第6話
6.
エリザベスはそれから毎日バルコニーでリチャードと待ち合わせ、一緒に遊んだ。
遊ぶ場所はいくらでもあった。リチャードがグレイウィル伯爵邸のすべてを知りたがったからである。エリザベスは知っている部屋へ彼を案内するだけでよく、また古い邸宅には百を超える部屋があった。
晴れた日の昼間に案内した、ないはずの三階へ続く階段。その先には見えない存在が住んでいる。それは五百年前の領主で、エリザベスのひいひいひいひいひいおじいちゃんなのだ……
「それはありえないね、」
とリチャードは訳知り顔になる。
「この館はまだ建築されてから百年しかたってないはずだよ。五百年前の? ありえない」
「でも、そういう噂なのよ。人の噂は嘘しかないって思ってるの?」
「君こそ、噂を全部信じ込んだらひどい目にあうんだからな!」
曇った日に訪れた、迷い込んだ旅人が消息を絶ったという部屋。彼は一夜の宿を求めてやってきた商人だったが、この部屋に泊まった翌日、使用人が起こしにいくともういなかった。
「金目のものを盗んで、逃げたんじゃないの?」
「そんなことされたら、グレイウィルの者は地の果てまで追いかけるわ。名誉を傷つけられたんだもの」
「おお、怖い怖い。所有欲が強いんだね……そういう習慣の一族なんだ」
雨の日の夜、バルコニーの手前の踊り場で待ち合わせして、鏡の間を見に行った。とくに雷鳴轟く日、暗がりの中の鏡に映る自分の姿が、異様な幻影や亡霊となって現れるとされる伝説を確かめに。
結局、なんの影も見られなかった。リチャードは得意になって、
「とにかくたくさんの姿見があらゆる壁にかかっている、ってだけだったね。ちょっと怖かったけど、それだけさ」
「でも、何代か前の伯爵夫人の私室らしいわよ。その人の怨念が残っていたりして」
「ふん。怨念なんてありえな……」
と、そこで雷が妖精の森に落ちて、血気盛んな妖精の一群が雨雲に戦いを挑むため飛び立っていった。彼らの羽ばたきから落ちた妖精の粉が、暗い夜の森の上空を明るく彩った。
「怨念がなんですって?」
「ふ、フン!」
……そんな感じで。
楽しさ、というものに溺れ、この時間が永遠に続けばいいと願った。エリザベスはこれほど笑ったのは初めてだった。リチャードが嬉しそうにしているのが嬉しかった。
明日は何を話そうかな、と思いながら眠りにつき、朝は起きるべき時間より前に起きた。
時折、何かの用事でバルコニーに彼がいないとガッカリした。二、三日後にグレイウィルに戻ってきた彼は少し大人びた顔でエリザベスに不在の謝罪をするものだから、エリザベスはすんなり彼を許してしまう。
ずっと一緒にいたかった。リチャードに幻滅されるようなことはしたくなくて、義母ローラや異母妹ヴィクトリアのわざとこちらを怒らせるような態度にも、丁寧に言葉を返すべきかと悩んだほどだった。
エリザベスが明るく、よく笑うようになったので、身近な大人たちはほっとしたことだろう。とくにワーナー夫人は、授業と勉強ばかり、趣味といえばスケッチだけのエリザベスを子供として健全な発育ができるか気にかけていた。彼女が楽しそうにしていて、一番うれしがったのは彼女だった。
「お嬢様、最近ずいぶん楽しそうですね」
だからワーナー夫人はにこやかだ。内心、あの夜のローラの錯乱をこの子が忘れてくれたかと思って、それも嬉しいのだった。
「うん。とても楽しいの」
「よかったですこと。お気を付けて。また前のように擦り傷を作ってこないでくださいませね」
「はあい、はあい。わかってるわ」
エリザベスはなんとなく、リチャードのことを誰にも話さないでいる。気恥ずかしかったのだ。同い年の友達……それも男の子の友達ができただなんて、自分から話すのは。
今日も今日とて、授業が終わった途端、足が待ちきれないとばかりに駆けだす。そんなエリザベスの背中を、ワーナー夫人は微笑ましく見つめるのだった。
夫人は夫人で仕事が山積みだった。家庭教師は本来なら子供に教えるのが役目、それ以外の時間は次の授業の準備や自習に当てるべきなのだが、多くの家で家庭教師はそれ以外の仕事もやらされるのが通例だ。
ワーナー夫人は最初、エリザベスは自分を嫌っているのではないかと思っていた。けれどエリザベスが悪い意味で大人の気持ちを察知しすぎることを知り、自分の思い違いを知る。彼女は大人たちの事情をわかって、家庭教師の手を煩わせないよう外に遊びに行くようにしているのだ。
そうした生き方を子供に選ばせたグレイウィル家を、ワーナー夫人は許すことはできない。しかし一介の家庭教師に何ができるだろう。
もうすぐエリザベスは十二歳になり、法律的に寄宿舎つきの学校へ入ることが許される。ワーナー夫人がついていてやれるのはそこまでだ。
ならばせめて――せめて、あの子がきちんと学べることを学べるようにしてやろう。
ワーナー夫人はそう思い、日々を職務に励んでいた。
(それにしても、あの子はいったい誰と遊んでいるのかしら? 今、ここのおうちに長期滞在のお客様はいらっしゃらないはずだけど……)
とはいえグレイウィル家は名家だから、家庭教師には知らされない客人がいてもおかしくない。首を傾げつつ、ワーナー夫人は縫い針を手に取る。
(最近は一人ごとやごっこ遊びが増えて、心配なこと)
だけれども目下のところ、敵はこの繕い物の山である。
