第16話



16.




父の怒りの吠え声に、周りの大人たちが追随した。


瞬間――会場は一気に真冬の寒さを思い出し、暖炉の火は消え、あらゆるぬくもりが消えた。人の体温でさえ。異常な寒さだった。身体の芯まで凍るような。


扉が見つからず、この異様な空気から脱出することができない。あまりの恐怖に涙さえ出なかった。


客人たちが、変貌した。巨大なコウモリや狼が次々と姿を現した。彼らの周りには脱ぎ捨てられ――いいや、千切れた服の残骸が転がっていた。立派な夜会用の燕尾服に、色とりどりのドレスの布地。


けだものの咆哮に包まれ、エリザベスは必死に身体を丸める。悲鳴のひとつでもあげたら、すべてが終わってしまう。彼らはエリザベスの存在を思い出し、引き裂いて食ってしまうだろう。


「――ベス、大丈夫?」


と、大きな、暖かい手が背中に触れた。優しい声が降ってきた。


幻、ではなかった。


エリザベスは顔を上げ、そこに吟遊詩人がいるのを知った。まっすぐに切り揃えられた黒髪と、海の色の目をした彼。古い旅の装束、広い肩幅、痩せっぽちだけと強い腕の力に抱えられ、絨毯に足の裏がつく。


あ……と、口から声が漏れる。心の内側のところがぽっと温かくなって、


「り――リチャード……?」


と、囁いてしまった。ものすごく小さな声だったのに、周りの喧噪からして耳に届いたはずはないのに、彼は目を丸くしたあと、微笑んだ。


「リチャード、リチャードでしょう。どうして……」


「さあ? どうかな。俺は知らないよ、あなたのこと」


「そんなはずない!」


吟遊詩人は苦笑する。エリザベスは彼の脇腹のところの服を掴む。強く。


彼はエリザベスの肩を抱えるようにして、混乱の場となった大広間を抜け出した。両開きの扉は侍従がいなくてもひとりでに開き、廊下にまろび出る。


振り返って見た大喧噪に、エリザベスはもはや恐怖を感じなかった。なんだかとても楽しい催し……サーカスの興行に興奮する村人たち、の絵画の中のように見えるのだった。


コウモリ、狼、人間の裸体が入り乱れ、牙を剥き、襲い掛かってはかかられ、戦っているというのに。絨毯には確かに血が落ちているというのに。


「そんなに見惚れると、引き込まれるぞ」


と彼は言い、エリザベスは慌てて真正面を向いた。大広間へ至る大階段を下りる途中、駆け出していく侍従やメイドの一団に遭遇したが、彼ら彼女らは吟遊詩人とエリザベスに目もくれない。いつものことだが、ショックだった。主の娘が髪をまとめるバレッタもなしに、しょぼくれているのである。誰か一人くらい、声をかけてくれたっていいのに……。


こういう目にあうたび、エリザベスの自尊心は削られていく。物悲しいため息までついてしまった彼女のつむじに、吟遊詩人は笑い声をかけた。


「何を落ち込んでるんだ。ひょっとしてあれが気になる?」


「うん……」


「仕方ないさ。戦闘用のドールたちは主の保護が最優先だ。他のヴァンパイア、ましてや半成りなんて歯牙にもかけない」


「え……?」


今、なんて?


エリザベスが立ち止まろうとすると、彼はぐいっとその肩を掴んで歩かせる。おおよそ幼い貴婦人にすべきではない態度で、けれどそれがいやではないものだからエリザベスは混乱しっぱなし。どくどく鳴る心臓も、邪魔っけに思える。


また、侍従の一団がそばを駆け抜けていった。手に手に銀色に光る剣を持って。一部の者はすでに抜刀さえしている。廊下は不気味なほどしんと静まり返り、大広間の喧噪だけがまるでいつものパーティーのように響いていた。


「銀を使うのか。切羽詰まっているな。アポローン」


と、彼は廊下の向こうに声をかける。ぬう、と現れた執事のアポロは、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべていた。


ただ、その雰囲気が。目つきの鋭さが、いつも通りではない。


「なんということをしたんだ、リチャード。お客様がたを焚き付けて。あれではしばらく静まるまいよ」


「いいじゃないか。どうせ死なないんだ。たまの息抜きに過ぎないだろう?――俺たちには」


(やっぱりリチャードなんじゃないの)


と、エリザベスは頭の上の会話を聞く。


どうしようもなく、眠かった。


「おや? お嬢様……なるほど、動かれましたか。はは、気の早いお方だ」


「焚き付けるっていうのは、こういうのをあんなところに向かわせることを言うんだ。どうするんだ、一歩間違って食われてたら」


「ヴィクトリア様がおります。ジョージ様の血は途絶えない」


吟遊詩人は肩をすくめた。


エリザベスは反論したかった。ヴィクトリアは私の代わりなんてできる子じゃないわ。エリザベスはいい子で――ヴィクトリアなんか及びもつかないくらいいい子なんだから!


