第6話 OB来訪
夏の大会開幕があと一週間と目前にまで迫ってきている。
夜の自主練習を終えたタケルが帰寮すると、上着のないクールビズスタイルなスーツ姿の、思いがけない人物が談話室で待っていた。
「よう。久しぶりだな」
一年前に実郷学園のエースナンバーを背負っていたOBの洲崎だった。
かつてナツとの対決に真っ向勝負で敗れた、あの洲崎だ。
ナツの少年野球チーム加入当初は敵視するような姿勢を崩さなかった洲崎だが、次第に態度が柔らかくなり、のちには自分がいる高校への進学を勧めるほど二人の理解者となってくれていた。
「洲崎さん! ご無沙汰してます! 何かすっかり社会人って感じっすね」
「いやいや、んなことねーわ。高校ん時と同じでしょっちゅう雷落とされてるよ。ま、夏前の地獄の合宿に比べりゃどうってこともないけどな」
「おれ、今年も何回か吐きましたよ。そのたびに監督から『飲みこまんかい!』って怒鳴られました」
「爺さん相変わらず飛ばしてるなあ」
そう言って笑う洲崎の顔は、甲子園を目指して頑張っていた去年と同様によく日焼けしていた。
「まあ立ってないで座れよ。差し入れのジュースとか菓子とかはさっき由良たちに渡しといたんだが、ひょっとしたらおまえの分はないかもな」
「由良っさん、太りやすい体質なのに甘い物大好きですからね」
タケルはテーブルを挟んで洲崎の向かい側に腰を下ろす。
「組み合わせ、見たぞ。順当にいけば今年も準々でクリ中とじゃねえか」
去年の実郷学園は準々決勝で九里谷中央の前に敗れ去っていた。5回の時点までは0-0と食らいついていたが、後半に地力の差が出てじりじりと離され、終わってみれば0-6の完敗だった。
速球を武器とする洲崎には県内でも屈指の好投手だと注目が集まっていた。
だが高校の三年間で酷使してきた肩はもはや限界だった。結局、自身の進路に洲崎が大学や社会人での野球を選ぶことはなかった。
「今年はやっと魚塚が出られるからな。去年のようにはいかんぜ」
淡々とした洲崎の口調に、悔しさのかすかな残り香をタケルは感じとる。
「それはそうと日比谷、おまえどうだった」
洲崎が聞きたいことはわかっている。
昨日、練習後に県大会のベンチ入りメンバーが発表された。ここで選ばれるのと選ばれないのとでは、まさに天国と地獄ほどに違う。
ナツとともにこの夏を戦う、ただその一心でタケルは自らを厳しく律して練習に取り組んできたのだ。こんなところで早々と脱落するわけにはいかなかった。
「何とかもらえました。18番です」
「プロならエースナンバーだな」
続けて洲崎はプロで華々しい活躍をした何人かの投手の名前を挙げていく。
プロ野球の試合ならタケルも三年前に一度だけ観に行ったことがある。すべてに渡って段違いのレベルにいる選手たちが真剣勝負を繰り広げていたのを、タケルは今でも鮮明に記憶している。
なかでも誰より印象に残ったのが鈴鹿静次郎という投手だった。
当時まだ高校を卒業したばかりだったルーキーの鈴鹿が投げる球はありえないほどに速く、強力打線を擁してリーグの首位に立っていた相手チームをいともたやすく押さえ込んでしまう。
そんな鈴鹿が背負っていたのが18番だ。プロ入りしてから三年間、NPBの投手部門タイトルを独占し続け、若くして名実ともに日本のエースとなった。
「おれとしては18番といえばやっぱり鈴鹿ですね」
「あれは掛け値なしの化け物だろ。今年このままいったらぶっちぎりのサイ・ヤング賞間違いなしだからな」
日本で敵なしとなった鈴鹿は昨シーズンのオフにまさかの引退を宣言し、直後にメジャーリーグの強豪球団への加入が発表された。
