第3話 ガール・ミーツ・ヤキュウ〈2〉

 グラウンドの守備位置にそれぞれ選手がついていた。

 マウンドの上では気合いの入った洲崎が立っている。そして、今バッターボックスに入っているのはナツではなくタケルだった。

 ナツは野球のことを何も知らない。だから自分が一打席、例を見せたい。

 そうタケルが頼んだところ、意外にも洲崎は快諾してくれたのだ。


「いいぜ。どっちにしろ二人とも三球で終わらせてやるからよ」


 ナツに野球経験がまったくないということも洲崎の自信を後押ししているのだろう。

 右打席でタケルはバットをぎゅっと握り締める。

 洲崎は大きく振りかぶり、左足を上げた。合わせてタケルもタイミングを取る。

 投げこまれた球を目掛けてタケルは力いっぱいバットを振り抜くが、無情にも音をたててボールはキャッチャーミットに収まった。


「ストライーク!」


 臨時アンパイアを務めている上級生のコールが響く。

 やはりエースだけあって洲崎の球は速い。いざ打席に立って彼のボールを体感してみると、とうてい自分が打てそうには思えなかった。

 安平ブラックスターズに勝てないのは洲崎が変化球を苦手にしているせいもあるが、それより守備陣がいつも足を引っ張っているのが大きな要因だった。


 すごいピッチャーだなあ、と素直に感心していたタケルに対しほとんど間を空けず、テンポよく洲崎は二球目を投じる。

 今度もタケルのバットはむなしく空を切った。

 キャッチャーからの返球を受け取った洲崎がにやっと笑う。おまえごときに打てるわけねえだろ、と言っているかのようだ。


 胸の前でバットを握り直し、タケルはもう一度集中する。そして自分の番を待つナツへと目をやった。ナツもじっとタケルを見ている。

 隣では村上がルールから何からいろいろと教えてくれているみたいだが、ちゃんとナツが聞いているかどうかは定かではない。

 大事なのはタケルが粘って、少しでも洲崎のボールをナツに見させることだ。彼女のセンスを持ってすれば、それだけでもだいぶ違ってくるはずなのだ。


「よしこい!」


 自然と気合いの叫びがタケルの口をついて出た。

 いつものタケルらしからぬ行動に、一瞬洲崎は驚いたような素振りを見せたが、再びマウンド上で不敵に笑う。


「行くぞオラ」


 三球目はさらに力のあるボールだったが、今度はタケルもかろうじてバットに当てることに成功する。

 ふう、とタケルは息を吐いた。

 チームに入ってきてまだ間もないタケルが自分の球に食らいついてきたことがプライドに障ったらしく、洲崎の顔から笑みが消える。

 そうしてすぐさま放られたやや高めの速球には完全に振り遅れてしまった。空振りだ。

 バッターアウトのコールを聞きながら、悔しさのあまりタケルはバットを土に叩きつけてしまう。


「邪魔だからさっさと引っこめよ、日比谷。次だ次」


 余裕を取り戻した洲崎の声に何も言い返せず、タケルはナツの待っている一塁近くの場所へと引き返していく。

 ナツと目が合った。

 何の手助けもできなかった自分が不甲斐なくてタケルは思わず泣きそうになる。そしてたった一言、絞りだすように謝った。


「ごめんね」


「ううん、充分」


 タケルからバットを受け取り、悠然とナツはバッターボックスに向かっていく。

 そのまま彼女が入ったのは左側の打席だった。


「あれ? おい日比谷、あの子は左利きなんか?」


 村上がタケルに尋ねてくる。


「いや、ナッちゃんには右も左も関係ないと思いますよ。お箸を持つ手も気分次第で替えてますし」


「おいおい、天才というのはそういうところもとんでもないな」


 妙に感心している村上をよそに、タケルはナツが迷わず左打席に立った理由を何となくわかっていた。

 たぶん、タケルが右打ちだったからだ。鏡と同じ要領でナツはバッティングがいったいどういうものなのかを観察していたのだろう。

 それだけにたった四球しか洲崎に投げさせられなかったことが、タケルにとってたまらなく悔しかった。

 唇をぎゅっと噛み、タケルは真っ直ぐ前を向く。

 そしてグラウンド中に響くような大声を張り上げた。


「ナッちゃん! 誰も届かないくらい遠くに打っちゃえ!」


 集中しだしているであろうナツは振り返りはしなかったが、右手でバットを高々と掲げることでタケルの檄に応える。


「やれるもんならやってみろ、返り討ちにしてやっからよ!」


 怒鳴り返してきた洲崎がマウンド上で投球モーションに入る。それを見てナツもすっとバットを両手で構えた。

 投じられた初球はストライクゾーンを大きく外れ、ナツの顔面付近を襲う。だがナツはためらうことなくスイングした。

 当たり損ないの打球がふらふらっと三塁側ファウルグラウンド後方へと上がっていく。レフトとサードがそれぞれ追っていったものの、結局は二人とも取れずファウルと判定された。

