第4話
4.
「おまえは一体なにをコソコソと、ネズミのように!」
というのが、義母ローラの第一声だった。
エリザベスはパァンと頬を張られ、呆然と立ちすくむ。
夜だった。すでに子供は寝る時間。ワーナー夫人におやすみなさいを言い終えて、ヘレンが寝間着に着替えさせてくれて、あとはぐっすり眠るだけだったのに。
今日、父ジョージは友人の邸宅に出かけていて、留守だった。だからこそローラもこんなことができたのかもしれない。
「何が不満だっていうの!? えぇ!?」
とヒステリックにローラはエリザベスを突き飛ばした。エリザベスは尻もちをつき、だが分厚い絨毯がお尻を守ってくれる。
「旦那様のお情けで家に置いてもらっている分際で、使用人と懇意にするなんて本当にネズミのようね!? おまえの母親にソックリだわ!!」
言われていることの半分も耳に入ってこなかった。けれども母を侮辱されたことはわかって、エリザベスはきっと義母を睨みつける。あまりのことに、口が動かない。
「なに、その目は? あたしに反抗しようたってそうはいかないわよ!」
とローラは腰に手を当てた。その手には乗馬鞭が握られている。
「さあ、お尻をお出し。根性叩き直してやるんだからぁっ!」
「――お待ちください!!」
ワーナー夫人が飛び込んできたのは、そのときである。
エリザベスはわずかに顔を動かして、その姿を認め、がたがた身体は震え出した。
「なによっ。あたしが子供を躾るのを邪魔する気!? ブス! ブス! 司祭の娘のくせに、マキロイ家の娘のあたしに逆らおうっての!? 父親クビにしてやる!!」
「父はすでに他界しております、奥様」
ワーナー夫人は義母と義娘の間に割って入り、スカートをつまみ、腰を床に平行になるまで折る最敬礼をした。鳥の翼のように広がる黒い古びたスカートが、エリザベスには驚くほど綺麗に見えた。
「エリザベスお嬢様の躾、と仰いましたか。それはわたくしめの仕事でございます。奥様の細いお手を煩わせることではございません」
「屁理屈ぅーっ!」
ローラは乗馬鞭を振り上げた。エリザベスはびくっとする身体を必死に動かそうとする、先生、ワーナー夫人を、助けなければ。
「――それをわたくしに当てなさいますと、旦那様に報告せねばなりません」
ワーナー夫人の声は静かだった。
ローラの動きがぴたっと止まった。
「あ、あたしを脅そうっての!? 家庭教師風情がアァーッ!!」
「事実を申し上げております。わたくしをお雇いくださいましたのは旦那様、わたくしの主人はグレイウィル伯爵でございます。奥様にお叱りをいただいたとなりますと、ご報告しないわけには参りません。どうぞご理解くださいませ」
「ぐう……ッ」
ローラはものすごい目でワーナー夫人を睨みつけ、ついでとばかりにエリザベスを同じ目で睨んだ。乗馬鞭を持ったままの手がぶるぶる震え、噛み締めた歯の音がここまで聞こえてきそう。
ふわふわに盛り上げた金髪が、激しく動いたせいで崩れていた。
「ふんっ!!」
と大声を上げると、ローラはエリザベスの部屋を出ていった――出ていく寸前に、壁際の花瓶を殴りつけ、花瓶は落ちて割れた。飾られていたスズランと一緒に。
花瓶の中の水が静かに絨毯に染みていく。ローラの高い踵の靴の音が遠ざかっていく。
ワーナー夫人はすとんと膝から崩れ落ちた。エリザベスは這ってそっちに向かい、
「先生、大丈夫ですか? ワーナー夫人……」
鼻声で必死に語りかける。手を伸ばしてワーナー夫人の手を握りしめると、それが細かく震えているのがわかった。
ワーナー夫人のひっつめにした黒い髪は、授業のときと変わらない。きっと寝に行く支度をする前だったのだ。ローラの声か音に気づいて、駆けつけてくれたのだった。
エリザベスは胸が詰まった。
「私のせいで、ごめんなさい」
「いいえ、いいえ!」
やっと、というようにワーナー夫人は声を絞り出す。声は恐怖のためか潰れていた。
「私こそ、来るのが遅くなってごめんなさい。ごめんなさいね、エリザベス! 怖かったでしょう……」
二人は抱き合って泣きだした。
エリザベスは放置されることが通常になりすぎて、逆に殴られたのははじめてだった。
ワーナー夫人はおしとやかに、ただひたすら大人しく過ごしてきた人だったから、貴婦人であるローラがまさかあんな声で、表情で攻撃を繰り出す人だと知らなかった。
