第二章 迷い道 3




 老婆はあっさりと五人の宿泊を快諾してくれた。

 どこか気難しそうな風貌の老人も、話してみれば気の優しい方だった。

 有り合わせのもので食事も出してもらい、風呂まで沸かしてもらった。


 一旦床に就いていたらしい老夫婦に、五人はすっかり世話をかけてしまっていた。

 みなが風呂を使い終わり居間でのんびりとしたのは、もう十一時を回った時刻だ。


「すっかりお世話になってしまい、申し訳ございません。おやすみになっていた所を起こしたばかりか、こんな時間になるまで色々とご迷惑をおかけして、なんとお礼を言っていいのか言葉が見つかりません」

 みなを代表して、智司が礼を言う。


 こういった常識的なことを言わせれば、智司の右に出るものはいない。

 物腰が柔らかく言葉遣いも丁寧で、なんといっても顔付が優しいのだ。

「寂しい年寄りの二人暮らしの毎日じゃ、たまにはこんな賑やかな夜があってもええでしょう。わたしたちこそ楽しいひと時でした」

 老人がにこやかに笑う。


「そうよみなさん、出来れば二、三日泊ってもらいたいくらい。子どもらも、孫たちもみな都会へ行ってしまい、滅多に顔も見せてくれないの」

 寂し気に老婆が呟いた。


「二人の子どもや孫たちもみな、こんな何もない場所を出てしまい、年に一度も顔を見せてはくれん。ご先祖様の時代から代々ここに住み着いて来たが、どうやらそれもわたしたちで最後になりそうじゃ。世の中の移り変わりじゃから、仕方がないと諦めねばな」

 老人が丸くなった妻の背中をなでながら、しみじみと語った。


 名前を訊くと〝桃部〟という苗字らしい。

 老人の方は直太朗、老婆の方は里子だと言う。


「これでもわしらの若い時分には、二十件ほどの民家が点在しておった。どの家も同じ祖を持った一族でな、かれこれ二千年以上も前からここに棲んどったと言われておる。それが今ではわしら夫婦だけになってしまった、桃ノ部一族もこれで終いじゃ」

 この集落の者の苗字は〝桃部〟か集落名と同じ〝平坂〟のみだったと言う。

 すべてが縁戚で繋がっている、血縁関係が強い土地だった。

 近親婚を避けるために、結婚は近隣の地区から相手を探したらしい。


 それでも従兄妹、叔父姪どうしの結婚も後を絶たず、不具者が産まれる事も多々あったらしい。

 その逆に非常に優秀な者が生まれたり、不思議な能力を持った者が出現する事もあったと言う。


「に、二千年以上前? いくらなんでもそれは・・・」

 大輔が素っ頓狂な声を上げる。

「ははは、ただの言い伝えじゃよ。しかしかなり古くからここに居ったことは間違いない、多分まだ今の日本人が使っておる文字などなかった頃にまで遡れるはずじゃ」

「文字がなかった頃っていつよ? 全然ぴんと来ない」

 怜子の言葉に、涼音が素直に頷く。


 大輔や雄太に至っては、ただ不思議そうな顔をしているだけだ。

「それにしたって、千五百年近くは経ってる計算ですよ」

 万葉集で有名な『万葉仮名』が使われ出したのが七世紀後半から八世紀前半だといわれている事を思い出し、歴史好きな智司が驚く。




 ─ 附記(古代日本人と日本語に関する、狭義的私見国家論) ─


 漢字というものを日本人が見たのは、一世紀頃と推察される。

『王莽銭』や国宝である〝漢倭奴国王〟が彫られた『金印』(私見ですが、贋作説をわたしは採ります)がその頃の物である。

 読むだけであれば、二世紀『邪馬台国』の時代には理解していたと思われる。

(あくまで特別な立場の人間に限られ、一般の人々には文字など読める訳はなかった)


 その頃は地域によっては言葉そのものが、方言では済まされないほどの違いを持っていたかもしれない。

 邪馬台国で話されていた言葉が、そのまま上代日本語になったとは言い切れないが、そのルーツである事は間違いないだろう。


 日本人が自らの手で文字を刻んだ実物は、五世紀末頃の古墳から出土した太刀に確認できる。

 しかし、それはあくまで刀剣や青銅器、鉄器に刻む単語としての文字(名前や地名)であり、一般的に文章・記録として意識されたのは、やはり飛鳥時代頃であろう。


 そう考えると、漢字という文字と邂逅してから六百年ほどかかって、日本人はやっと漢字を自らの文字として使用し始めたと言える。


 聖徳太子と言われる人物(厩戸皇子とも言われるが、実際の本名はいまだに謎である。古い記録には〝上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこ)〟とも〝厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこ)〟とも言われるが、それ以外の記録もあるために、どれが本名なのかは分かっていない。しかし厩戸であったのは確かだ)が現れた頃には、一部の為政者は文字を使用していたことは確実である。


