立てて笑う。気にしてないわ、というように。


「そうね。おかあさまがそんなこと、するはずないもん」


それで大人たちはほっとする。この少女がまだ大人の言葉の裏を読めるほど成長しきっていないことを、神に感謝するのだった。


もちろんエリザベスは自分の言ったことを信じているわけではない。彼女は母の幽霊に出会い、母が殺されたことを知り、復讐を誓った。でもそれは――大人にはナイショのお話。


だってそんなことを知らせたら、なんと思われるかわからない。


ワーナー夫人とヘレンはエリザベスの心許せる相手だったが、家族ではない。


この大きな邸宅で不用意な噂の的になることの恐ろしさを、エリザベスは九歳にしてちゃんと心得ている。亡き母が、来たばかりのワーナー夫人が、口さがないメイドの悪口に蹂躙されていくのを見ていたから。


エリザベスはぴょんと勢いつけて立ちあがった。


「やっぱり、ちょっと退屈。おうちの中を探検してくるね」


「お茶を淹れますよ、お嬢様。飲んでいかれては?」


と、ワーナー夫人は縫い物から顔を上げたが、


「ううん。退屈なんだもん。いってきます」


と、すでにエリザベスは扉に手をかけている。ワーナー夫人はヘレンと顔を見合わせ、ふふっと笑った。


「いってらっしゃいまし」


そうしてエリザベスは昼日中の、がらんとした、人気のない、グレイウィル伯爵家の中へ駆けだす。


主要なメイドたちはみんな、お庭のヴィクトリアお嬢様のお茶会に駆り出されているようだった。残っているのはお客様の前に出すには年が行き過ぎていたり、問題があると判断された者たちばかりだった。


今も彼女たちは廊下の曲がり角のところで固まり、バケツに雑巾を浸してテキパキと床や手摺を拭いながら、潜めた声で噂話に興じている。内容は主に女主人のことで、それが唯一の楽しみなのだった。


エリザベスは日の差さないところで働く彼女たちに、そっと近づいた。


「こんにちは。何をしゃべっているの?」


と、貴人の身分の少女が、それもほとんど忘れ去られたように東の隅っこで暮らす前の奥様の子供が話しかけてきたものだから、メイドたちは文字通り飛び上がって驚いた。


「ま、まあエリザベスお嬢様……」


「なんでもないんですよ。少しだけ、ねえ?」


「ええ。少しだけ。私たち、とても働いていますよ」


と口々に言う彼女たちが何を恐れているか、エリザベスは悟って、


「大丈夫よ。ローラお義母様に告げ口したりなんかしないから」


と、余裕ぶった口調でクスクス笑った。メイドたちもお愛想に笑う。耳で聞くぶんには明るい笑い声が生まれる。


「ねえ、――私のおかあさまの話を聞かせてくれない? どんな方だったの、とか。私、今、おかあさまのことを知っている人に聞いて回っているのよ」


と、エリザベスはにっこりした。


メイドからしてみればいい迷惑だったろう、仕事が忙しいのは当然そうであったから。けれど適齢期を過ぎた、華やかな仕事のない、これから先も長くグレイウィル伯爵家に世話になるであろうメイドたちは、エリザベスお嬢様と話せるチャンスを逃しはしなかった。


エリザベスは彼女たちと話し、聞かれるがままにワーナー夫人との授業の様子やヘレンとの会話のことも答えてやった。エリザベス本人は最小限にすませた、と思ったが、メイドたちがそこからどんな妄想を逞しくしたかは彼女たち次第である。


そしていよいよ本題に、エリザベスは母アミリアが亡くなったときの話を、メイドたちに聞いた。


彼女たちは太った、あるいは痩せた、隈のある、ほうれい線の浮いた顔を曇らせ、口々にこう教えてくれた――


「ええ、あれはおかしいとみんな申しておりましたですよ」


「そうですとも。あなたをお生みになったあと、奥方様はお元気でしたもの」


「それがねえ。急に様態が急変して」


「おかしいじゃありませんか。お医者様が来るまでもたなかったんですよ」


その声はエリザベスに、ますます疑いを色濃くさせた。


そしてエリザベスは自ら窮地に陥ったのだが、今はまだ気づかない。――彼女はメイドたちの悪口の網を甘く見ていた。こんな中年のちっぽけなメイドが、伯爵の血を継ぐエリザベスになんら影響を与えるはずはないと、見下していたのだった。


ワーナー夫人にもヘレンにも教えられない、それは女主人としての心得の一部だった。たとえどれほど無能に見えたとしても、使用人に心の内を悟らせてはならない、と……ヴィクトリアはローラから教わっていたけれど、エリザベスはそうではなかった。


「ありがとう。話してくれて」


と笑ってエリザベスはその場を離れた。このとき飴玉のひとつ、コインの一枚でもメイドに分配していたら、結果は違っていただろう。


メイドたちは顔を見合わせ、くぐもった笑い声を立てる。


そのうちの誰がローラにご注進に及んだのか……それはさだかではない。貴婦人ローラは告げ口しに来たメイドの顔なんていちいち見分けていなかったし、メイドとしても、ご褒美のケーキかコインがもらえればそれでよかったのである。


そしてその日、珍しくパーティーのない夜。エリザベスはローラの訪問を受けた。


エリザベスは警戒せずに扉を開けた。開けてしまった。


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