はじめてのことに、あまりのことに動揺していた。けれどさすがにワーナー夫人は、大人として責任ある人だから、すぐ平静を取り戻して、
「これから奥様がいらしたときは、必ず同席するようにいたしますから。わたくしがいなかったら、なんとかしてお呼びくださいまし。メイドに言ってもいいし、はしたないですけれど、大声を出したっていいんですからね」
と、家庭教師というよりは姉じみて言う。まだ若い目じりに苦労の結果の皺が寄るのを、エリザベスは苦しく眺める。この人は私のためにここまで言ってくれているんだわ。
もしエリザベスが平民の娘だったら、ワーナー夫人と同じ階級だったら、きっとここでもっと泣いていた。夫人の胸に顔をうずめて。けれど彼女は貴族の令嬢だった。グレイウィル伯爵家の長女だった。
エリザベスは涙を拭いて、まだしゃくりあげようとする胸を息で統制する。さながら将軍があらくれ者どもを束ねて一人前の兵士にするがごとく。
「ありがとう。でも……大丈夫です。私は使用人を盾にしたりなんかしないわ」
「お嬢様!」
「私は強い。強いのよ、ワーナー夫人。もっと強くならなけりゃいけないわ。だって――私、貴族ですもの」
エリザベスはにっこりした。この小さな身体からいったいどうやってそんな勇気が出てくるのだろう、とワーナー夫人は思う。
渦巻く黒髪が、ぺたんと床に座るエリザベスの踝までくるくると踊るよう。青い目はきらきらと闘志に溢れていた。この子は――戦うつもりなのだった。義母と、運命と。
ならば、使用人にすぎないワーナー夫人にその闘争を止める権利はない。彼女は諦めた、これまでもたくさんのものに対してそうしてきたように。
「わかりましたわ……ええ。お止めはいたしませんとも、エリザベスお嬢様。でもこれだけは覚えておいて。わたくしはお味方します、どんなときでも、どんな場面でも。お嬢様のおそばにおりますからね」
「ありがとう、ワーナー夫人。ありがとう……ほんとはね、とても怖かったの」
エリザベスは最後の涙の残滓をぐいっと袖で拭った。
「あなたがいてくれて、本当に心強い。ありがとう。私の最愛の先生」
二人は固く抱き合った。
***
自室に戻ったローラは傍付きのレディメイドに言いがかりをつけると、乗馬鞭でさんざん打ち据えて憂さ晴らしをした。
「信じられない! 使用人は頭の中まで膿みたい! クビよ!!」
と言い放ち、メイドが泣きながら走って出ていく姿を見て溜飲を下げる。ローラはこういう人間だった。そしてグレイウィル伯爵ジョージは、妻のそういう酷薄で冷淡で頭が悪いところを気に入っているのだった。
いつも招待状を書くときの机に陣取って、ローラはイライラと爪を噛んだ。脱ぎ捨てられた手袋、放り投げられた乗馬鞭を、残りのメイドたちがそそくさと拾っていく。いつこっちにとばっちりが来るかわからないので、彼女たちの動きは迅速だった。
下働きの老いたメイドたちが、エリザベスが母親の死について嗅ぎ回っていると告げ口にきたとき、ローラは心臓が止まるかと思った。彼女にどうしても隠さなくてはいけない秘密があり、それには亡き伯爵夫人アミリアが関わっている。
「あのアマ……ッ、どこまであたしの人生に付き纏えば気が済むワケェ!? クソが! クソクソクソ!! あーッ!! クソすぎ! 死ね!」
と、だんだん机を叩いたり頭をかきむしったり、ローラは一通り暴れる。
「ぜってー殺してやる、エリザベス……ッ!」
エリザベスが夫に自分の悪事をばらすことだけは、避けなければならなかった。
まあいい、元々長く生かす気はなかった。前妻の子供なんて。
(ジョージ様があたしより前に作った子供なんて、ありえないもん。あたしのヴィーより先にできた子供なんて、死ななきゃいけないんだもん)
フンッとローラは鼻を鳴らした。本当はもっと早くに殺そうと思っていたけど、実家の商売が傾いたりヴィクトリアができたりして伸ばし伸ばしになってしまっていた。
(エリザベス。殺してやる。悪魔の娘めっ)
メイドたちは呼ばれるまで壁際で並んで待機している。
いつ、女主人の怒声が飛び、癇癪が破裂するのか戦々恐々としながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます