第4話 取材

 灰色の分厚い雲が少しずつ空を覆いだしている。

 ナツのも含めて三人分、紙コップに麦茶を入れたタケルが駆け足で戻ってきた頃には、新井場記者によるナツ本人への取材が始まっていた。溝渕カメラマンは離れた場所でグラウンドの練習風景を熱心に撮っているようだった。

 幼い頃と変わらずいまだに人見知りの激しいナツは、初対面の男性に対して仏頂面を隠そうともしていない。

 きっと新井場記者の質問に対しても生返事ばかりだったはずだ。


 タケルが戻ってきたのを認めるやいなや、「早くここに座れ」とばかりにナツがベンチをばしばし叩きだす。

 やや間を空けて腰掛けていた新井場記者は、タケルから麦茶を受けとりながら苦笑いを漏らしていた。


「や、ありがとう。彼女、なかなか手強くてね。やはり君の助けがいるなと考えていたところだよ」


「どうもすみません。昔から打ち解けるのに時間がかかる子でして。今日のところは自分のことをスポークスマンとか通訳みたいに考えてくだされば」


 そう言いながらタケルが二人の間に腰を下ろした瞬間、ナツから狙い澄ました肘打ちが脇腹に入れられる。

 余計なことを言うんじゃない、そういう警告なのだろう。

 思わず呻いたタケルを見て、また苦笑混じりに新井場記者は率直な感想を述べた。


「君たちは仲がいいんだねえ。これはいい意味で言うんだけど、まるで小学生くらいの兄と妹のじゃれあいのような感じだね。高校生っぽくない印象を受けるよ。っと、これはさすがに失礼な言い方だったか」


「いえ、実際そんなものです。魚塚と自分とは幼なじみで、墨井監督に才能を認められて引っ張ってこられた彼女のおまけみたいな形で自分も実郷学園に入れたんですよ。小さな頃からずっと一緒にやってきたのもあって、正直言って昔と何も変わってないですね」


 タケルが口にしたのはいわば模範解答だった。

 女の子が一人、むさ苦しい野球部にいる。それだけで世間には生臭い関係を想像する輩がきっと出てくる。魚塚奈月の可能性をそんなくだらないことで奪ってはならない。くれぐれも己の行動には気を遣うように。