そのときの騒ぎは凄まじいものがあった。鈴鹿と所属先である日米両球団へのバッシングは常軌を逸していたのだ。
汚れた金、金まみれ、ファンを踏みにじった裏切り者、錬金術、野球の死。そういった類の言葉がメディアを席巻し、世間における鈴鹿のイメージは地に墜ちた。
確かにルール違反ではあった。だが鈴鹿本人はそんな逆風にも何ら動じず、一挙手一投足に絶えず監視のごとき注目が集まるなかで、メジャーリーグの強打者相手に快刀乱麻のピッチングを続けている。
ぽつりと洲崎が言った。
「鈴鹿と魚塚って似てるよなあ」
すぐさまタケルは先輩相手に反論する。
「そうですか? ナツはいくら何でもあそこまで世間を敵に回せないですよ。あの人、鈴鹿静次郎って敵を求めて戦地に赴くような険しい雰囲気があるじゃないですか。あの子はもっとふわっとしてますから。判断基準は興味があるかないかだけ、みたいな」
「そこなんだよな、似てるって感じたのは」
ソファーにもたれ、洲崎は大きく息をついた。
「鈴鹿ってたぶん、戦える相手がいなくなったから海を渡っただけじゃないかって気がするんだよ。どうでもいいことは全部放り投げて。自分が叩かれてることにさえ興味がないんじゃねえのかとすら思うわ」
タケルは黙ったままで聞いている。
「メジャーでも敵がいなくなったらいったいどうなっちまうんだろうな。もうどこにも行けねえよ。今度こそ本当に一人ぼっちだ」
そう言って洲崎はシャツのいちばん上のボタンを開けた。
「似てるか似てないかはまあ、そこは意見の違いってこった。要するにだ、鈴鹿みたいな人生をあいつが選ばないよう、おまえがちゃんとしとけって話だ。余計なお世話かもしれんが」
社会人となった洲崎には、明らかに高校の頃とは違う落ち着きがあった。それは諦めと引き替えにして手にしたものなのだろうか。
ひと呼吸置いて、タケルは率直な疑問をぶつけてみる。
「何でまた、そんな話を?」
「こないだな、ばあちゃんの具合が悪くなったっていうから島に帰ったんだ。でも全然たいしたことなくて暇になったから島の中をぶらぶら見て回ってたんだよ。小学校の時のグラウンドとか中学校の時のグラウンドとかな。んで、思ったわけだ。今まで野球をやれて幸せだったなあってさ。大事だぜ、幸せってのは」
穏やかな眼差しで洲崎はそう語った。
唐突に幸せ、と言われてもぴんとこなかった。
タケルにとっては一瞬の連続のような今だけがすべてであり、昔のことも先のこともじっくり考えている余裕などない。
ただ、野球から離れた洲崎が自分の人生に納得し、受け入れているのであればそれは素直に喜ぶべきことだった。
現役を引退して脱け殻のようになっていた時期を知っているだけになおさらだ。
鞄をがさごそと探りだした洲崎は何かを取り出し、テーブルの上に置いた。どう見ても二つのただの石ころだ。
「これは?」
「浜辺で拾った石さ。水面でよく跳ねそうな形だったからついな。よければ島のお守り代わりとして持っておいてくれ」
薄い楕円形の石は確かに水切りに向いていそうだった。ナツや友人たちとよく何回できるか数を競っていたのをタケルは懐かしく思い出す。
「もうひとつはナツの分ですよね」
「おう。さすがにこの時間に女子寮へ入ったら警察呼ばれるからな。おまえから渡しといてくれ」
屈託なく笑う洲崎につられて、タケルも自然と笑みがこぼれた。
「クリ中と、将野とやりあうまで負けるなよ。その日は何としても有休取って応援に行くからな。そんで絶対、甲子園行けや」
窓の外では、いつの間にか降り出していたらしい雨の音が静かに響いている。
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