第5話



5.




日付が六月に変わると、そろそろ薔薇の季節だった。まだ蕾の薔薇の苗が植えられたグレイウィル伯爵邸の庭は、にわかに活気づいたようになる。


あれからローラはエリザベスとの接触を絶った。まるきり前に戻ったかのように。けれどそうではないのだろう、ということをエリザベスは知っていた。


見慣れないメイドが東の端っこまでやってくるようになった。知らない郵便配達夫が手紙を持って裏口にやってきた、とヘレンは言う。庭師が入れ替わり、ワーナー夫人が立ち話したところでは、彼らはマキロイ家の人々と知り合いだという。……見張られているのだった。


九歳の子供相手に何を、とワーナー夫人は呆れている。ヘレンは笑うに笑えず、ただただエリザベスを心配するばかり。


エリザベスは用心深くなった。たとえ自分の家のメイドといえど、気を許して話を聞こうだなんて、すべきでなかった。ローラを刺激するようなことは避けなければならなかったのだ、彼女はこの家の女王陛下なのだから。


(おかあさま、おかあさま。待っていてね。きっと)


と、エリザベスは両手を握りしめ祈る。


(私はおかあさまの汚名を許さないわ。ローラを懲らしめてあげるからね)


――頭の中にあの微笑みがよみがえった。逃げなさいと言ってくれたときの顔……。


エリザベスは、間違ったことをしているのだろうか? 母アミリアの幽霊が言った通り、逃げるのが正しいのだろうか?


(いいえ、いいえ。私は逃げない。ローラに好き勝手させやしないわ)


膝を抱えたエリザベスは頭を振る。……グレイウィル伯爵邸には、アミリアの遺品は何一つ残っていない。エリザベスが物心つく前に、ローラが全部捨ててしまった。持参金は使い尽くされ、アミリアが愛したアルテミス像は破壊され、花壇はもみくちゃにされ、アミリアが嫌っていたという季節ごとの植物の植え替えが強行された。


何もかも、ローラの差し金だ。アミリアの痕跡を消そうとする、恐ろしいまでの執念。


だからエリザベスはアミリアの顔を知らない。肖像画も、なにもかも、残っていないから。異母妹ヴィクトリアとまともに話をしたこともない。ローラが病気がうつるといって、エリザベスを追い払うから。エリザベスは病気なんてしたことないのに。


――これほどの憎悪を生まれる前から身に受けて、いったいどうして復讐してはいけないなんて言うの?


エリザベスは顔を上げた。場所は、あの幽霊が出るバルコニー。母に会えないとわかっていて、でも会えたらいいなと思って。


時刻は昼下がり。ワーナー夫人は久しぶりの半日休暇で、ヘレンは忙しい。ローラとヴィクトリアは他家に出かけている。父は仕事で首都に、もう二週間も帰らない。


エリザベスは無力な九歳の子供だったが、それでも現状をどうにかしようという意思を持っていた。使用人に頼ろうとしてひどい目にあったのだと、原因と結果も正しく認識していた(だってそれしかありえないじゃない、あの年取ったメイドたち――ひどいわ! ローラになんと言って告げ口したんだろう。ご褒美にクッキーの一枚でももらったのかしら。そのせいで私は殴られたのに)し、それを憎んではならないことも知っていた(憎んだところで、なんにもならない)。


ならば、どうすればいいのか? エリザベスはどうすれば母の仇が取れるのか? となると、何も思いつかないというのが事実である。ワーナー夫人もヘレンも優しい人たちだが、命がけでエリザベスのために働いてくれるわけではないのだから。


エリザベスはバルコニーをうろうろ歩き回る。昼の日差しの下だと、ここはそんなに不気味な場所じゃない。少なくとも、使用人たちが怖がるほどには。


「どうすれば――いいのかしら、ねぇ?」


と一人、歌うように呟いたときだった。


「何が?」


と、声がした。エリザベスはきゃ! と叫んで飛び上がった。ここに自分以外がいるなんて、思いもよらなかったのだ。


「だ、誰っ?」


「あはは。ごめんごめん。ここだよ」


と、声がする方に向かってばっと身構えると、そこには少年がいた。目が覚めるほど綺麗な少年だった。さらさらの金髪、青い目はエリザベスのような薄い曇りの日の湖面みたいな色じゃなくて、深い海のように真っ青だ。半ズボンも白いシャツもきっちり糊がきいて清潔で、手の爪まできちんと手入れされている。そして何より、顔のつくりが人形のように美しい。白くきめ細かな肌は日の光を反射して、陶器のようにきらめいて見えた。


エリザベスが言葉を失っているのをどう思ったか、少年は大げさに慌てた。


「っと、ごめんね。ほんとにびっくりしたんだね」


それから丁寧に頭を下げて、貴婦人に許しを請う騎士の演劇のように傷ついた顔をしてみせる。


「僕はリチャード。リチャード・グロスター。はじめまして」


「え、ええ……はじめまして。リチャード」


エリザベスははっと我に返った。実践したことはなかったが、こういうときどうすればいいのかはワーナー夫人が教えてくれていた。エリザベスは小さな手を少年に差し出す。彼はふふっと微笑んで、エリザベスの手を取り、うやうやしく口づけた。


その仕草だけで、彼が貴族の生まれであることは確定的だった。ならばエリザベスはグレイウィル伯爵家の人間として、彼を正しく歓待しなければならない。


「お見苦しいところをお見せしてごめんなさい、リチャード。私はエリザベス・グレイウィルです。グレイウィル家の長女です。グレイウィルへようこそ」


「ご丁寧に、ありがとう。レディ・エリザベス」


――レディ!