 野球部の中でも、特にタケルは墨井から折に触れてそう言い含められていた。

 つまるところ、「ナツとの恋愛は御法度だ」という意味なのだろうとタケルは勝手に解釈している。


 タケルとしても彼女の足を引っ張りたくはなかった。

 もっとも、それ以前に恋人として対等に付き合うイメージがまったく湧かない。

 例えるならせいぜい天から愛された姫と、彼女に忠実なだけが取り柄の従者といったところか。

 きっと自分たちの関係は世間が言う恋愛の形から遠く隔たっているはずだ。墨井が心配するには及ばない、とタケルは思う。

 たとえ彼の気持ちがどうであったにせよ。


「へえ、幼なじみかい。どうりで魚塚さんが君を頼りにしているはずだ」


「そうでしょうか? いつもいいように使われているだけのような気もしますが」


 二人の関係に合点がいったらしき新井場記者がナツとタケルの顔を見比べている。


「君たちの監督さんからは、魚塚さんと同じ満島出身の子がいるとだけは伺っていたんだよ。それが日比谷くんだったんだね」


 はい、と答えたタケルが、頭の中で昔のどのエピソードから話そうかと組み立てだしていたときのことだった。

 突然、グラウンドに挨拶がこだまのごとく連呼されはじめたのだ。


「こんちゃース!」「ちゅース!」「ちわース!」


 見なくても誰が来たのかはわかる。監督の墨井だ。

 既知らしい溝渕カメラマンとにこやかに一言二言の挨拶を交わし、タケルたちがいるベンチへとゆっくり近づいてきた。

 老体に四月半ばの気温はまだ寒いらしく、漢字で「実郷学園」と横に刺繍された濃紺のグラウンドコートを着込んでいる。

 タケル、新井場、次いでナツの順に立ち上がって墨井を出迎えた。


「お邪魔しております、墨井先生」


 深く頭を下げる新井場記者に対し、墨井は細い目をさらに細め、顔じゅうをしわくちゃにして帽子を取る。


「あーいやいや、こちらこそ新井場さん。顔を出すのが遅れて申し訳ない」


 真っ白な髪をぽりぽりと掻きながら墨井は本題を切りだした。


「ところでうちの秘蔵っ子はどうですか。なかなか気難しいお姫さんでしてね、ワシも苦労させられっぱなしなんですわ」


「自分の世界を持っていて芯が強い、と見受けましたよ」


 さすがに新井場記者はうまく言い換える。

 当のナツ本人は自分が話題になっている会話にまるで興味を示さず、何となしに空を見上げていた。

 そんな彼女の様子を見た墨井は苦笑いを浮かべた。


「万事この調子なんでねえ。女の子というよりは、みんな宇宙人か何かのような扱いをしとるんですよ。で、唯一の窓口がこの日比谷ですわ」


 そう言ってタケルのほうへと顎をしゃくる。


「こいつはこいつで生真面目でしてね。まあワシとしてはええコンビかな、と思っておるんですが」


 一拍おいて、墨井が何気なく質問をした。


「新井場さんはどう御覧になりましたか」


「何と言いましょうか、非常に微笑ましい二人だな、と」


 新井場記者の返事を受け、墨井は再びタケルへと視線を寄越す。その目にどんな意味合いが込められているのかはわからない。

 ぽつり、とタケルの首筋に冷たい滴が落ちてきた。雨だ。

 手の平を仰向けにして墨井が言った。


「雨か。こりゃいけませんな」


 ふーむ、と呟きながら墨井は辺りをぐるりと見渡した。


「寮の談話室、あそこで取材の続きをされてはいかがですか。ほれ、ぼさっとせんと新井場さんたちを案内せい」


 墨井が指定したのは、ナツやタケルのような遠隔地から入学してきた生徒のために学園が敷地内で運営している寮の中だった。

 五十人足らずの野球部員の三割ほどが寮で生活をしているが、他の部に所属している寮生も大勢いる。

 実郷学園は体育系、文化系を問わず総じて部活動の盛んな高校として生徒を集めていた。もちろん、男子と女子の寮は別だ。


 そんな学園にあって例外的に野球部は弱小の代名詞のような存在だったが、四年前に墨井が請われて監督に就任してからは有望な生徒が集まりだしめきめきと力をつけ、県大会八強、四強の常連校にまでなっていた。

 複数の高校を全国に導いた経験を持つ墨井は、還暦を過ぎてなお甲子園への情熱が衰えない勝負師として県内にその名が知れ渡っている。


 少しずつ雨の勢いが増してきた。本降りになるのは時間の問題だろう。寮までの道を先導しようとタケルが足を踏みだしたとき、背中に墨井の声が掛かる。


「おい日比谷」


 不意に呼び止められたタケルはくるりと振り向き、墨井の次の言葉を待つ。


「はい、何でしょうか」


「おまえは練習に戻れや」


 一瞬、タケルは内容を飲みこめなかった。間髪入れずに墨井が続ける。


「下手くそは人の二倍、三倍と練習せないかん。このまま魚塚の金魚の糞でおりとうなかったら死ぬほど練習せえ」


 それは理不尽な罵倒ではなく正当な叱責だった。

 もし夏の県予選においてナツのベンチ入りが認められれば間違いなく絶対不動の軸となる。

 片やタケルはどうか。控え組中心の練習試合に出場する機会はあっても、成績は今ひとつぱっとしない。

 ナツとタケルとではそもそもの立ち位置がまるで違う。

 墨井自らがわざわざ離島の中学校まで足を運び、その実力を目の当たりにして女子であるにもかかわらず入学を口説いたのはナツだ。

 彼女が咲き誇る花ならタケルは雑草か。

 そうではない、とタケルは考えていた。雑草ですらない。道端に転がっている石なのだ。誰かに蹴ってもらわなければ動くこともできない路傍の石だ。


 ナツに追いつこうなどと大それたことはタケルも考えていない。それでも置いていかれないよう懸命に頑張ってきたつもりでいた。

 だが単なる常識的な努力などナツの巨大な才能の前ではまったくの無意味だ。

 彼女の有り余る能力にショックを受け、志半ばで野球を辞めていった者たちをタケルはこれまで何人も見てきた。


 だからといってタケルには「諦める」という選択肢などない。

 どんなに引き離されようと、とっくの昔に後ろ姿が見えなくなっていようと、タケルにはナツを追い続けるしかできない。

 そうしなければきっとナツは世界で一人きりになってしまうだろう。

 たとえそれが自惚れであったとしてもかまわなかった。むしろ自分の行為に疑問を抱いて足を止めてしまうことの方がよほど恐ろしい。

 努力が足りないのであればもっと努力すればいいだけの話だ。意図はともかくとして墨井の言葉はまったく正しいものだった。


「わかりました」


 目を伏せるように会釈をし、タケルは墨井に従った。


「日比谷くん、墨井先生は昔から期待している子には厳しかったよ。頑張ってね」


 タケルが屈辱感に包まれているとでも心配したのだろう、新井場記者がフォローらしきエールを送る。

 新井場記者からやや離れて、不服そうに口を尖らせるナツの表情があった。

 とりあえず今日の取材は彼女自身にどうにか乗り切ってもらうしかない。

 最後にタケルはナツへの念押しをしておく。


「聞かれたことにはちゃんと答えるんだぞ」


 返事をする代わりに、ナツはぷいっとそっぽを向いてしまった。

 墨井にはナツの振る舞いを特に気にする様子もなく、新井場記者に対して意外にも取材のフリーハンドを与えていた。


「では新井場さん、そろそろ生き甲斐ともいえるノックの時間なんでワシも戻らせてもらいますわ。雨の泥に塗れるのもたまにはいいもんでしてな。――魚塚のこと、よろしく頼みましたよ」

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