エリザベス・グレイウィル伯爵令嬢は九歳で駆け落ちした
重田いの
第1話
1.
妖精帝國コールスランド、偉大なる神聖皇帝エリザベス女王在位六百七十四年目の、四月のこと。
グレイウィル伯爵ジョージはグレイウィル領ロンデュルンで一番の富豪マキロイ家の娘ローラと結婚した。ジョージは金髪碧眼長身の美青年。ローラは金髪の巻き毛にすみれ色の瞳の若い美女。まさにお似合いの結婚だったという。
そのお似合いさ、大富豪マキロイ家の有名さ、その財力が生んだ豪勢な結婚式と余興、それから集まった庶民にも振る舞われたたくさんの御馳走によって、ジョージが初婚でないことなどみんなに忘れられてしまったかに思われた。
当時三歳だったエリザベスがそのときのことをまったく覚えていなかったのは、ある意味救いだったのかもしれない。
***
物語は女王在位六百八十年からはじまる。
エリザベスは九歳になっていた。
ジョージと最初の妻との間に生まれた娘で、取り立てて特徴がないのが特徴といっていいくらい平凡な娘だった。
うねる黒髪、青い目、白い顔、乏しい表情。女王陛下にあやかって名付けてもらったのに、陛下に似ているところは何一つない。エリザベスはその母親に似ていた。今は亡きアミリアに。
前伯爵夫人アミリアは子爵令嬢だったが、エリザベスを産んだときに体調を崩し、とうとう起き上がれないまま一年後に亡くなった。そのさらに一年後、マキロイ家のローラと豪華絢爛な結婚式を挙げたのだから、ジョージも案外やり手である。――つまり、世の人はジョージとローラが前妻が生きていた頃からの仲だろうと噂するだろうし、またその通りだった、ということだ。
九歳のエリザベスはそのあたりの事情を、なんとなく理解していた。
彼女は普段、グレイウィル伯爵邸の東の隅っこの部屋で生活している。家庭教師とメイドが一人ずつついていてくれて、身の回りのことに不自由しない。父はたまに様子を見に来てくれる。
四月。グレイウィル伯爵邸の庭にはたくさんの花が咲き誇っていた。木はモクレンにアーモンド。花壇にはチューリップ。
エリザベスは部屋の窓から庭を見下ろす。そこではローラと、六歳になるヴィクトリアがきゃっきゃとはしゃぎ、花をちぎり投げて遊んでいる。
(――野蛮、だわ)
とエリザベスは思った。
彼女は義母ローラも異母妹ヴィクトリアもキライだった。もちろん、父ジョージのことも。
己を取り巻くありとあらゆるものが嫌いだった。だって、彼女に一番優しくしてくれないのだもの。抱きしめて、頭を撫でて、好きよ、と囁いてくれないのだもの。
そうしてくれる人はすでに死んでしまって、父には代わりがいる。また、エリザベスの代わりもいる。
であるからには、エリザベスは大人しく退場しなければならない、とローラは言った。
――そうなのだろうか? 私は、誰からも歓迎されていないのだろうか?
