第二章 迷い道 6



 朝食は大根と油揚げのお味噌汁に、卵焼きと茄子のお漬物だった。

「お味噌汁の味付け最高っすね、卵焼きも甘くて美味しいや」

 遠慮もせずに、雄太は二回もお代わりをした。


「まあまあ、そんなに喜んでもらえるなんて、つくった甲斐があるわ」

 里子が目を細めて、三膳目のご飯を差し出す。

 ほかの四人は食事を終えているのに、雄太はさらにお味噌汁まで頼んでいる。

 そんな屈託のない雄太を、涼音がどこか愉しそうに眺めていた。


「朝からそんなに食って、腹痛えなんて言うなよ」

 大輔が呆れ顔で、雄太を注意する。

「ねえ、やっぱり今朝も圏外ね」

 怜子がスマホをポーチに戻した。


「お爺さん、この辺りは携帯電話の電波は届かないみたいですね」

「ああ、帰省するたびに息子夫婦や孫がそんな事を言っとったな。わしらはそんなもの使わんから、なんの不自由もありゃせんよ」

 気にする風もなく、直太朗が笑う。


「じゃあすいませんが、電話をお借りします。ペンションにキャンセルの連絡をしたいもので」

 智司が部屋の角の台に置かれた黒電話を見ながら、老人に頭を下げる。


「ああ、そんなもん勝手に使って構わんよ。しかしあの若者も朝に確認の電話をしておったな、村に許嫁がおるとか言うて」

「あの若者って・・・」

 その言葉が妙に気に掛かり、智司が尋ねる。


「ああ、三年前に最後にここから村へと入って行った若者のことだ。やめろと言ったんじゃが、いう事を聞かず行ってしもうた。今頃どうしておるか、無事じゃとええが」

 智司は妙な胸騒ぎを覚えた。


「その人は、茂野延村に許嫁がいると言ってたんですね。もしかしたらこの写真の人間ではありませんか」

 智司は財布からかなりくたびれた一枚のスナップを取り出し、直太朗に見せた。


 そこには、智司とその両親と思われる中年の男女と学校の制服を着た少女、そしてどこか智司と似た雰囲気の青年が写っていた。

 最後に家族五人で撮った写真だ。

 智司はその青年を指差し、写真を手渡す。


「どれどれ──」

 直太朗はちゃぶ台から老眼鏡を取り、その写真を見詰める。

「おい婆さん、来てみろ。あの時の青年じゃないか、確かこの顔じゃったろう」

 直太朗に呼ばれ、里子がその写真を覗き込む。


「間違いない、あの時の人です。たしか慎一とかなんとか・・・」

「慎一郎じゃありませんか」

 勢い込んで智司が訊いて来る。


「そうそう、慎一郎。そういえばあなたにどこか似ているような」

「兄です、これはわたしの兄なんです」

「ええっ、あなたのお兄さん──」

 いわれた里子が思わず訊き返す。

「嘘だろ、慎一郎さんがここに来ていた──」

 大輔が興奮気味に言った。



 智司は兄の慎一郎が三年前に婚約者である〝此花咲耶こばなさくや〟と共に、謎の失踪を遂げたことを話した。

 失踪する半月ほど前に、兄慎一郎は咲耶になにか問題が生じたことを、それとなく智司に匂わせていた。


 結婚を三月後に控えた時期で、式場との打ち合わせや招待客への通知などといった細事が詰まっているのに、急に彼女と連絡が取れなくなったらしい。

 兄と連絡が取れなくなる五日前に、どうやら彼女は実家に戻っているらしいことが分かったので、そこへ行ってみようと思うとの電話があった。


 そのときはこんな事になるとは考えてもいなかったために、彼女の実家がどこにあるのかさえ聞かなかった。

 それが後々まで、智司を後悔させることとなる。


 智司と違い慎一郎は子どもの頃から出来がよく、周りからは神童といわれて育った。

 本人はそれほど努力をしているようでもなく、部活は中高とサッカー部に所属しレギュラーとして活躍した。

 趣味は歴史関係、それも古代史で、智司もそれに影響され兄に同行し色々な所へ連いて行った。


 出雲へも兄と一緒に行ったのである。

 それ以外にも、柔道は二段を持っているし、ボクシングでもユニバーシアードに選出される腕前を持ち、世界チャンピオンを何人も輩出している有名ジムから誘われた事もあった。