 これでワンストライク。

 力みか、わざとか。そこのところはわからないが、初めての打席で危ない球を投げられたナツを心配したタケルは急いで彼女に駆け寄った。


「大丈夫なの?」


「いや、ちょっと遅れたし体勢も変になった」


 ナツは明らかにバッティングのことしか頭にないようだった。

 そんなことを心配しているんじゃない、と言ってやりたかったが、それはむしろ彼女の邪魔をしているのと同じだとタケルもわかっていた。

 彼にできるのは黙ってナツを見守るだけだ。


「次、いってくるから」


 そうナツに言われて、タケルはおとなしく元の場所へと戻っていく。

 彼女が再び臨戦態勢に入ったのを確認した洲崎は、二球目もストレートを投げこんできた。

 ここまでタケルの打席も合わせてすべて速球一本で押してきている。苦手な変化球を使わず、力でナツをねじ伏せるつもりらしかった。

 しかし今度はナツのバットがボールを捉えた。

 鋭いライナー性の打球が右に飛ぶ。残念ながら一塁線より右に逸れ、ぼうぼうに草が伸び放題となっている原っぱのなかにボールは消えた。


 一球目とは逆にタイミングとしてはやや早い。ナツとしてもまだ微調整をしている段階なのだろう。

 だが、このままいけばきっと三球目には勝負がつくはずだ。ナツはすでに洲崎の直球を見切っている。

 勝てる、と確信したタケルの横で、村上が独り言のようにぼそりと呟いた。


「もしかしたら洲崎、ここでカーブを放るかもしれんな」


 間の抜けた話だ。その可能性をタケルはまったく考えていなかった。

 カーブを投げるとき、洲崎のフォームはあからさまに変わってしまう。それはタケルから見ても簡単にわかってしまうほどだ。おまけに曲がり幅も小さい。当然ながら、安平ブラックスターズが相手だと通用しない。

 けれどもナツがバッターであればどうか。

 初めて目にする曲がるボールをはたしてナツが打てるのかどうかと問われれば、タケルの答えはノーだ。

 いかにナツとはいえ、野球経験はまだたったの二球だけなのだから。


 七度目のワインドアップモーションを洲崎がとる。

 祈るような眼差しのタケルが注視している先で、気合いの叫びとともに洲崎が投じたのは、これまでと同じく力のこもったストレートだった。

 一瞬の攻防は、金属バットの唸りだけを残して決着した。

 誰の手も届かないほど遠くへ。

 そう願ったタケルの気持ちに応えるかのように、一閃したバットから放たれた打球は空へと向かってぐんぐん伸び続け、やがてセンター後方にあるフェンス代わりの柵の上を越えていった。

 構えからフォロースルーまで、そのすべてが美しい。完璧な光景だった。

 あまりに見事な美しさに、抗うことなくタケルは心を奪われてしまった。


 八月生まれのナツと、九月生まれのタケル。わずかながらナツがお姉さんではあるのだが、彼女は常に気ままな妹のように振る舞ってきた。

 それを受け入れる柔和な兄というのがタケルの役回りだったろう。

 同じ時期に生まれた子供を持つ親同士の付き合いから始まり、気づけばいつだってタケルのそばにはナツがいた。それはとても自然なことだった。

 だからこのときはまだ恋のはじまりに気づかない。


 ベースランニングを知らないナツは、とっくに消えてしまった打球の行方をまだ確かめているかのような姿勢でバッターボックスの中で立っている。

 一方では洲崎が静かにマウンドから降りていた。そのまま足を止めることなくグラウンドから出て行く彼に誰も声を掛けられなかった。

 どうして最後まで直球一本で勝負に臨んだのか。

 そう洲崎に訊ねてみたい気持ちがタケルにはあった。ただ、失意の彼がその問いに答えてくれるとも思えなかった。

 横にいた村上の脇腹を指でつつく。


「監督、洲崎くんが」


「お、おう。わかっとる。わかっとるぞ」


 タケルに促され、ぼうっとしていた村上は慌てて洲崎の後ろ姿を追って走っていく。

 再び視線をグラウンドへと移せば、いつの間にかナツがタケルの方へと顔を向けていた。バットを握ったままで笑っている。

 タケルはゆっくりと歩きだした。それを見たナツがバットを持っていない手で誇らしげにVサインを作る。


「ヤキュウ、楽しいな」


 すらりと伸びた綺麗な指だった。

 ナツよりも少し短い指で、タケルもVサインを返す。

 この先、どれだけ彼女の打つホームランを見ることができるのだろう。そんなことを考えながら、タケルは一歩ずつナツへと近づいていった。

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