第5話 スタートライン
墨井監督が新井場記者に言っていた「よろしく」の意味がわかったのは、三日後の朝刊に載った記事を読んだときだった。
「おい日比谷ァ、ちょっとこーい」
その日、早朝の自主練習に出ようとしていたタケルは、寮の談話室にいた先輩の由良に捕まってしまう。
何がそんなに面白いのか、チームの正捕手を務める由良はげらげらとソファの上で笑い転げていた。
「おはようございます、由良っさん。いったいどうしたんすか」
訝しむタケルを見てもまだ由良の笑いはおさまっていない。
「ぶふ、まあとにかくこれを読めって」
そう言いながら由良が渡してきたのが、談話室に一紙だけ置かれている地元紙の朝刊だった。
「政治面とか株式面とか、そういうボケはいらんからな。地元のスポーツ面だぞ」
促されるままにタケルは紙面を開く。まずタケルの目に飛びこんできたのは『スーパー女子高生、甲子園への道』と題された特集記事だった。
今日だったのか、とタケルは反射的に新井場記者の顔を思い浮かべた。一字一句を見逃すまいと記事の文面に集中する。
『彼女はもしかしたら高校野球に革命を起こす存在かもしれない』
そんな出だしの文章で、いかに魚塚奈月という稀代の女子高生が素晴らしいセンスを持った打者であるかを手を替え品を替え称賛している。
後半部分にはナツ本人の言葉としていろいろと引用されていた。
『甲子園に憧れて野球を始めました。あんなに素敵な場所、他にないですから』
『毎日、野球をやれるのが楽しくて仕方ないです』
『証明したいんですよ、女子でも男子と対等に野球ができるって』
『公式試合に出るのがわたしの夢ですね』
恐ろしいほどナツによく似たこの女子生徒はいったいどこの誰だというのか。
一緒に掲載された写真までなぜかふてぶてしさが欠片もない、さわやかな元気美少女として写っている。溝渕カメラマンの凄腕ぶりがうかがえた。
読み終えたタケルはよほどあ然としていたのだろう、立ち上がった由良が手を叩いて喜んでいる。
どうやら彼の期待に添うリアクションだったらしい。
由良はタケルの肩に手を置き、嬉しそうに言った。
「洒落にならんくらいの捏造だろ」
同意するしかなかった。
ナツに対して非常に好意的な記事であることは間違いない。
だが内容に関しては、ステレオタイプな体育会系優等生のイメージを打ち出すべく、本人に確認を取る必要もなさそうなほどの粉飾が施されていたのだ。
どうみても墨井の意向が働いているとしかタケルには考えられなかった。
取材があった日の夜、片付けが終わったグラウンドでナツが質問攻めにあっていたのをタケルは思い出す。
「んでウオッカ、おまえその取材で何て答えたんだ」
彼女を囲む輪の中心にいたのはそのときも由良だった。
野球部という集団には他の体育会系の部と比べても先輩・後輩の縛りが厳しいところが多い。
加えてナツは女子だ。色眼鏡で見られ、孤立したとしても何ら不思議ではない。
だが由良は違った。
フラットな感性の持ち主なのであろう彼は、入部早々のナツのフリーバッティングを目の当たりにし、テンション高く率直な賛辞を送ってきたのだ。
以来、彼はかつて日本ダービーを牝馬ながら制した女傑の名をもじってナツを呼ぶ。軽口の延長のようにもみえるが、そこにはナツをチームから浮かせまいとする由良のキャッチャーらしい細やかな配慮があるのをタケルはきちんと理解していた。
「え、いつも言ってる通りだけど」
ナツはナツで、先輩も後輩も関係ない無愛想な口調ながら、どうにか周囲とのコミュニケーションを成立させている。
「『力を入れるのは正しいタイミングに、必要な分だけ』って」
「それは記者さんもさぞかし戸惑っただろうな。そんな説明でホームラン打てるんだったら、おれだって世界の王さん越えを目指すわ」
「じゃあ目指せば」
