第23話 二人の距離
ボールを持って立ち上がったタケルに勝利後の第一声が浴びせられる。
「こんな汚いささやき戦術は初めて見たわ」
あきれを通り越したような洲崎の表情だった。
想定内の反応だったので、タケルも動じることなく答えを返す。
「別におれは本気で告白しただけっすよ。ただ時と場合を考えなかっただけで」
「それがいかんという話だ。何にせよ、魚塚にフォローはちゃんとしておけ。死ぬまで許してくれんかもしれんがな」
「なら、死ぬまで謝り続けます」
「まるっきりストーカーじゃねえか」
そうは言いつつも洲崎だって怒っているふうではない。きっとタケルとナツのこれからを心配して物申さずにはいられなかったのだろう。
何が起こったのかわからない、というようにまだバッターボックスで呆然と立ち尽くしているナツに、タケルは笑顔を浮かべてさわやかに声をかけた。
「というわけだ。この夏はもうちょっとだけおれに付き合ってもらうよ」
仲違いなどどこにもなかったように、すっかりいつもの柔和なタケルに戻っていた。
ぎろり、とナツはタケルに鋭い視線を向ける。
「何であんなこと言った」
もちろんタケルだってこのまますんなりいくとは露ほども思ってはいない。
勝利至上主義のひずみは必ずどこかにしわ寄せがくる。当事者にとって問題なのはそのしわ寄せを凌ぎ切れるかどうかだ。
勝利をひたすらに目指すことに善も悪もありはしない。
あるのはただ方法として有用かどうか、それだけであり、勝利至上主義が否定的な論調で語られるのは多くの場面でその限界を突きつけられるからなのだろう。
この日、なし崩しでキャッチャーを務めてきたタケルはそう考えるに至った。
後はもう個々の美学との兼ね合いであり、タケルにはそもそも己の美学を語れるほどの実力がまだないのだ。
ならば一心不乱に勝利を求め、その報いが何であれ受け切るつもりで臨むしかないではないか。
ナツが離れていくのを黙って見過ごせないのであるならば。
「自分の想いを伝えただけだけど」
しれっとタケルが答える。
洲崎以外にはタケルの告白が聞こえていなかったため、周囲では宮田―日比谷バッテリーの勝ちだと大騒ぎだった。
しかし一人、また一人とナツとタケルのただならぬ様子に気づく者が出始めた。
いったい何ごとかと彼らが近づいてこようとするのを、洲崎が両手を開いて「まだ来るな」と押し留めてくれている。
ナツはといえば、あまりに率直なタケルの言い方にどう反応していいのかがわからないようだった。
一語一句を丁寧にゆっくりと、タケルは彼女に言う。
「おれはナッちゃんが好きで、野球が好きだ。それは小学校の頃から変わらない。もっともナッちゃんを恋愛的な意味で好きだと自覚したのは三年前のあの雨の日なんだけどね」
「……そうなんだ」
「だからおれはこの実郷学園に来た。ここならナッちゃんと真剣に野球ができると思ったから。ルールを変えてやると言い切った監督を信じていれば、もしかしたら甲子園にだって一緒に行けるかもしれないって、そう思ったんだ」
まるで洲崎の投球スタイルのような愚直な力押しだった。
女の子の情に訴える手練手管など何も知らないタケルにはそれしかできない。
「おれはどうしてもこのチームで甲子園に行きたい。でもそこにナッちゃんがいないのは絶対にいやなんだ」
熱のこもったタケルの言葉を、ナツはたった一言に集約させる。
「わがまま」
「そうだろうね。否定はしない」
今までわがまま放題だったナツにそう詰られても、タケルはおとなしく頷いた。
「でもそれがおれの願いだから、わがままだと文句言われたって引っこめたりしないよ。逆に聞きたいけど、ナッちゃんはいったいどうしたいんだ? 本当に鈴鹿と勝負しにアメリカへ行きたいの? おれたちと野球していてもつまらないだけなの? 何がどうなればナッちゃんは満たされるの?」
畳みかけてくるタケルの質問ラッシュに、「うぐ」とナツは言葉に詰まり、子供みたいにそっぽを向いてしまった。
「そんなの急に言われてもわからない」
