第7話


7.




六月十四日の夜。


父ジョージが帰還し、ローラとともに忙しく客人を招く日々がまた始まった。だいたい、いつもこうなのだ。


父が出かける。仕事をする。人脈を作る、つまり相手のおうちに招かれて、パーティーを楽しんでくる。


そしてお返しに、帰ってきたジョージはグレイウィル伯爵家にも人を招く。ローラが踊る。客人たちは賛辞を贈る。


そうして貴族社会は回っている。領地の経営も、女王陛下から授かった仕事もうまく回り始める。ずっと以前からそうしてやってきたのだった。


パーティーの喧噪を聞きながら、エリザベスは一人寝台に横たわっている。昼間にまた会ったリチャードは珍しく渋い顔で、


「今夜は忙しいんだ、パーティーに出ないといけないから」


と早く帰っていった。


彼がグレイウィル伯爵に目通りできるほどの身分であることがわかって、エリザベスは無性に嬉しかった。いつの間にか彼女の中で、彼は理想の王子様のようになっていた。


九歳だったけれど、それが恥ずかしいことだとは知っていた。だってついこの間まで見知らぬ他人だった人をこんなにも早く好きになって、それにやきもきしているのだ。有頂天に彼の元へ駆けていくのだ、毎日。


なんだか戦争に負けたような気持ちだった。エリザベスは日々もだもだしているのに、リチャードは何が好きか、何を喜ぶのか考えて一喜一憂しているのに、リチャードときたらそんな様子は露程も見せないのだ。


エリザベスは今も、明日は何を話そう、新しいドレスがほしい、リチャードを退屈させないような、呆れられないような話題はないかと戦々恐々しているのに――たぶんリチャードはそんなことはない。きっと今夜のパーティーのはじめに子供らしく姿を見せて、大人たちに紹介されるときの笑顔の練習をしている。礼儀正しく中座するときのことを考えている。


「はあ……」


とエリザベスはため息ついて寝台の上に身を起こした。


彼女は知らなかったが、それは恋する少女のため息だった。まだたったの九歳のくせに。友達もいないくせに。人の恋のお話なんて、聞いたこともないくせに。


それでも女の子は女の子で、エリザベスは徐々に女の子らしくなっていく。月日が進めば進んだ分だけ。残酷な自然の摂理。


彼女はコロコロ手のひらの中で缶を転がした。かわいい薔薇と子犬が印刷されたその缶は、朝起きたら枕元にあったのだった。きっとジョージのお土産だ、エリザベスの顔を見るほどの暇はなく、けれどヴィクトリアを抱きあげて直接お土産を渡せるだけの暇はある、父らしいやり方だった。


お土産はあるときもないときもあって、エリザベスはがっかりするのに慣れていた。それでも枕元にこれを見つけたときは、嬉しかった。


かぱり、と蓋を開けると、色とりどりのボンボンが溢れそうになっている。砂糖のヴェールに果汁を煮詰めて固めたものが包まれて、それぞれの味によってピンク、黄色、オレンジ、白、水色、草色……春爛漫といった風情。


エリザベスはうっとりとボンボンたちを見つめ、また大切に蓋をした。


これまでならまずはワーナー夫人に見せに行って、次にヘレン、いればそのほかのメイドにも見てもらって、それからみんなで分け合って食べただろう。けれど今のところ、エリザベスには真っ先に見せたい人がいるのだった。


明けて六月十五日、午前の授業が終わったエリザベスは足取りも軽く石の階段を上がる。


バルコニーにはリチャードが――いたけれど、ひどく元気がなく見える。


見張り塔の跡地、瓦礫が片付けられ基礎の土がむき出しになったところに向かって座り込み、力なく土をいじっている。こちらに背を向けているが、扉の音でエリザベスが来たのはわかるはず。


「リチャード?――どうしたの?」


とエリザベスは声をかけた。彼は振り向いた。思った通り、冴えない表情だった。


「やあ、ベス」


「ひどい顔ね」


「うん……昨日、うっかりお酒を飲まされちゃってね。気持ち悪いのが治らないんだ」


「まあ、なんてこと。子供にお酒はいけないのに」


と、思わずワーナー夫人のような口調になってしまった。ぷりぷり怒るエリザベスに、ハハ、とリチャードは薄い笑いを向ける。


「仕方ないよ、ああ、とっとと撤退すればよかったんだ。なのについつい、居座っちゃって。パーティーなんて久しぶりだったから」


まるで何度も、何十年もパーティーに参加したことのある老人のような口ぶりだった。


エリザベスはそれを訝しみながらも、とりあえず缶を開けて中のボンボンを彼に見せる。


「これなら食べられそう? お菓子なら」


「ん――」


リチャードはちらっとボンボンを見て、ゆるく首を横に振る。


「ううん、いいや。喉を通りそうにないもの」


「お父様からのプレゼントなの」


と、誇らしくエリザベスは告げた。だからといってリチャードに食欲が出るわけではない、と言うことがわからなかった。


「じゃあ猶更きみ、食べなよ」


と、リチャードは静かに言った。


それでエリザベスはボンボンを口に含んで味わった。この上もなくおいしかった。


ころころと口の中で転がすと、果汁の爽やかな香りと砂糖の甘さが広がって、すうっと消える。ほのかな苦みは果実の皮だろうか?