冷たく言い放ったナツはマネージャーからもらったおにぎりを口に運んでいた。どうやらすでに三個めのようだ。
「つれないねえ。そういやあれは説明したのか、ボールをよく見るってやつ」
「言った。『ボールから目を離さなければそのうち止まって見える』って」
あのとき、聞かれるままにナツが答えていた内容によれば、取材の骨子は彼女が持つ打撃理論についてだったはずだ。
あまりにも抽象的な理屈が敬遠されたのだろうか。そうではないだろう。初めから出来レースでしかなかったのだ。
新井場記者の本心がどういうものだったかはわからないにせよ、ナツという女子選手を好印象で発信することによって、より大きな舞台でプレーする手助けをしてくれている。
天才すぎる人間は他者の妬みを買いやすい。
想像の域を出ないが、墨井と新井場記者がナツのイメージを操作したのがそういった心配もしての理由であれば、タケルとしてもとうてい責める気にはなれない。
タケルは新聞を指で弾いた。
「実物はこんなにかわいらしくて健気な美少女じゃないっす」
「おうおう、素直じゃないねえ。女の子はな、ちゃんと言葉にしてあげなきゃいかんのだぞ。『そのままのきみがいちばんだよ』ってな」
「由良っさん……朝っぱらからよくそんな恥ずかしいセリフを口にできますね……」
引き気味に反応したタケルに対し、由良は「ちっちっ」と人差し指を横に振る。
「ピッチャーと似てるんだよな、女の子って。やたらめったらわがままで、機嫌をとってやらなきゃすぐやる気をなくしたりするあたりそっくりだぜ。ま、おまえにもそのうちわかるさ」
◇
日を置かずして記事の反響はすぐに現れた。
金網越しに練習を見学する、高校野球ファンらしき人の姿が途端に数を増した。特別な実績も歴史も持たない実郷学園としては異例のことだ。
彼らの目的は明らかにナツのバッティング練習だった。
ナツがケージに入り、快音を響かせるたびに「おおう」などとどよめきが上がる。
しかしそんな歓声も耳に入らないほど、タケルは自分の練習に集中していた。ただひたすらに、死に物狂いで野球に打ち込み続けた。
季節は移ろう。
葉が新緑となり、地獄のような猛練習を重ねた合宿の記憶しか残っていないゴールデンウィークを終え、半袖の夏服へと替わり、室内練習ばかりでフラストレーションの溜まる梅雨を迎えた。
そして夏がやってくる。
この頃には実郷学園の注目度はかなりのものとなっていた。
新聞、テレビ、スポーツ専門誌など、ナツを目当てとするメディアがたびたび取材にやってくる。
なかでもよく見掛けたのはやはり新井場記者の姿だった。
すでにナツとタケルは彼と二度目に顔を合わせたとき、「誠意のない記事を書いて申し訳ない」と丁寧な謝罪を受けている。
相変わらずナツは自分がどう取りあげられるかになどまったく興味がなさそうであり、彼女がそういうスタンスである以上、タケルとしてもどうこう言える筋合いではない。
県大会の組み合わせ抽選を翌日に控えた日も、新井場記者は実郷学園のグラウンドへと通ってきていた。
この日は練習前の柔軟体操をしているタケルの姿を見つけるなり、彼は小走りで駆け寄ってきた。
軽く興奮しているというか、いつもとどこか様子が異なっている。
「こんちわっす」
「はあ、はあ、お疲れさん、日比谷くん。魚塚さんは?」
「たぶん着替えの途中かと。もうすぐやってくるとは思います」
息を整え、大仰な調子で新井場記者は言った。
「今日はとても素晴らしいニュースがある」
そしてタケルの反応を待つことなく、ひと息で後を続ける。
「世間の声に押された高野連からようやく特例が認められたんだ。公式戦出場の許可だよ。とうとう魚塚さんに甲子園への道が開けたんだ」
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