けれど言葉にはならず、彼女の意識は落ちていく。見知ったアポロの顔を見て、安心したのかもしれなかった。


「おやおや」


と、最後に見えたのはアポロの笑った顔で、次に目覚めたのは寝台の上だった。時刻は、夜。午前一時。


エリザベスはまだ、終劇に間に合う。


――うすうす、わかってはいたのだと思う。


エリザベスは父ジョージに、薄暗いところでしか会ったことはなかった。むしろ夜のパーティーの喧噪でしか、その存在を知らなかった。


使用人たちは時々、エリザベスの存在を忘れた。父が忘れると彼らも忘れ、父が思い出すと思い出すのだ。それはエリザベス自身の無価値さからくるのだとばかり思っていた、けれど。


義母ローラは本人の頭が悪いので、ああなるのだとばかり思っていた。ヴィクトリアも。


けれど――けれど。ああ。


エリザベスは彼らを探して駆けずり回った。彼ら――この劇の、本当の役者たちを。


果たして場所は、あのバルコニーだった。真夜中の風が、満月の光が、古い古いバルコニーを満たす。亡き母アミリアの幽霊はおらず、それ以外のすべての人々がそこにいた。


グレイウィル伯爵ジョージ。


その妻ローラ。


その執事アポロ。


吟遊詩人の姿のリチャード。


ローラはエリザベスが転がり込んだのを見るや否や、立ち上がり金切り声で威嚇したが、


「黙れ女!」


と夫であるジョージに一喝されて口を閉じ、悔しそうにエリザベスを睨みつける。


リチャードは見世物のようなその顛末を見て、肩をすくめた。エリザベスは消え入りたいほど恥ずかしかった。違うの、私はこの女に育てられていない。この女のエッセンスのひとかけらも私の身体の中には入ってないの。


とはいえ、弁明は先である。エリザベスは黙ってグレイウィル側にも、それに相対する側にもつかない真ん中の位置に立った。そうすると執事のアポロのほぼ隣に陣取ったことになる。執事が、その主の味方ではないところにいるなんて、天地がひっくり返ったような気持ちだ。


「お嬢さんは同席させるのかい?」


とリチャードがエリザベスを示したが、ジョージは答えず、誰も何も言わない。


エリザベスは取るに足らないものとしてその場にいることを許された、これまでと同じに。


「それではこのリチャード・オブ・カスティルが証人となり、グレイウィル伯爵ジョージの尋問を執り行う。血と制約のさだめを粛々と受け入れて、噓偽りないことを誓うか?」


ジョージは静かに答えた。金髪碧眼の若々しい美貌に、かすかな曇りを乗せながら。


「我が家の家名と血の古きにかけて誓おう。――あなたを見誤ったのが私の敗因だ」


リチャードは頷いた。彼らの間で、見えない約束ごとが成立したのだとわかった。


「第一に――」


リチャードは書類でもめくるかのような口調で言う。


「あなたには正当な血の後継者をおざなりにした疑惑がある。俺はしばらくここにいたから知っていたが、確かにあなたのエリザベス嬢への扱いはひどいものがあった。血の制約を施さず、刻印も刻まず、これではほかのヴァンパイアに食われても文句は言えなかったぞ。これについてはどのように思われる?」


ローラの喉をうぎゅい、鳴らしたが、ジョージの目に気づいて黙った。彼女はただただ、エリザベスを睨みつけている。殺してやる、と確かな心の声が届く。視線に熱があったらとっくにエリザベスは蒸発していただろう。


ジョージは話し始めた。


「強ければ生き残るはずだ。げんに娘は生き残った」


ごく不思議そうに彼は答える、なぜそんな当たり前のことを、と言わんばかりに。


「だが、この世は弱い者は死んでいくのだ。アミリアは美しかったが弱かった。エリザベスも弱ければ死ぬだろう。それの何がいけない? コールスランドはもとよりそういう国だろう?」


誰も、何も言わなかった。リチャードはエリザベスを見つめた。エリザベスは微笑み、さっき彼がそうしたように両手を広げるだけだった。それ以外に、何を言えばいい。


「それでは、第二。あなたには同族殺しの疑いがかけられている。これはどう思われる?」


「アミリアが弱かったからだ」


グレイウィル伯爵は目を閉じた。そこからはなんの感情も読み取れなかった。


「私は関与していない」


ギャッヒー! と、ローラが笑い声を立て、腹を抱えて笑い出す。もはやジョージは殴る気力も失せたようで、唾をそこらじゅうに吐き散らして笑い転げるローラを興味深い動物を見るように見つめる。


「ざまああみろおおおおお! あんたのお母ちゃん捨てられちゃったねえええ!? アァ!? なに澄ましてんだよこのクソガキ!! ジョージ様はおめえの母ちゃん知らないってよおおおおおン!?」


エリザベスはリチャードを見つめる。リチャードの深い海のような目は凪いでいて、そこにあるのは静かな感情だけだ。おそらくはエリザベスの面白みのない灰色がかった青い目も、そのようになっているはずだ。