 この頃の人物の名前が不確かなのには、明確な理由がある。

 自分の本名を他人に知られることを、極端に恐れていたからだ。

 男から名前を聞かれ、それに応え女が自分の名を教える。

 それはすなわちプロポーズをされ、それを承諾するという意味になる。


 万葉集に有名な、雄略天皇(当時はまだ、天皇という名称はなく、大王おおきみと言ったはずだ)の歌がある。

もよ み持ち 掘串ふくしもよ み掘串ぶくし持ち

  この岡に 菜摘ます子 いえらせ らさね

  そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ

  しきなべて 我れこそ居れ  我れこそは 告らめ 家をも名をも』

(早春の晴れた日の昼下がり 初瀬の丘の上で数人の乙女たちが竹籠と竹箆へらを持って若菜を摘んでいた。

 おりしも大和の国の青年領主であった雄略が通りかかった。

 見渡すと、乙女たちの中でも際立って美しく高貴な女性が目に飛び込み、。雄略は一目惚れしてしまう。

「おおい 娘さんよ、竹籠と竹べらを持って若菜を摘んでおられる娘さん。あなたはどこのお家のお方なのです? お名前はなんとおっしゃるのですか?」

 娘は答えようとしない。

「娘さん あなたが答えてくれないなら私の方から名を告げましょう。

 私はこの大和の国一帯を治めている雄略というものです。

 さあ、私の身分も名前も告げましたよ。今度はあなたが答える番です」

 これは求愛の歌だとされる。

 相手の名前を訊き、自らの名を教える。

 これでふたりは夫婦となるのである。

 当時の名前というものにはそれほどの力と、意味があるとされていた)


 昔の人間は呪術や迷信を本気で信じており、真の名を人に知られる事は呪をかけられることになるため、本名は隠されていたのだ。



 先に名前が出た聖徳太子を厩戸皇子と言い出したのは、歴史学者の小倉豊文で、初出は1963年、翌年に田村圓澄が自著『聖徳太子―斑鳩宮の争い』で使用したことで一般に広がったとされる。


 その聖徳太子が活躍した時代の日本語は、いまの我々にはまったく理解できない発音や単語である。

 だがそれが今の日本語の母体である事は、間違いのない事実だ。


 千五百年前の日本語でさえ今では会話が成り立たないのに、同じ日本語であっても縄文・弥生時代ではさらに違っていただろう。

 それでも日本語は、日本語なのだ。


 日本列島では他の地域のような、武力で征服民族が元の原住民族を皆殺しにするといった事は発生しなかった。

 拠って、縄文人が混血によって弥生系の民族に変化していった事実はあるが、それは緩やかな融合であり民族としては連続性を持っている。


 決して縄文人は亡んだわけではないし、弥生人と縄文人の間に隔絶はない。

 日本人は、昔から日本人のままなのだ。

(沖縄地方には本土では失われてしまっている、古い時代の日本語の名残りがあるために、琉球に棲む人は元々から日本語を使用していた縄文人だと思われる。一方誤解されやすいのは北海道のアイヌ民族だ。彼らの言語は日本語とは全く異なっている。しかも皆が思っているような原住民族でさえない。元々北海道には北部縄文人系の日本人が住んでおり、もちろん使っていたのは日本語であった。そこへ北方からやって来たアイヌ民族が、定住し始めたのが十二、三世紀の鎌倉時代だと言われている。狩猟民族であるアイヌから駆逐され生活範囲を縮小させられたのが、農耕をかなり取り入れていた原住縄文日本人だったのだ。拠ってアイヌは北海道の原住民ではないし、そこが元々の彼らの土地でもないことになる。逆に彼らが原住日本人から奪ったのである)


 一時期学会では日本土着の原大和民族を大陸からやって来た半島系の騎馬民族が駆逐して、いまの日本人のルーツになったなどという説が流布されたが、それは間違いだ。

(いまの日本人のルーツは半島に由来するなどという嘘の情報が、あたかも事実のように信じられていた時期があった。その時代の偽情報に影響を受けて描かれたのが、手塚治虫の『火の鳥・黎明編』という有名な漫画だ。ストーリーとしては凄く面白いが、話しとしては間違っている。渡来民族が邪馬台国を亡ぼし〝大和朝廷〟の基礎を作ったような筋になっている。間違った解釈だが、描かれた頃は騎馬民族渡来征服説が信じられていたのだから仕方がない。漫画そのものはすごく面白いので、機会があれば一読をお勧めします)


 言っておくが日本は太古からいままで、ずっと日本人が住み造り、生活してきた国である。

(もちろん地球が出来てから、すでにここに日本人が住んでいたとは言わない。日本海が大きな湖で、まだ大陸と地続きであった頃に北方から渡って来た人もいたはずだし、南方から海を渡って辿り着いた人もいただろう。そういった人々が混じり合って日本人が出来上がったはずだ。しかしそれはあくまでも〝日本人〟なのである。他民族がいきなり列島にやって来て、住み始めたわけではない)


 一説によると、九州や近畿、東北の文明以外に富士山周辺に〝富士王朝〟が存在したのではないかと唱える学者もいる。

 もしこの老人が言う二千年以上前と言うことが事実ならば、大和朝廷以前に栄えたその富士王朝の末裔であるのかもしれない。



 漢字以前に倭人は〝神代文字(かみよもじ・じんだいもじ)〟と言われる、地域ごとの複数種の独自の文字を持っていたとも言われているが、真贋のほどは証明されていない。

 というより、いまの時点ではそのすべてが〝贋作〟とされている。


 最近の研究では縄文時代の日本列島は、世界最先端の技術を有していたと言われる事もある。

 オーストラリアで六万五千年前の〝磨製石器〟が発見される前は、三万八千万年前の岩宿遺跡というのは世界最古の磨製石器と言われていた。

 中華の地にある物よりもかなり古い。


 しかし一部の人からは、三万年前ころから一万五千年前くらいまでの間の遺跡からは磨製石器が発見されていないためケチを付けられる事もあるが、日本各地から三万八千年から三万年前までの間の遺跡で数々の磨製石器が発掘されていることは事実でしかない。

 技術水準としては、世界でも最先端であった証拠であろう。


 日本人の中の一部には大陸や半島よりも、日本が優れていたと言うことが気に入らない輩が一定数いるのには困ったものだ。

 日本は常に彼らの格下でなければ、我慢がならないのだろう。

 事大主義思想・大中華思想以前の、話しにもならない自虐史観という病に侵されているとしか思えない。


 高い文明を持ちすべてが素晴らしく、野蛮な日本に何からなにまでを教え諭したのは〝半島や大陸〟であり、海に浮かぶ卑しくなにも知らない貧しく野蛮で取るに足らない小さな国が日本。

 絶対善なのは前者であり、なにからなにまで悪いのはすべて日本。

 それが、彼らの思考である。


 半島の人は言う〝たかがじゃんけんであってさえ、日本には敗けてはならないのだ〟と。

 日本に対する根拠のない絶対的優越感と、どうにもならない絶望的劣等感が彼らにはある。

 そんな卑しい日本に支配された自国の歴史は、彼らにとって我慢のならないものでしかない。

 これこそ典型的な大中華思想であり、事大主義なのです。

 彼の国の憲法の最重要な項目は〝反日〟である。

 (憲法を読んでみると、誰でも分かるはずです)

 中共では国家の上位に〝党〟という存在があるように、彼の国では反日こそが国家の依って立つ最重要事項なのです。


 儒教の悪い面のみを金科玉条のように信じたのが、李氏朝鮮という国だった。

(日本の場合は、儒学はあくまで学問であり、宗教にはなり得なかった。だから儒教ではなく基本的には儒学なのです。しかも儒学の悪い部分は、そっくり無視してしまうと言うハイブリッドな導入の仕方だ。嘘だと思う方がいらっしゃれば、調べてみればいい。いくらでも簡単に証拠は出てきます)


 そもそも日本は気候も温暖で、四方を海に囲まれ飲み水も潤沢に湧き出ているために、生きて行くための食べ物も豊富にあった。

 人口から推察して住む土地の広さにも問題がないために、結果として他地域に棲む集団同士が争い合う必要もない、いたって平和な世界だったと考えられている。


 翡翠などを使った装飾品も、船を使って東北から沖縄諸島にまで交易されていた。

 生活だけではなく、当時の日本人はお洒落にも敏感だったのである。


 今後の研究を待たねばならないが、東南アジアやインド亜大陸、太平洋を渡り南米へまでも進出していた形跡すらある。

 そんな民族に表音記号としての〝文字〟が本当に無かったのだろうか。


 南米ペルー付近に一大帝国を築いた『インカ文明』にも文字はなかったと言われているから、日本に文字が生み出されなかったとしても不思議ではない。

 しかし贋作と言われている数々の神代文字や古文書のすべてが、本当に偽物だと言い切れる確証もないではないか。


 歴史というのは常に勝者が作るもので〝記紀〟は時の権力者である藤原氏が造った文献である事から、彼らに都合の悪いものは闇に葬られた可能性が高い。

 皇室に藤の蔓のように絡みつき、権力の中枢にあり続けた彼らが編纂させた書物を手放しに信じるわけにもゆくまい。

(確かに編纂の命を下したのは〝天武天皇〟であるが、実際に差配したのは時の権力者である藤原氏なのである。しかも成立時には、皇統は天武系から天智系に戻ってしまっている。そもそも天智天皇と天武天皇は、血の繋がりなどない他人だという説さえある。ただ確かにそこに介在するのは〝藤原氏〟という一族だ)


 乙巳の変(大化の改新)の際に、蘇我蝦夷と共に甘樫丘で炎に消えた蘇我氏・厩戸皇子(上宮王家)系の書物である『天皇記すめらみことふみ』『国記くにつふみ』、さらに古いとされる『帝記ていき』『旧辞くじ』の散逸がなく完全な形で改竄もされずに現存していれば、また別の古代日本の姿が見られたかもしれない。

 いや蘇我氏と上宮王家には、現在知られてはいないもっと重要な文献や口伝が語り継がれていた可能性が高い。

 それこそがわが国の、真の歴史を綴ったものであったと推察される。


 古代の日本に関しての話しは尽きることはないし、真実がなにかと言う事さえ不確かな時代です。

 それを神話にまで遡れば、それこそ収拾がつかなくなりますので、私見はここまでといたしましょう。

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