「おいしいわ」


「――父上からの贈り物だから、殊更おいしいんだろう?」


と、決まりきったようにリチャードが言うものだから、エリザベスとしてはますます嬉しくなるのだった。感情を共有できたような気がして。




***




そうして、六月のそれからの記憶は朧気である。


エリザベスは死にかけていた。原因は、わからない。


何か変なものを食べなかったか、池や川の水を飲まなかったかと医者は聞き、わかりませんとエリザベスは答えた。わかりません、わかりません。私はいつもグレイウィルの清潔な食べ物を口にしていました。野菜も食べました。ドレッシングなんてなくても、塩だけで食べられました。私、私はいい子なんです。手のかからないいい子……。


「お嬢様、お嬢様」


と、泣きながら看病してくれたのはワーナー夫人である。メイドのヘレンも目を潤ませて、ワーナー夫人の看病の補佐をした。


何度か、ローラの勝ち誇った目を見た気がする――そんな、まさか。


あの、ボンボン。


父からの土産に喜ぶところを見せるのが、そしてそれを男の子に持っていくなんて知られるのが、気恥ずかしくて……誰にも見せなかった。エリザベスの新しい宝物。


あれは誰からのプレゼントだったんだろう。


義母ローラは現在のグレイウィル伯爵夫人である。子供が死んだら彼女の不名誉になる。たとえ前妻の子であれ、嘆き悲しむ様子を人に見せなければならない。ああそれに、そんな人を父が選んだなんて、思いたくない。でも……。


そうとしか、考えられない。いやだ。考えたくない。


思考は千々に乱れ、エリザベスの手はシーツを掻き毟る。脳味噌の血管が焼き切れるような高熱。喉は腫れあがり、水も飲めずに吐き出してしまう。目も腫れて前が見えなくなるほどだった。


医者は瀉血を行った。子供にはあまりよくないんだが、と言いながら。エリザベスの細い腕を取ってメスで切り付けて、悪い血を出した。エリザベスは身体をそらして悲鳴を上げた。


「やめて、やめて、やめて! その人をどけて! 痛いの、怖いの!」


「お嬢様、大丈夫ですよ。お医者様です。治療をしてくださってるんですよ」


とワーナー夫人はエリザベスに覆いかぶさって一緒に泣いてくれたが、医者にとってはどちらも迷惑な患者と付添人である。


エリザベスは叫び、薬によって眠りに落ち、高熱がぶり返しては苦しんだ。地獄のような日々が、一週間過ぎ、二週間目に突入した。


その間、ふつふつと彼女の中に煮えたぎるものがある。


(ひどい、ひどい!)


今までに感じたことのない強さで、おそらくは元凶だろうと考えられる義母ローラへの憎悪。あまりに大きく、毛を逆立てる獣の威嚇のように腹の底に響く怒り。


(ひどい、ひどい――なんで!!)


それは――


母の肖像画が生まれたときから一つもないこと。形見もなにもかも。何もしていないのにローラから向けられる憎悪の視線。彼女があまりに、九歳のエリザベスから見てもわかるほど幼く、話が通じないこと。それでも義母だから、父の選んだ人だからと信じていた自分。


(どうして? どうしてこんな目にあわないといけないの?)


血を吐いた。喉が焼けるよう。


(許せない。許せ――ない)


悲しくて悲しくて――


エリザベスは泣き、苦しみ、ワーナー夫人は嘆いた。ヘレンは額の濡れ布を交換してくれながら、ひっきりなしに鼻を啜った。


子供が死ぬのは珍しくない。神様は子供が好きだから、しょっちゅう呼び戻してしまうのだ。それでもエリザベスは死にたくなんてなかったし、これまで死んでいった子供たちも、当たり前に死にたくなかったに違いない。


熱に浮かされながら、視界にジョージとローラが入ったのは気のせいだろうか? それとも、本当に? 父と義理の母はエリザベスを見舞ってくれたのだろうか?


「いったいどうして、誰がこんなことを」


とジョージは難しい顔で呻いた。


「ひどいことをする人もいるものですわぁ、こんな子供に毒を盛るなんて」


と、楽しそうなローラの声がした。勝ち誇った顔が見えた。


毒を、盛られたことはわかっているのか。それならば父はどうして、その原因が横にいる人だと気づかないのだろう?


エリザベスはそっちを睨みつけてやりたかった、叶うなら飛びかかって殴りつけてやりたかった。


しかしローラは常にエリザベスの手の届かないところにいて、彼女をせせら笑っていた。嘲笑、という概念を、エリザベスは九歳にしてはじめて知った。


そうだった――バルコニーに続く扉は施錠されていなかった。エリザベスがバルコニーに入り浸っていることを、メイドたちが知らないはずがない。ローラに申告しないはずがない。あえて鍵も鎖もかけなかったのだ、ローラが。


エリザベスが落ちて死んだらいいと思って。


父の手が、泣きながら眠りに落ちたエリザベスの瞼の上を覆って、


「泣くな、泣くな。父が必ず助けてやるからな」


と言ってくれたのは夢だろうか。


ローラが悔し気に唇を噛み、睨みつけてきたような気がするのは。


エリザベスの意識は闇に飲まれ、熱の中に放り出された。


毒に効く薬はなかったので、身体の回復力を信じて熱さましや痛み止めを使うしかない、と医者は言い、体力がもたないかもしれない……とも悩んだ。つらく、苦しい治療は永遠に続くかと思われた。逃げ場なんてどこにもなかった。

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