第2話



2.




夜になった。妖精の森は昼間と変わらずところどころがキラキラ光り、けれど今のエリザベスにはそれを見る余裕はない。


夜に一人出歩くのなんてはじめてだった。五歳になったばかりの頃、異母妹ヴィクトリアの二歳の誕生祝いに旅芸人が訪れて、その夜の公演をワーナー夫人と一緒にちょっとだけ覗き見た、それが唯一の夜更かしの記憶だ。


階段まで行く途中、ワーナー夫人が寝ている小部屋の前を通る。エリザベスの部屋の二つ斜め前。物音ひとつしないが、エリザベスは抜き足差し足でそうっと通り過ぎた。


手には何も持っていない。ちょうど満月の夜である。その綺麗さといったら、ペガサスを飛ばして月見したくなるほど。首都の貴族ならともかく、グレイウィル伯爵はペガサスを持つことができるほどの位ではないけれど、もしエリザベスが女王陛下ならそうしていただろう。


階段を駆け上がる。古い石づくりのそれには、真ん中に古びた赤い絨毯が引かれている。


大人たちのひそやかな囁き声、ときたま上がる笑い声が遠くに聞こえた。大きな邸宅の、中心の方から。


そこにはエリザベスの父ジョージと、義母ローラがいるはずだった。豪華な夜会服とドレスを身に纏い、まるで王様のようにして。グレイウィル伯爵家はロンデュルン地方一の名家だから、このあたりの貴族や富裕な商家はこぞって招待を受けたがる。


「ふんっ」


と小さく、エリザベスは鼻を鳴らした。


(私のおかあさまが生きていたら、あんなに騒ぐパーティーはぜったい開かなかったわ!)


ワーナー夫人はエリザベスの母アミリアのことを知っていた。大昔、学校で一緒に学んだ仲だったのだという。彼女から聞く亡き母は、それは綺麗で貞淑でおっとりして控え目で、どちらかといえば癇癪もちのエリザベスの理想だった。


母はグレイウィル伯爵家の家風に馴染めず、この東側の部屋を望んだ。朝食室や大広間や、家政を行うための女主人の部屋からとても遠い東の端っこを。母が亡くなると、エリザベスがそのまま部屋をもらったのだった。


部屋は、エリザベスの拠り所であり誇りだった。母がいたという証だった。


エリザベスは母アミリアのことを愛していた。愛されたことを覚えていなかったが、そんなことで愛することをやめやしない。


(おかあさま、私がおかあさまのご無念を晴らしてあげる!)


階段は長く、すっかり意気が上がっていた。けれど意気込んだエリザベスはぜんぜん疲れていない。古い鉄の扉にとりつき、バルコニーに入ろうとうんうん格闘する。それは子供には重すぎた。施錠はされていないけれど、蝶番が錆びているのだった。


「んー。んんー」


夜だから、小声で。エリザベスは必死に扉の取っ手を両手で握りしめ、体重をかける。室内用のふわふわした靴ではふんばりがきかず、ずるずる滑ってしまう。


それでもなんとかかんとか、ずずずと扉は動いて、あるとき急にふわっと軽くなり、


「わぁ!」


とエリザベスはバルコニーに倒れ込んだ。


衝撃を覚悟したが、それほど痛くなかった。まるで誰かが抱き留めてくれたかのようだった。


顔を上げたエリザベスはきょろきょろあちこち見回したが、あるのは兵士が隠れたという四角のブロック、取り壊された見張り塔の跡、ただまったいらの石組みが続くばかりである。誰もいやしない、コウモリの一匹さえ。


結局、彼女は気のせいだと思い直してバルコニーに進み出た。小さな胸は勇気ではちきれんばかり。心臓はとことこ躍り上がっていた。


「あの……おかあさま? エリザベスが参りました。え、エリザベスですっ。あなたの娘……」


風がびゅうびゅう吹いていた。古いバルコニーに、風を遮るものは何一つない。寝間着の裾がはためいて、たたらを踏む。エリザベスは口をぱくぱく開閉させる、池の魚みたいに。


「何か言いたいことがあるの? あるんなら、言って。エリザベスに教えて」


切れ切れの声である。それでもエリザベスは果敢だった。向こう見ずだった。


「ベスが、ベスが叶えてあげる! おかあさまの望みなら、なんだって。ベスが代わりにやってあげるから!」


エリザベスの頭の中で母はいつも笑顔だった。不平不満も愚痴なんて言わず、いつも上機嫌で優しくて。きっとエリザベスに会えたら、おいでと両手を広げてくれるに違いないのだ。ほっぺにキスをして、おでこにもキスをして。


エリザベスはそのとき、母の幽霊を探していたのではなく――そのぬくもりに、縋ろうとしていたのかもしれない。知らないぬくもりに。


はたして、幽霊はいた。


彼女は突然、バルコニーの一番先に現れた。背後に四角を従えて、その真ん中に、まるで舞台の主人公のように。揃えた両足、翻るスカート。袖もたっぷり生地を取った古風なドレスで、黒い長いくるくるの髪と一緒に風に踊る。