「じゃあ時間をあげるから考えろよ」
「うるさいなもう。わかったよ、あたしが負けたって認めればいいんでしょ。でも、あんな手が通じるのは今回だけだから」
癇癪を起こしてしまったのか、唇を突きだすようにして憎まれ口をたたく。
ナツはここにきてもまだきちんとタケルに向き合ってくれない。
もしかしたら自分たちはこのまま気持ちがすれ違っていくのか。
そんな不安に突き動かされるように、とっさにタケルはナツの手をつかんでしまった。
「逃げるのもうやめなよ」
「そんなこと言っても、だって」
「だって、なに」
「本当にわからない。自分がどうしたいのかなんて」
ナツのその言葉に嘘はないのだろう。これまでタケルが見たことないほど、彼女は困惑した表情をしていた。
それでもタケルはナツの口からきちんとした答えを聞きたかった。
だから彼女の手を離すことなく、じっと目を見つめる。
「あたしは……楽しくやりたいだけ」
根負けしたようにぽつりとナツが呟いた。
「楽しいときは、体が何かふわっとする。自分が自分じゃなくなるみたいな感じ」
タケルは黙ったまま次の言葉を待つ。
すらりとした長身を縮こまらせ、たどたどしくもナツがその続きを紡いでいく。
「島にいたとき、スザキと勝負しているのは楽しかった。あたしはずっとあんなふうに野球をしていたかった。でも、今日の熊との勝負は気持ちが重かった。さっきのミヤタのときもそう。もう昔みたいな楽しさがなくなってしまった」
「今の打席はおれのせいだ。おれがいろいろと小細工をしたから。だけどそれを抜きにしてもいつまでも昔みたいにはできないよ。だってナッちゃんもおれも、どんどん大人になっていってるんだから」
「そうやってあたしのことを置いていくの?」
ナツは悲しげに目を伏せる。長い睫毛が小さく揺れた。
「置いていくって、それは逆だろ。ナッちゃんがそう言いだしたんじゃないか」
「違う。タケルがあたしとは別の道を行こうとしているんじゃないかって不安がずっと消えてくれなかった。だからあたしもわがままを言ってしまった。どうしていいかわからなくて、どこか投げやりになっていたのかもしれない」
「そんなことしなくてもおれはナッちゃんを置いてどこにも行ったりしないよ」
タケルの脳裏にはかつての七月十七日、雨の降り続く夜に船着き場で眠るナツの姿が浮かんでいた。
「さっきも言っただろ。おれはナッちゃんと一緒にこのチームで野球がしたい。その先のことはまだわからないけど、せめてそこまではおれのわがままに付き合ってくれないか」
タケルはナツの目から視線を逸らさない。
そんなタケルに今度はナツも短く、しかしきちんと応えた。
「約束する」
おまけにそのまま覆いかぶさるような感じでタケルに抱きついてきた。
そして彼女はマスクを被っているタケルの耳元でささやく。
「スズカに勝負を挑むのはもうちょっと後にするから」
それはいずれやるつもりなんだ、とタケルは内心で苦笑した。
だが実現するなら何をさておきぜひみてみたい対戦カードではある。タケルにはナツの可能性を狭めるつもりなどさらさらないのだから。
幼い頃からお互いだけを意識していた二人の気持ちはここでようやく通じ合ったのだが、それを見計らったように声をかけてくる者がいた。
「あのー、お二人さん。お取込み中のようですがそろそろいいかな」
にやにやしている洲崎だった。
ずっと待っていてくれた洲崎をはじめとするこの場の全員にタケルは感謝している。しかし何もこのタイミングで声をかけてくることはないではないか。
そんな自分勝手な恨み節はぐっと飲みこみ、「ナッちゃん、ちょっと」と彼女を押し返すようにして距離をとった。
それからいつの間にか扇形のようになって取り囲んでいる部員たちに向かい「すいません、ベスト4進出を決めた日に自分たちの諍いでみんなを巻きこんでしまって」と頭を深々と下げた。
「いやでも、痴話喧嘩みたいな感じですんで本当によかったよ」
キャプテンである清水が穏便に話をまとめようとしてくれている。