……エリザベスは息をせききってバルコニーにたどり着いた。そこにはリチャードがいて、金髪が風に乗って綺麗だった。城壁にもたれて本を読んでいる、膝小僧も白くて眩しい。
「何読んでるの?」
「血の伯爵夫人についての本だよ。読む?」
「血の?」
と、エリザベスは彼の横に腰を下ろした。すっかり息が上がっている、つまりリチャードに会いたくて急いでやってきたのだということが丸わかりで、恥ずかしい。
リチャードはそんな彼女に気づいているのかいないのか、ホラ、と本の挿絵を見せてくれた。
それは不気味な絵だった。若い娘が泣き叫び、彼女を鉄の槍がついた人間の形の棺に押し込めようとする拷問吏がいて、背後で貴婦人が高笑いしている……。
「なあに、これ?」
「大昔、ここからもっと東の方の国にいらした貴婦人さ。拷問によって何百人もの若い娘をむごたらしく殺した人でね」
リチャードは楽しそうに笑った。
「ヴァンパイアだった、って話だよ」
「ふゥん」
「貴婦人のはるか遠い先祖には、最初のヴァンパイアがいたんだ。ヴラド公という」
「その人なら知ってるわ。串刺し公ね」
バルコニーに吹く風が、一気に生臭くなったかに思われた。
二人の子供は一緒に本を覗き込んだ。まだ血の匂いを嗅いだことのないエリザベスにとって、それは遠い国の御伽噺にすぎない。リチャードのそばにいられることが嬉しくて、彼が知っていることをまた自分も知っているのだ、ということが楽しい。
「敵を国に入れないようにするために、捕虜を串刺しにした人だわ」
「よく知ってるじゃないか。じゃ、これはどうだい?――串刺しにされたのは兵隊ばっかりじゃなかったんだよ」
「そうなの?」
「ウン。兵士たちの妻子や、逃げ遅れた敵の女子供も揃って串刺しにしたんだ。きみはそういうの、どう思う? 少なくとも騎士道精神には悖る行いだと、僕は思うけど」
ううん、とエリザベスは考えた。目の奥に翻るのはグレイウィルの旗だ。
「それで他の兵隊が恐れをなして逃げ帰ったのなら、それは正しいことだったわ。必要な犠牲よ」
「ふーん?」
「憐れみは確かに必要よ。でも敵の女子供を憐れんでいる隙に攻撃されて、全滅したのじゃ永遠に汚名を残すわ」
「おっそろしい女の子だなあ、君は。まるで軍人みたいな考え方をする」
というリチャードの声が突然まろやかになった。面白がるような、観察するような、見下ろしてあやすような声。
エリザベスは急に恥ずかしくなった。自分がまだ九歳の、なにも経験していない子供だということを思い出したのだった。確かにエリザベスは戦争を知らないし、実際に串刺しにされた人たちが何を思っていたのかなんてわからない。
「……ちょ、ちょっと思っただけよ。少なくとも戦争のときくらい、殿方にはそうやって雄々しくいていただきたいものだわ」
「そうだね」
リチャードの声が優しくなった。
「戦うべきときくらいはね」
それから彼は楽しそうな声音に戻って、エリザベスは胸をなでおろす。はじめての友達との会話はどきどきがいっぱいだった。
嫌われたくないという感情が沸いたのも、はじめてだった――使用人の大人たちは仕事だから、きっとエリザベスを見捨てない。そういう確信が自分にあったことも、知った。
(私はこの立場に甘えちゃいけないんだわ)
と思う。リチャードにとっては彼女がグレイウィル家の代表なのだ。
父親のような人、というのはどうやら忙しいらしく、リチャードをほっぽっているみたいだから。エリザベスはリチャードにたくさん楽しい思いをしてほしいし、それが彼女自身の喜びでもある。
グレイウィル家のいいところを知ってほしい。今は少しばかり変になっている部分もあるけれど、元々格式高い名家なのだから。
「知ってる? ヴァンパイアが生まれるずっと前、ヴリコラカと呼ばれていた種族がいたんだ。ヴァンパイアよりできないことが少なくて、ずっと強かった」
「例えば? 川を渡れたり?」
「川なんてへっちゃらさ。満月の夜が一番力が強くて、棺桶を破壊して墓から這い出てくるとされたところとか。死体が残る埋葬をされなきゃだめなところはヴァンパイアと一緒だけど、自らの意志でヴリコラカになりたいと思わなきゃだめだとか」
「今のヴァンパイアは、なりたいという意志がなくてもなれるものなの?」
「なれるよ」
リチャードの青い目は海のように光る。一度だけ連れていってもらえたことのある、コバルトブルーと森のような緑に満ちた深い海の色。
「人をヴァンパイアにできる力を持ったヴァンパイアが強く望めば、その人をヴァンパイアにできるんだ」
それはとても怖いことのように、エリザベスには思われた。彼女が言葉を失うと、リチャードは子供らしくクスクス笑う。
「なんてねっ。ヴァンパイアが実在するわけないじゃないか。妖精たちとは違うんだ」
「うん……」
「ねえ、庭にいこう、エリザベス。昨日、薔薇のつぼみが咲くかもしれないねって話したところだったじゃないか。見に行こうよ」
「ええ、行きましょうリチャード」
それで二人は手に手を取ってそのようにした。
昼間でも薄暗い廊下を駆けていく子供の足音に、メイドたちは耳を澄ませ顔を見合わせる。
足音は高く軽く、いつもでも反響が残っていた。エリザベスの細い子供靴が起こした足音が。
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