リチャードはジョージに向き直った。


「伯爵、スレイブを黙らせてください」


ジョージは頷くと、ローラの腹を蹴った。ローラは見張り塔の跡まで吹っ飛び、そこに叩きつけられた。ボキ、と骨折の音が響く。げぼ、と聞こえる音を漏らすと、おしっこを漏らして失神した。


「スレイブの言動から、俺はあなたに同族殺しの認識があったと判断します。スレイブはヴァンパイアの奴隷。より下位のヴァンパイアの精神を操る呪いを、彼女にかけましたね、伯爵。それはどんな呪いでしたか」


「感情の増幅だ。負の方を膨らませた」


「元々、内側に持っていた黒い感情をより大きく、強烈に意識させ人格を崩壊させる呪い……」


リチャードは息を呑み、エリザベスはなるほど、と腑に落ちた。


ローラは最初から少しおかしかった。実家のマキロイ家が没落して、帰る場所が一つもなくなってからよりおかしくなった。そうか……。


「お父様は、ローラで遊んでいたのね」


と呟いた声を拾った者は誰もいなかったが、もし父ジョージが聞き届けていたらそうとも、と笑い出したろう。生まれつき高位に立つ者というのはそうして他人を弄ぶことが許される。ましてやローラは元人間、餌でしかない。


餌が貴婦人を気取って家の中をめちゃくちゃにする様子は、確かに、よそから見るだけならとてつもなく面白い見世物だったはずだ。


「女王陛下は内々での殺し合いを決してお認めにならない。それが国を崩壊へ導くとご存じだからです。詳しい話は宵闇の法廷が聞いてくれるでしょう。俺に言えるのはこれだけです、伯爵――両手を後ろへ回してください」


リチャードは両手を自分の前に差し出し、一度合わせてから再び離した。光る細い銀色の縄のようなものが現れ、彼はそれで伯爵を束縛しようとする。だがジョージの考えは違ったようだった。


「私に近寄るな、査問官。ハーデースの犬め。私はグレイウィルの持ち主だ。逃げも隠れもせぬ。宵闇の法廷が私の出席を望むなら、馬に乗り自らの意思で赴くまで」


朗々とした声、見事な体躯。父ジョージは立派な……伯爵だった。たとえ先妻アミリアを見捨て、後妻ローラで遊び、娘エリザベスを見殺しにしようとしていたのだとしても。ローラの娘ヴィクトリアに至っては、もの言える肉塊としか認識していなかったのではないか。


「それでは伯爵、失礼ながら。俺はあなたの自由をかけてあなたと戦わなくてはならなくなります。それは……困りますね。勝てる見込みがないんだから」


と、おどけてみせるリチャードの声に、ジョージ動じた様子もない。


エリザベスが半歩、前に出ると、アポロは制止する仕草を見せた。いいえ。エリザベスは優しい執事を見上げて首を横に振る。そのまま、リチャードとジョージの前へ。


「お父様は言ったことを破ったりしないわ、リチャード」


小さな足を踏ん張って、エリザベスは告げた。


「信用してあげて。逃げないと言ったら逃げないの。父はグレイウィルそのもの――伯爵なのよ」


リチャードは虚を突かれた顔をする。次第に、ゆるゆるとした笑みが口元に昇って、彼はくくっと低く笑い始めた。


エリザベスはむっとした。真剣に話しているのに。


リチャードは屈んで、そんな彼女に目線を合わせ、


「どうして彼を庇うんだ? 愛されていたわけではなさそうだったのに」


それは、そう。エリザベスだってわかっている。けれど――


エリザベスはグレイウィル伯爵邸に住むことを許され、縫製のしっかりした衣服と栄養価の高い食べ物、ぐっすり眠れる寝床を与えられて育った。確かにローラには憎まれ、ヴィクトリアのように愛されたわけではない。それでも……


「お父様は、お父様だから」


あのボンボン以外のプレゼントたちに、毒が入っていたことはなかった。


「君を殺そうとしたかもしれない人なのに?」


「ボンボンの毒はお父様じゃないわ。お父様ならあんな遠回りな手段はとらないもの」


「グレイウィルで起こったことはすべて、彼の責任だ。グレイウィルのすべては彼に奉仕する存在で、自己の権利など持っていない――やられたら、やり返していいんだよ、ベス」


ジョージがぴくりと反応したかに見えたが、エリザベスはそのとき間近に迫ったリチャードの瞳に飲まれないよう精いっぱいだったので、確かだとはいえない。リチャードは魅力的だった、子供心の恋と綺麗な顔立ちを差し引いても。


「あの継母だって。憎くないの?」


「憎いわよ」


エリザベスは瓦礫の上のローラをちらりと見た。うおおお、うおおおおと呻き声を上げながら、彼女は失神し続けている。打ちどころが悪かったのだろう、脳に損壊がある者の声だった。エリザベスにはそれはわからなかったが――あんな風に死にたくはない、と。それだけは痛烈に心に刻まれた。


「あんなのに復讐したら、あれと同じになってしまうもの。私はそれはいやなの」


「ふゥん」


と頷くリチャードの眦に、優しさと憐れみが同時に宿った。


「わかった。それじゃ、君の助言に従おう」


それで、そういうことになった。


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