エリザベスは声もなく、ただその人を見つめる。


顔立ちは古い貴族そのものだった。左右均等に整って、細面、眉も唇も薄い。エリザベスは即座に義母ローラの丸い眉や肉感的でぽってりした唇を思い出し、おかあさまの勝ちだわと心から誇らしく思った。


「おかあさま……」


と、その娘が頬を上気させ、うっとりと見上げるのに、幽霊はまったく気づいていないようだった。エリザベスは母の視界に入ろうと、そろそろ進み出る。


「おかあさま、おかあさま。何をおっしゃりたいの。ベスが。あなたの娘が聞きに来たの……」


あんまり、尋常の光景ではない。


幽霊は血の涙こそ流していないが、雰囲気としては流しているようなものだ。長い黒髪を垂らしているだけでも貴婦人にあるまじき、異様な出で立ちだ。


エリザベスは寂しかったのだ。使用人は傍にいてくれるけれど、いつか結婚してやめていく。家庭教師も変わる。唯一血の繋がった父には、エリザベスの他にかわいい娘がいる……。


身近にあるぬくもり以上のぬくもりを、求めることは罪だろうか。傲慢さだろうか。


九歳のエリザベスにはそれはわからなかったし、――たとえわかっても、求めることをやめられなかっただろう。


「ベス……?」


と、幽霊はぎろり、視線を足元にうつした。そこにいるこぢんまりした少女を、しげしげと見つめた。向こう側が透けていなかったらエリザベスは、幽霊に向かって身を投げかけたかもしれない。


「はい、おかあさま。あなたの娘です」


「ベス。ああ、エリザベス……」


うううう、と幽霊は呻く。両手で髪をかき乱し、顔を覆って嘆き悲しむ様子を見せた。


「ああ――エリザベス。おかあさまはね、おかあさまは、ただ死んだのではありません」


風が幽霊の髪を吹き上げる。エリザベスと同じ色の髪が、同じように宙に舞う。


「おかあさまは、殺されたのです!」


エリザベスは息を呑んだ。天地がひっくり返ったかのような衝撃だった。


「エリザベス。よくお聞きなさい」


今やすっかり理性を取り戻した目で、生きている人のように幽霊は告げた。


「おかあさまは殺されたの。誰かに噛まれて死んだのです、ホラ、ご覧!」


幽霊が襟元をぐっと引き下げると、そこにはクッキリと歯型があった。首と肩の間のところ。まるでこのバルコニーのように円を描く傷が。糸切り歯のあるところが牙のあとのようにふたつ、丸い穴になっている。


「ここを、強く強ぅく噛まれてね。苦しんで殺されたのです。見なさい! ああ、痛かったこと」


「おか、おかあさま。おかあさま!」


「きっときっと、いつかあなたに伝えなければと思っていました」


「おかあさま!!」


エリザベスは悲鳴を上げた。強すぎる風の音がすべてをかき消していく。そのとき、上空で分厚い雲が風に追い払われ満月がその姿を現した。


その強い白い光に炙られるように、幽霊は消え始めていた。


「エリザベス。ここから逃げなさい。あなたはここにいてはいけない……」


「いいえ、おかあさま」


エリザベスは目に涙をためる。


「きっと、かたきを取ってあげる。ベスが、あなたを殺した犯人を見つけて差し上げますから!」


幽霊は、ふ、と笑ってエリザベスを見た。少女のあまりの愚かしさに呆れたようにも、逆にかわいく思ったようにも思われた。


そこに愛情があることだけが確かだった。それはエリザベスがはじめて触れる母親の愛情だった。彼女はまだ短い手を、精一杯アミリアに伸ばした。


「いいえ……いいえ。逃げるって約束して」


「しないっ! おかあさま……」


幽霊は悲しい顔を、慈しむ目をして、そうしてふっとかき消えてしまう。


それからはどれほど呼んでも、泣いても、エリザベスの元に彼女は現れなかった。


次の日も、また次の日も。満月が瘦せ細り、雲が出る日も出ない日も、階段で躓いた日もそうでない日も。エリザベスはバルコニーに通ったけれど、そのうちワーナー夫人が感づいて、鉄の扉を施錠してしまい、通いたくても通えなくなるまで。通ったけれど……もう二度とおかあさまに会えることはなかった。あのまなざしも長い指の手も、すべては幻想みたいに終わってしまった。


エリザベスは泣いて、慰められ、それを受け入れ、そうして誓った。


「逃げたり……しないっ」


小さな爪を手のひらにぎゅっと食い込ませ、こぶしを胸に当てて妖精に祈った。


「私がおかあさまのご無念を、晴らすの」


エリザベス、九歳の、最初の誓いだった。



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