第12話


12.




十二月十日。


新年祭の準備で慌ただしいグレイウィル邸の中で、エリザベスは寝付いていた。疲れがたまったのだろうとメイドたちは言い、侍従の少年が暖炉の薪を足してくれる。すっかり冬。寒くてたまらない。手足の先がいつまでも冷えていて、動けない。


何かの病気だというわけでもないのに、気力が湧かないエリザベスのことを、影で人はなんと言っていることやら。エリザベスの耳には入ってこないが、一度、ローラがわざわざ部屋の扉の前まで来て、


「なまけ病の人の部屋はここぉ?」


とひとしきりはしゃいでいたので、そんなふうに言われているのだろうと思う。


もう何も考えたくない……。エリザベスは永遠に、寝台から出られないような気がしていた。それでもいいとさえ思っていた。


そんな彼女のところに見舞い客が訪れたのは、ちょうど午後三時。貴婦人たちならお茶会を催す時間のことだった。


窓からはぬくい日差しが入り、暖炉では火がぱちぱち燃えて、室内は熱いくらいだった。


「お嬢様、こちらは使用人一同からのお見舞いでございます」


とアポロはにっこりした。差し出された綺麗にラッピングされた小箱は、女の子が好きそうなピンク色だ。相変わらず穏やかで、白髪まじりの黒髪はひとすじの乱れもない。


「ありがとう」


とエリザベスは言って、プレゼントを受け取ったものの、そちらを見る気力も出ずに俯いている。


アポロは執事らしく個人の感情を表に出さなかったものの、ただ困ったようにエヘンと咳払いをした。


「早くよくなりますように、一同心よりご心配申し上げております」


「ありがとう……」


それ以外、エリザベスに言うことはないのだった。


アポロは優しい人だ、と思う。目下の使用人たちを厳しく躾けるときは怖いこともあるが、そうした面は貴族に見せずひたすら忠誠と従順を尽くす、その姿勢は滅多にできることではない。執事とは最後まで主人に、グレイウィルにおいては伯爵ジョージその人に付き従うものだ。父はこんな忠義者の執事がいて、幸せだ。


「お嬢様――少し、老人とお話してくださいませんか」


アポロは笑い、小さな椅子を引き寄せてそれに腰かけた。エリザベスは目線が近くなった彼を振り仰ぐ。


「お嬢様の前で腰かけるとは、無礼でございますが」


「ううん。ううん。気にしないわ」


エリザベスは三つ編みにしていた黒髪の、くるっと巻いた先を指でもてあそぶ。


「何を聞かせてくれるの?」


「昔話でございますよ。――妖精女王エリザベス陛下が、かつて愛した妖精の青年と住むために造った宮殿がございます。シルフィード宮殿です。お嬢様もご存知でしょうか、コールロロの丘の上にある、それは壮麗なお屋敷でございますよ」


「話には、聞いたことがあるわ」


老執事がどうしてこんな話をはじめたのか、エリザベスにはわからない。けれどリチャードの面差しを思い出さずにすむ話題はありがたかったし、純粋な興味もあったから彼女は耳を傾ける。


「実はコールロロの丘には、すでに先客がいたのです。グレイウィル・ハウスと呼ばれる。この意味がおわかりになりますかな?」


エリザベスはぴょこんと顔を上げた。ぱっと頬に血色が現れる。


「そこが、お父様が生まれて育った場所なのね?」


「そうですとも。女王陛下は十分な金額で我が家からハウスを買い取ってくださいました。先代様はじめグレイウィル伯爵家の皆さまは、ご納得された上での取引であると存じております。女王陛下は派手好きな方。豪華な凱旋門や彫刻をいろいろ館に足されました。庭に彫像の並ぶ広間までおつくりになられたと聞きます。ハウスは失われ、代わりに多大な栄誉をいただきました。それはグレイウィル伯爵家の誇りなのです」


エリザベスは頷いた。アポロは優しい目のまま続けた。


「そのときの取引をまとめてくださったのが、時の宰相ハーデース様です。六百年前から女王陛下にお仕えしている忠臣で、女王派の貴族たちのまとめ役でもありました。――そのお力の大きさから、人によってはグランパと彼を呼ぶ人もいますな」


エリザベスの青い目が丸く、大きくなるのを待って、アポロは言葉を結ぶ。


「ロンデュルンだけでなく、帝國のあらゆる貴族のうち彼に逆らえる者はおりますまい。危険な芽は摘み取っておかねばならなかったのですよ」


「リチャードは、その、宰相の人のスパイだったの?……だから殺されたの?」


アポロは微笑むばかりである。


このとき確かに、エリザベスの世界は広がった。


グレイウィル領ロンデュルンまでが、エリザベスの頭の中に漠然と広がる世界のすべてだった。妖精の森の黒さ、流浪の人々、商人たちまでが、知っている人間のすべてだったのと同じに。


けれどそのときはじめて、概念を超えた生きている存在として女王陛下の存在が認知された。もう何百年も赤毛の美女の姿のまま変わらないというお方。


その人の元で働く実在の人物が、齢六百年を数えるハーデースと言う人が、リチャードの死の原因を作ったのだ――と、エリザベスは思った。


「誰も、逆らえないのです。宰相閣下には。貴族の方々は皆、女王陛下に忠誠を誓い、そして宰相閣下に支配されているのですから」


「え――?」


何かが、引っかかった。エリザベスがそれについて考えを巡らせるより先に、さて、とアポロは緩慢な動きで立ち上がる。


「さあ、今夜も旦那様のお客様が大勢いらっしゃって。パーティーです。ほほ、腕が鳴りますなあ」


「あ……ちょっと、アポロ……」


「お嬢様、」


彼はくるりと、兵隊のように体を回転させ、エリザベスの前に立つ。胸板の厚い、体格のいい執事にそうされると、たとえ彼が老いていたとしても圧迫感があった。


「真実を知りたいのでしたら、動かなければなりません。戦わぬものに未来はないのです。残念ながら、この世でそれだけが真実なのです」


エリザベスはプレゼントのリボンを掴んだ、衝動的に。アポロの目はあくまでも優しい。


「あなたが本当にほしいものがあるのなら、お嬢様、動かなければなりませんよ。立って歩くのです。走るのです。――はは。老骨よりのちょっとしたアドバイスでございます」


優雅な一礼だった。アポロの言動には何一つけちのつけようがない。


エリザベスを残して彼は立ち去った。エリザベスは閉ざされた扉を見つめ、プレゼントの包装紙を取ってみる。中から出てきたのはあのボンボンの缶だった。ご丁寧に銘柄まで一緒である。


彼女の小さな胸に闘志が灯った。誰にも負けられない、人生という戦いに挑むための闘志が。



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