周囲にもタケルたちを揶揄したり糾弾したりといった雰囲気はない。からかってやろうと手ぐすね引いて待っているのはひしひしと伝わってくるが。
つくづくいいメンバーに恵まれたとタケルは感謝する。
そんななか、先ほどまでバッテリーを組んでいた宮田が口を開く。
「これ、結局日比谷とウオッカがちゃんと話をすればよかっただけで、おれの力投は必要なかったんじゃないか」
宮田の言葉は身も蓋もない。
そんなエースをいつもの女房役がなだめにかかる。
「まあまあみーやん、そう怒りなさんな」
「別に怒っているわけじゃない。あれはあれでおれの実になった勝負だったから。これで準決勝も決勝もいつでもこいだ」
「おうおう、うちのエースは頼もしいですなあ」
「茶化すなよ。それよりおまえこそ空元気はよせ。見ていて痛々しいから」
容赦のない宮田に「あん?」と由良が聞き返した。
「おれたちに気を遣ってくれているのはわかるが、自分の高校野球が終わったときくらい泣いてもいいんだぞ。そのほうが可愛げがあるってもんだ」
「バカヤロウみーやん、誰がここでおれの夏が終わったなんて決めた」
「いや、どう考えたって無理だろ」
「んなわけあるか。おまえらが甲子園に出て、しかも勝ち進んでくれればおれは三回戦くらいには間に合うつもりだぜ」
しみちゃんのくじ運次第じゃ初戦からいけるかもな、と松葉杖姿の由良はいたずらっぽく笑う。
宮田は宮田で冷笑を浮かべて言った。
「そのときまでおまえの席があるかな。北条か日比谷かが座っているんじゃないかね」
「ならもう一度奪うまでよ」
仲がいいとか悪いとか、そんな言葉では関係を言い表せない二人のやりとりはまだまだ続きそうだった。
その横では珍しくナツから洲崎に話しかけている。
「これ、ありがとう」
そう言ってナツはお尻のポケットから小さな石を取りだした。
タケルも似たような形の石を同じようにポケットに入れていたのを思い出してそっと触れる。いつぞやに洲崎からもらったお守り代わりの島の石だ。
なのに洲崎ときたら。
「何だこの石は。やけに平べったいな」
お守りとしての効果を疑いたくなるくらい、綺麗に失念してしまっていた。
「それ、洲崎さんからもらった石っすよ。ナッちゃんの分もっておれに預けてくれたじゃないですか」
「そんなもん渡したっけ? 全然覚えてねえや、わはは」
らしいといえばらしい洲崎の返事だった。
そのかわりお礼の言葉がすっかり宙に浮いてしまったナツは、ちょっとばかりむくれてしまっている。
「悪かったって。今日はいろいろと物事がいい方向に動いたんだから、それに免じて勘弁してくれ。それはそうと」
少し離れたところでまだ宮田とやりあっている由良に向かって、洲崎は巻き舌で声を張りあげた。
「おい由良ぁ!」
「はいッ」
さすがの由良も洲崎の前では会話を中断して直立不動である。
洲崎は車のキーを取りだし、人差し指でリングを回しながら由良に告げた。
「行くぞ」
「へ? どこへですか」
「病院に決まってるだろう。早く治してこの夏の間に復帰するんだろうが」
ちゃりちゃり、と車のキーの音がする。
由良の返事を待つことなく歩きだした洲崎は、まだ防具がついたままのタケルの肩を力強く叩いた。
「じゃあな。とりあえず爺さんにはちゃんと報告しとけよ」
わかりました、と頷いたタケルにだけ聞こえるような声で洲崎が言う。
「またおまえたちが揃ってプレーするのを楽しみにしてる」
それから全員に向かって「次はちゃんと差し入れも持ってくるからな野郎ども、おれらOBも甲子園に連れていってくれよ!」と叫んだ。
おおッ、と息の合った歓声がグラウンドにこだまする。
それが合図になったのか、プレハブの監督室から小さな人影が姿をみせた。
「ナッちゃん、おいで」
洲崎に挨拶をすませたタケルとナツは、その小柄な老監督の元へとゆっくり歩み寄っていく。昔のように自然と手を繋いで。
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