それが九歳のエリザベスの心に根付いた、永遠の疑問だった。答えはどこにもないけれど。
さて、朝の十時である。エリザベスは窓から離れ、大人しく部屋の隣の学習室に入った。そこには小さめの黒板と、教本一式、ノートや羽根ペンが備えられている。
彼女が席につかないまま待っているうちに、十時五分。ワーナー夫人がやってくる。黒髪をひっつめにして、痩せた硬い顔の家庭教師である。
「おはようございます、先生」
「おはよう、エリザベスお嬢様。昨夜はよく眠れましたか?」
決まりきった挨拶だ。エリザベスはスカートをつまんでお辞儀をした。これもワーナー夫人が仕込んだ仕草で、まだ小さいからぐらぐらすることを差し引いても完璧な角度だった。夫人はそっと目を細めた。
「上出来ですよ。それでは、授業をはじめます」
「はい。よろしくお願いします、先生」
そうして小さな学習室で、二人っきりの授業が始まる。貴族令嬢にふさわしい教養や学習内容をみっちり学び、質問はし放題。ワーナー夫人のカリキュラムは完璧で、五年先までの学びの予定が組まれている。
オマケに、あなたは素質があるから、もっと早く授業を進めても大丈夫そうですね、とまで言ってくれる。エリザベスを認めてくれているのだ。
エリザベスはこの時間が好きである。学ぶと、知らないことを知り、考えることを知ると、自分が膨らむ感じがする。
午前中で授業は終わり。普通の令嬢ならこのあとは母親の午後のお茶会に同席したり、社交についていったりして貴族の婦人のすべきことを学ぶ。家同士の外交、お付き合いのやり方を。
けれどエリザベスにそういう機会はないし、ワーナー夫人にも教えられない。ワーナー夫人は元々、妖精教の司祭の娘だったが、父親と夫が相次いで死んでしまい、家庭教師として生計を立てている。貴族社会とは縁遠い人だ。
貴族女性たちは午後にお互いの家を訪問し合うのが礼儀だった。今日はローラがヴィクトリアを連れて他家に行く日らしい、さっき馬車が表門まで行くのを見かけた。エリザベスは気兼ねなく一人で遊べる。
「お嬢様、お庭ですか?」
とワーナー夫人は微笑んだ。授業以外での先生は、そんなに厳しくない。
「森の方へは行ってはいけませんよ」
「わかってるわ。お庭だけで遊びます」
「いってらっしゃいまし」
「いってきます!」
エリザベスは庭へ飛び出した。斜めがけの革の鞄は父ジョージが学生時代に使っていたものだという、古びてくたくただが、よく油を練り込まれたいい鞄だった。中には水筒にスケッチブックに、鉛筆が入っている。
途中、メイドのヘレンが両手いっぱいのシーツを抱えながら通り過ぎ、令嬢のエリザベスに道を譲るため脇に寄りながら、
「今日もお元気ですねえ、お嬢様!」
と大口あけて笑ってくれる。田舎からでてきた、赤毛で三つ編みで赤い頬の娘である。
「うん、いってきまーす!」
エリザベスは庭を走り、走る。まだつぼみの木や満開の木、花壇のチューリップたち。庭師の仕事を邪魔しないように、大回りに走る。
フリルのついたスカートの下には純白のペチコート。まだ幼いからコルセットはしめていない。顎の下で大きなリボン結びしたボンネット。色は全部、目の色に合わせて水色だ。白い麻の生地のほつれ防止に縁取りした刺繍の色も青。耳の上の髪の毛を止める小さなリボンの色も青。
ワーナー夫人には縫物の仕事が、ヘレンにはメイドの掃除や洗濯の仕事がある。ときどき、暇を見つけてかまってくれるのは嬉しい。けれど、それを待ってばかりではいけないのだ。そうすることで彼女たちが困る場合があるということを、エリザベスは知っていた。
だから今日もエリザベスは庭をぐるっと回って、邸宅の裏に入り込む。ここからだと端っこの自分の部屋の窓は見えて、それ以外の部屋は全部、木々に遮られ見られなくなる。
邸宅の反対側、グレイウィル伯爵領には妖精の森があった。妖精が住み着いた森のことを言う。エリザベスは、森を眺められる庭の隅っこが好きである。
まさか一人で森に入り込むような度胸はない。妖精がいるのだから惑わされる危険があり、大人たちは子供が一人でそんな危険を冒すことを決して許さない。
ただ――森の葉っぱの隅にきらっと輝く妖精の羽根、くすくす笑い、誘う腕、そういうものを見て、時たま遠くに姿が見える鹿の群れのやりとりを見て、凸凹した森の道の走り具合を想像する、そういう時間がエリザベスには必要だった。
義母ローラはそんなエリザベスを見て、女王陛下の真似っこだと言うけれど……。
エリザベスはスケッチブックを取り出して、写生を始めた。きらきら光る森や、すぐそこの雑草の花や、時折森へ至る道を通る流浪人の集団や、野良犬。彼女の描くのはそういうものが多い。
