第10話 夏がはじまる
金属バットを使ったからといって、ナツの打撃成績がさらにぐんと上昇するわけではない。あくまで彼女自身のモチベーションによって左右されるのだ。
一回戦から三回戦まで、そのことがよくわかる出来にナツは終始した。
大会の大本命である九里谷中央、次いで対抗馬と目される何校かが続いて、実郷学園はその下のダークホースだというのが戦前の評判だった。
にもかかわらず初戦には内野席が埋まるほど大勢の観客が訪れたのだ。ナツ効果と呼ぶほかなかった。
ナツがバッターボックスに立つたび、拍手が巻き起こる。
しかし彼女の打撃はその過剰な期待になかなか応えられないでいた。正確を期すなら「応えるつもりがなかった」と言うべきだろう。
相手投手のレベルに合わせたバッティング、それがタケルの正直な感想だった。
単打ばかりでホームランはおろか長打さえ出ていない。軽く当ててセンター前、あるいはライト前に運んでいく。そしてたまに凡退。
意外にも流し打ちは不得手なため、三戦通じて一度もレフト方向には打球は飛ばなかった。
実郷学園としてももたもたしたような勝ち上がり方だった。
わりあい楽なブロックに振り分けられたため、チームとしては消耗を避けるべくコールドでの勝ち上がりを目論んでいたのだが、どのゲームも僅差の競り合いから終盤になってようやく勝ち越すのがやっとの有様だ。
ベスト8入りを決めた直後のミーティングでは、内容に納得していない墨井から盛大に雷を落とされた。
「残塁が多すぎる! おまえらはちゃんと頭でもの考えて野球やっとんのか? ああ? 何も考えとりゃせんじゃろこのバカタレどもが!」
血圧が心配になるくらいにがなり立てていたが、その怒りはもっともだ。
相手投手を攻めたててはいてもなかなか点に繋がっていかない。
非常に効率の悪い野球になっているのがベンチから見つめているタケルとしてももどかしかった。
九里谷中央という非常に高い障壁はあるものの、墨井がこの夏を自身にとっても勝負の大会と位置づけているのは間違いない。
不動の四番であるナツこそ二年生だが、野球センスの高い好選手が集まっているのは三年生たちだからだ。
捕手というポジションながら選球眼のよさと足の速さ、ミート力を買われてトップバッターを務める好打者の由良。
勝負弱さがネックだが、ナツに次ぐ長打力を持つ主将のファースト清水。
阿吽の呼吸で鉄壁の守備を誇る二遊間、セカンド大法寺とショート久枝。
ライトには県内でも屈指の強肩である三津浜、そしてマウンドを守るのは右横手から多彩な変化球で相手を翻弄する宮田。
タケルにとっては身近な目標であり、自慢の頼もしい先輩たちであった。
墨井はともかくとして、三年生たちとともに何としても甲子園に出たい。
そのためにタケルはいつどんな場面で出番が回ってきてもチームに貢献できるよう、一心に集中力を研ぎ澄ませていた。
そして九里谷中央戦の朝がやってくる。
「今日が事実上の決勝戦だと思え。明日のことは明日考えたらええ。相手は強大だが怯んだらそこで負けじゃ。気持ちを強く持って前に出ろ」
出発前のグラウンドで、全部員が並んで緩やかな半円を作っていた。そんな彼らと向かい合って墨井が熱のこもった檄を飛ばしていた。
「おまえたちが耐えてきた練習が報われるに値するものだというのは誰よりこのワシがようく知っとる。辞めたいと思ったのはみな一度や二度じゃないはずだったろう」
そう言って墨井は頭を下げる。
「今までよくついてきてくれた」
思いがけない感謝の言葉に、部員たちの背筋が心なしか引き締まったように見えた。
「まだまだ夏は始まったばかりだからな。楽しくなるのはまさにこれからよ。おまえらの夏はもっともっと熱くなるぞ」
それにな、と墨井は余計な一言を付け加える。
「ワシとしても正直、まだまだノックをし足らん気持ちがある」
由良から「勘弁してくださいよー」と突っこみが飛び、墨井を含む一同から笑いが漏れた。タケルも思わず笑みがこぼれた。
大事な一戦の前にふさわしい、とてもいい雰囲気だった。
◇
話は前日に戻る。
全体練習を終えた夕暮れのグラウンドに珍しくまだナツの姿があった。
翌日に控えた九里谷中央との大一番を前にして、さすがのナツも胸に期するものがあるのかスイングのチェックに余念がない。
少なくともタケルの目にはそう映っていた。
両足を真っ直ぐに揃えたスクエアスタンスに構え、バットをしっかりと見据えながら天へと高く突き上げる。わずかに静止したあと、自然にバットを下ろしてトップの位置を顔の左横に固定する。
前方に顔を向け、仮想上のマウンドにいる投手を視線で射抜く。そして右足を上げて力強く踏み込み、投じられたであろう相手のウイニングショットを打ち抜くべくフルスイングする。空気を切り裂く鋭い音とともに。
だが次に聞こえてきたのはあからさまな舌打ちだった。
「うーん、ダメだ」
流れるような一連の動作を何度か繰り返し、イメージトレーニングを行っていたナツが突然バットを投げだすようにして練習の手を止めてしまった。
チューブを使ってインナーマッスルを鍛えていたタケルの視線に彼女が気づく。
溜め息混じりにナツは言った。
「何度対戦しても打てる気がしない」
自分の不甲斐なさを責めるような厳しい調子だ。イメージでの勝負とはいえ、さすがの剛腕将野相手に苦戦を強いられていたのだろう。
珍しいな、と思いつつもタケルはフォローのつもりで気休めを口にする。
「やっぱりナツでもあの将野は手強いか」
しかしナツから返ってきたのは予想外な反応だった。
「? ショーノって誰」
「将野って誰って、何言ってるんだよ。明日対戦するだろ。ほら、開会式の後でおれに絡んできてたでかい人。まさか忘れてないよな」
「ああ、あの熊」
ようやく合点がいったらしいナツがゆっくりと首を横に振る。
「違う。勝負してたのはスズカと」
そう答えてから、少し離れた場所に転がっていったバットを拾いに行く。
反対にタケルのトレーニングはぴたりと止まってしまった。
それはそうだろう。まさか鈴鹿の名前を聞こうとは想像さえしていなかった。
あの鈴鹿静次郎といずれ勝負するつもりでいるのか。
明日、九里谷中央との準々決勝が死力を尽くした戦いになるのは間違いない。なのにナツは目眩がするほどにそのはるか先を見てしまっているのだ。
困惑しているタケルに、再びバットを握ったナツは平然と言った。
「だって明日は七月十七日でしょ」
もちろんタケルだってその日付は胸に刻みこんでいる。
他のプロ野球選手とですら次元が違った鈴鹿のピッチングも、ナツと明かした激しい雨の夜のことも、きっと死ぬまで忘れはしないだろう。
ただ、明日の敵は将野隆宏なのだ。
甲子園に行きたい。それはナツについてくる形で実郷学園へと進学してきたタケルが、厳しい練習に耐えるうちに自然と見出した目標だった。
他の部員たちと同じく、タケルにとってどうしても負けられない試合が目前に迫っている。より大きな果実を得ようと思えばこの試練に打ち勝たねばならない。
ナツほどの才能ともなればあの将野ですら好敵手になりえないのか。
たとえそうであったにせよ、願わくばナツも含めたみんなで心を合わせ、同じ場所を目指して戦いたい。
それがタケルの嘘偽りない想いだった。
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