子供同士の社交にも、親のお供のお茶会にも出ることのなかったエリザベスだから、レディと敬称を付けて呼ばれるのはもちろん、初めてである。


舞い上がる心、ばくばく言う心臓を、エリザベスは必死に抑えた。こんなことで取り乱しては、貴族の名に恥じる。エリザベスは、レディと呼ばれる身分なのだ!


それで、彼女は必死に、大人が見たら微笑ましいと感じるような様子でつんと顎をそびやかし、つとめてなんでもないわ、という風を装って、


「どなたと一緒においでになったの?」


と聞いた。ごく自然な、教本通りの会話の続け方である。


「ええっと、父上、のような人がこちらの伯爵と懇意にしているんだ。そのご縁で、かな……」


と、リチャードは言葉を濁した。


触らない方がいい事情があるようだ、とエリザベスは判断した。


エリザベスが知らないところで父ジョージが客人を招待し、ローラがその歓迎を任されている、という状況は珍しいことではない。あとから客人を追うようにして父が帰宅するということでもあったから、むしろ嬉しいことだ。


「きみこそ、なんでこんなところにいるの? 伯爵のお嬢様なんでしょう? ここ、こんな古くてお花もなんにもなくて。女の子の気を惹けるような場所じゃないと思うけど」


と、教本にはないことを教本にはない言い方で返されて、エリザベスは困惑する。そもそも同年代と話すのがほとんどはじめてだ。


「そ、そんなことないわ。ここはいい場所よ。グレイウィル家の中にあるのだもの」


と、ムキになってしまったのは、ここでおかあさまのお顔を初めて拝見したのだ……という思いがあったからだろう。


「ええ? 家の中にあったら、どこでもいい場所なの?」


「そうよ。そうに決まってるわ」


エリザベスは胸を張る。


「グレイウィルは、とてもいい領地よ! 私の故郷よ!」


ぷふっとリチャードは吹き出した。そのままけらけら笑い出し、そうすると金髪がシャラシャラ音を立て、細い金の糸が連なっているようだ。


「じゃあ、お嬢様がいたっていいわけだ。いい場所なんだから」


「そうですとも」


「幽霊が出るとしても、いい場所なの?」


それでエリザベスはちょっとだけ、リチャードにガッカリした。


「呆れた。あなた、幽霊の噂を聞いて見に来たのね?」


「そうだよ。悪い? へへっ。僕、怖い話が好きで」


と笑うリチャードには、さっきまでの神秘性のかけらもない。金の髪は相変わらずキラキラしていたが、笑顔は普通の少年である。


「ねえ、館を案内してよ。他にも幽霊の噂、あるんでしょ?」


「え……っ、あ、ちょっと!」


リチャードは愛されて育った子供特有の強引さで、エリザベスの手を引いた。


エリザベスは少しよろけ、スカートの裾がふわっと広がる。リチャードは彼女にかまわず扉のところまで行って、なんの躊躇もなくそこを開けた。エリザベスが苦心して開ける、時々爪が取れてしまいそうになる、古く重たい扉を。


「行こう! 僕は古い建物の歴史を聞くのが好きなのさ。庭も見てみたい。君の知ってる面白いところ、全部教えて!」


「ええ……っ?」


そう言われてエリザベスは思い出した。この邸宅のあちこちにまつわる噂や伝説を。幼い頃、片手間に面倒を見てくれたメイドたち。執事のアポロ。フットマンたち。庭師。馬車の御者。屋敷に上がることを許されない下働きの男女。


彼ら彼女らがエリザベスのことをそれとなく気にかけ、話しかけてあやしてくれたことを――だからエリザベスは、グレイウィルについて色々知っているのだということを。


彼女はにっこりした、リチャードに手を引かれ階段を駆け下りながら。


グレイウィルに生まれたこと、伯爵の血族であることを心から誇りに思った。


「音楽室に夜になると勝手に鳴るピアノがあるわ。もう使われてない、物置になっている部屋には呪われた絵画も」


歌うように告げるエリザベスに、リチャードは明るい笑い声をあげた。


「どこがどう、呪われてるの!?」


「目が動くのよ。人が歩くのを追うの!」


「へええ!」


二人の子供は楽しくなって笑い合った。


庭から先ほころぶ前の薔薇の芳香が漂ってきて、姿を見せないメイドたちの視線が背中や肩に突き刺さる。エリザベスにとって、はじめてできた友達だった。



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