 学業も優秀で、現役で千葉にある国立大の医学部に進んだ。


 テレビのドキュメンタリー番組で神の手の異名を持つ〝福島孝徳〟という存在を知り、自分もこういう医者になりたいと思ったらしい。

 中学の時には、将来は医者になると卒業文集に書いていた。


 慎一郎は国立の医学部を卒業し、二年間の〝医師臨床研修制度〟も無事終了して、その年から本格的な勤務医として、有名な私大の附属病院で〝外科医〟として勤務し始めたばかりであった。

 その頃には、医師というものへの考え方が変化していた。


 兄はゆくゆくは海外へ臨床研修留学をし、その後は〝国境なき医師団〟のような場で医学を生かす道を模索していた。

 しかし、どうやら婚約者である咲耶の親は娘と共に実家へ戻ってもらい、そこで病院を開業してもらいたい意向らしかった。


 地方ということで医師不足のため、地元の有力者であるという彼女の実家が、病院設立を全面的にバックアップするつもりらしかった。

 早い話し、娘と結婚したいのであればそこで開業医となれ、病院は建ててやると言うことだ。

 彼女とのトラブルも、すべてはそこが起因していると思われた。


 その此花咲耶という女性も一度両親に引き合わせただけで、婚約も結婚のことも慎一郎が独断ですべてを決めて行った。

 結婚式の日取りも決めたというのに、まだ先方のご両親との挨拶もしていなかった。

 慎一郎本人さえ、まだ面識がないというのだ。


 何度も咲耶に実家に行きたい旨を伝えているのだが、なんやかやと理由をつけて実現してないらしかった。

 元来若林家はのんびりとしており、両親ともすべてはしっかり者の自慢の息子が進めているという事で、特に心配もしていなかった。


 彼女の実家も〝甲信越地方〟らしいというだけで、はっきりとした住所さえ聞いていなかった。

 だが智司は、兄と三人で何度も咲耶とは顔を合わせていた。

 色の白い楚々とした和風美人で、街を歩けば誰もが振り返るような容色の持ち主だった。


 実際にタレントやモデル事務所のスカウトから声を掛けられるのは日常茶飯事らしく、控えめな性格の彼女は困り切っているとの事だった。

 彼女と知り合ったのは、医療関係のボランティア団体だったらしい。


 なんと驚くことに、声を掛けて来たのは彼女の方からだったという。

 見た瞬間から慎一郎はその美しさに目を奪われていたが、あまりの美貌に声さえ掛けられずにいたらしい。

 実際そのボランティアに参加した男性陣は、既婚未婚を問わず彼女に魅入られない者はいなかっただろう。

 それ程美しい女性だった。


 そんな彼女が或る昼休みに、突然声を掛けて来たという。

「一緒にお昼食べませんか?」

 微笑みながらそう語りかける彼女を見て、慎一郎は後光が放たれ、桜の花びらが乱れ散る錯覚を見たという。


 ひと言でいえば〝桜の精〟という表現が似合う女性であった。

 初めて彼女を紹介されたとき、智司は兄にこう尋ねた。

「鶴を助けたことある」

 一瞬ぽかんとした後、慎一郎は笑いながら智司の頭を引っ叩いた。

 それを見て、彼女も声を立てて笑っていた。


「馬鹿。鶴も助けてないし、雪山で遭難もしてないよ。してたのはボランティアだけだ」

「ふうーん、俺もボランティアしてみようかな」

 そんな会話をした事を、智司はいまでも鮮明に覚えている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る