花壇の花や綺麗に整えられたブーケ、室内の様子や宝石、きらびやかな舞踏会を盗み見てスケッチするのは、なんだかちょっと違う気がした。
そうしてエリザベスがしゅっしゅと鉛筆を走らせていると、かさりと下草を踏む音がして、
「ご精が出ますな」
と、男の声がした。
グレイウィル家執事のアポロだった。伯爵の右腕とも呼ばれる優秀な人で、白髪が混じり始めたまま時がとまったようなオールバックはエリザベスが知る限りずっと変わらない。口髭も灰色だ。ぴっちりした執事服が厚い胸板によく似合っていた。
「こんにちは、ミスターアポロ」
エリザベスは鉛筆を置き、礼儀正しく挨拶した。執事、家政婦ともなれば貴族令嬢といえど子供なんかよりよほど偉い人である。
アポロは柔和な目元をひときわ和ませて、
「なんの、使用人にそのような礼節は不要でございますよ。――ますますお母上に似てこられましたなあ」
と一礼した。褒められたようで、エリザベスは嬉しくなった。
「絵を描いておられましたのか」
「うん。見る?」
「おお、ぜひ」
ということでアポロはエリザベスの横に座り、体格にすると五倍くらい差があるふたりは仲良くスケッチブックをのぞき込む。アポロはタッチが精密だと褒めてくれ、エリザベスは照れて黒髪の一房を引っ張り、顔を隠した。
「おやおや、そのように」
と笑うアポロのことを、エリザベスはこっそり父親のように思っていた。気にかけてくれるし、笑ってくれるからだ。
ヘレンが来る前のメイドは、お屋敷で蔑ろにされるエリザベス付きにされたことが気に入らずやりたい放題をしたので、困り果てたエリザベスがアポロに相談するとその日のうちに配置換えをしてくれた。義母が抗議したが頑として受け付けなかった。職務に誠実な人なのである。
「そういえばお嬢様、ご存じですか」
と彼が話し出し、エリザベスは思わず身を乗り出した。アポロの話は、面白いものばかりだから。
「あなたのお部屋からほど近い、もう使われていないバルコニーがあるでしょう。大昔は見張り塔があったというあの古い区画ですよ」
「あの、四角がいっぱい並んでいる壁のところ? 丸いバルコニーね」
「そうですとも。隙間窓の狭間ですな。戦争があった頃は、あそこから兵士が顔を出して弓矢を討ったものです」
「ふうん」
「そこにね、幽霊が出るというのです」
「幽霊……」
エリザベスは首を傾げる。本で読んだことはある。でも実在するとは知らなかった。
彼女がまだあどけない顔で見上げると、アポロは気の毒そうに口髭を引っ張り、
「あなた様のお母上様の幽霊が、出るというのです」
と言い直した。
それでエリザベスはびっくりして固まり、口元にこぶしを当ててじっくり考えてみる。鉛筆がころころ転がったのを、アポロは拾う。
(幽霊……幽霊は、何か言いたいことがあって出てくるものだから……)
と、賢いエリザベスは考えつく。
「おかあさま、なにか言いたいことがあるのかしら?」
顔を上げるとアポロはさっきと同じ表情をしていた。片膝立てた執事にしては行儀悪い、そして年齢にしては若々しい姿勢のまま、エリザベスに顔を寄せ、シィッと人差し指を立てる。
「あくまで噂話ですよ。取るに足らない。けれども、ええ、そうですね。言いたいことがおありでも、おかしくはないとアポロは思いますよ」
エリザベスはきゅっと眉を寄せた。
「話してみる」
「ええ?」
「話してみるわ、おかあさまと。私、お話したい。行くわ、バルコニーに。幽霊は夜に出るのね?」
「そんな、お嬢様、危険です」
めっ、とアポロは厳めしい顔をした。
「それに、ヘレンもワーナー夫人も気づきますよ。常にお嬢様のお傍にお仕えしているのですからね」
「二人とも仕事が忙しくって、夜は深く眠っているわ。ばれやしないわ」
エリザベスは意気込んだ。こぶしを小さな胸に当て、騎士道精神が女の子にも宿るのやら知らないが、すっかりそれに近しい心境になっていた。
アポロは目を細める、痛ましいものを見るように。もしエリザベスがもう少し大人だったなら、こんな目で子供を見る人が、わざわざ幽霊騒ぎを告げ口したりなんてしないと気づけただろう。子供をその母のことで焚き付けたりなんてしないと、わかったかもしれなかった。
「もしおかあさまが何か仰るのなら――それを聞くのは私でないといけないわ」
彼女はすっくと立ちあがった。
「教えてくれてありがとう、アポロ。私、そうするからね!」
執事は黙って頭を下げた。もはや伯爵令嬢の決意は、誰にも止められそうになかった。
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