第20話


20.




新年を迎えた一月十日。まだ寒い朝の十時。


エリザベスはグレイウィルに別れを告げる。いつだって帰ってきていいとアポロは言うが、その言葉通りにはしない方がいいのだろう。


ここには何もない。母の思い出はなく、懐かしい人はおらず、手放したくないものさえないのだから。


それでもたくさんの用意されてきたものたちへの感謝はある。旅立つにあたって用意してもらえた衣服。三重になって暖かい空気を含むペチコートに、くるぶしまでの緑のワンピースドレス。分厚いキツネ色のダッフルコート。少しだけ踵が高い、脛まである革のブーツ。これらすべては、グレイウィル伯爵の権力と財力がエリザベスにくれたものだ。


決して、いい父ではなかったと思う。己以外のすべてを面白い見世物として考えていて、エリザベスだってその一種でしかなかった。


それでも、ここが故郷で、彼が父親だった。愛着は、ある。ここで生きていけるだろうという確信も、ある。


けれどこれ以上ここにいては、いけないのだった。


すっかり着替えて正面入り口まで出ていくと、リチャードが待っていた。


「よう」


「うん」


大人の姿になった彼は、よく見ればまだ青年と呼べる年頃だった。シャツにベストにズボンという飾り気のない姿の上にコートを羽織り、それで旅装姿が完成だ。左手の中指に査問官の証の印章つき指輪を嵌めているのが、特徴と言えば特徴だった。


彼はこの指輪に込められた女王陛下の魔力で傷が急速に治癒され、生き返ったのだという。


すごいね、とエリザベスが言うと、彼はべっと舌を出し、


「もう二度とごめんだよ」


と本気でいやそうだった。魔法もいいことばかりではないらしい。


朝の光が扉の隙間から差し込んで、舞う埃がキラキラしている。


「ひとつ教えてやろうか。俺もさっき聞いたんだけどね」


「何?」


「女王陛下はたいへんご多忙であられるため、グレイウィル伯爵の裁判はご多忙がおすみになるまで引き延ばしになる、って通達があったんだってさ」


「……そんなこと、あるの?」


リチャードは肩をすくめた。


「女王陛下のご多忙は気まぐれに始まり、気まぐれに治る。前は終わるのに十年以上かかった。きっと今回もそうだろうよ」


エリザベスは微苦笑を浮かべた。そうするしかない、という気持ちだった。


「それじゃあ、ヴィクトリアがここでまっとうに育ててやれる時間があるわね。アポロがうまくやってくれれば、きっと立派な貴婦人に育つわ」


と言ったのは、なんの裏表もない本心だ。


「ま、その方がうまいこと真人間に育つかもな。アポローンが率先して躾れば」


「あら、アポロのやり方はうまくいくって、私知ってるわ」


「どこで?」


エリザベスはリチャードを指さした。こいつ、と伸びてきた青年の手に掴まって、揺らされるのにキャッキャと足をじたばたさせる。


エリザベスは今、幸福である。


物陰から覗く使用人たちの目を知っているし、彼らがひそひそ話していることもなんとなく耳に届いている。お嬢様が男を咥え込んで、まだ九歳なのに、末恐ろしい、伯爵様と奥様を追い込んで捕まえさせた、おぞましいほどに頭がいい……と、褒められているんだか貶されているんだか。


いつかもっと大きくなって、その陰口の本当の意味がわかったときに後悔するのかもしれない。けれど今は、ただ大好きな友達と一緒にいたい。


「俺が大人の姿になっても、君は態度が変わらないね」


「あなたは目の色が変わらないから。同じ人だって、わかるもの」


「ふーん……」


リチャードが照れ臭そうに伸ばしてきた手に、エリザベスは手を重ねる。


「査問官のお仕事って、何をするの?」


「ひたすらコールスランドじゅうを回って、指令がきたらそこへ向かうんだ。それまでは女王陛下の威信をお借りして、いろんなところでまあ雑用みたいなことをする。大抵はその土地の有力者に頼まれて。……妖精たちの諍いを仲裁したり、子供の行方不明事件を解決したり、ニンフが人間の夫をとったのを返してやったり」


リチャードはちらりとエリザベスを見下ろした。


「かなり大変だよ」


「素敵ね! 退屈なんて一切しなさそうだわ!」


そうして二人は笑って日の光の中へ駆けだすのだった。


――まず最初はどこを巡る?


ヤヌーハンの宝島。蜜蜂の町カルミニア。ニアラーリダの風車を観察してもいいし、ユツネの干潟で修道院の廃墟を見るのもいい。


旅行じゃないんだから、嬉しがってはいけない。いけないのだけど、どうしても顔が笑ってしまう。未来にはいいことしか待っている気がしない。


「それと君、学校へ行かなきゃ。どこかきりのいいところで」


と、リチャードが思い出したように言うので、エリザベスとしては驚いて思わず足も止まる。


「私――学校へ通ってもいいの?」


「いいよ。ていうか行かなきゃだめだよ。君は頭がいいんだし。同年代と友達になった方がぜったいにいい」


リチャードはエリザベスの表情を見て、


「え? 俺、なんかヘンなこと言ったか?」


と焦る。


「いいえ」


とエリザベスは笑った。ちょっぴり涙が滲んだ。


「友達、つくるの夢だったの。だからとても、嬉しいの」


「そっか」


「でもね、」


と慌ててエリザベスは付けたした。誤解はされたくないと、照れ隠しにリチャードの腕をぶんぶん振りながら。


「私の一番の友達は、きっとこれからずっとあなただわ! 一番最初の、一番仲のいい友達よ!」


「はははっ、そりゃ光栄だ。俺も――君の期待に応えられるように、がんばるよ」


そのようにして二人の旅は始まった。


終わりはどこか、わからない。どうやって終わらせるかも決めてない。


ただ、二人は友達だから。一生の友達だから。恋したり愛したり、離れたりくっついたりしながら、きっと最後まで一緒にいるに違いない。


どこに行っても、離れ離れになって、どこで何をしているかわからなくても。きみが幸福であれと願う。


友達ってそういうものだと、二人はこのときはじめて知った。


朝の光が優しく彼らを照らしていた。



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エリザベス・グレイウィル伯爵令嬢は九歳で駆け落ちした 重田いの @omitani

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