第24話 そして夏は続く
夜が明けると、ナツは正真正銘のスターになっていた。
地元紙のみならず、どのスポーツ紙も「怪物少女魚塚」の文字、文字、文字。
あの将野隆宏を打ち砕いたとあってはその騒がれ方も無理はないが、タケルとしてはやはり不安な部分が大きい。
だが、いずれこういう日がやってくるのはわかっていたことでもある。
練習グラウンドにはいつもの取材陣、新井場記者と溝渕カメラマンのような人たちだけでなく、これまで見かけたことのない顔も朝からたくさん押し寄せていた。
そのいわば矢面に墨井が立ち、練習の見学はかまわないもののナツ本人への取材は不可だと丁寧に説明し続けている。それはもう何度も何度も。
新井場記者も魚塚奈月という才能を守るべく、節度ある取材のためのコンセンサスをまとめようと交渉中だ。
自分たちを野球に集中させようとしてくれている人たちには感謝の言葉しかない。タケルは心からそう思う。そんな人たちへ返せるものは何か。
やはり、野球で返すしかないではないか。
◇
八番キャッチャー、日比谷。
休養日が一日設けられたあとの炎天下での準決勝で、タケルは本来の控え捕手である北条を差し置いてスターティングメンバーに名前を連ねた。
さぞ北条は落ちこんでいるだろう、と思いきや意外にそうでもない。
軽い調整のような練習を行っていた昨日のことだ。きっかけは何の気なしにナツが口にした一言だった。
「ホージョーは何でピッチャーをやらないの」
それは密かにタケルが考えていたことでもある。
ただ北条本人が強い捕手志望だったのもあり、口にするのがはばかられていたのだ。もちろんそんな逡巡は彼女にはない。
北条がどんな反応を見せるか、少しはらはらしながらタケルは見守っていたのだが、思いのほか彼は前向きな様子でナツに訊ねていた。
「え、おれってピッチャーに向いてる?」
こくりと首を縦に振ったナツは「あの熊くらいにならなれる」と続けた。
それからはもう、ずっと気にかけていたタケルが「心配して損した」と言ってしまうくらい、北条はピッチャー転向に乗り気になってしまったのだ。
その案を伝え聞いた墨井も「ふむ、面白い」とあっさり了承し、当面の間北条は投手と捕手の二刀流でいくことで決着した。
現在は一回表、実郷学園の攻撃が続いている。場面はツーアウト二塁、バッターが準々決勝で2本塁打に1三塁打のナツ。
当然のようにキャッチャーが立った。敬遠だ。ナツのバッティングがお目当てだっただろうスタンドからは散発的な野次とブーイングが飛んでいる。
「初回から勝負を避けるか。こりゃあ向こうはウオッカを相当警戒しているな」
無理もないか、と三塁側ベンチの由良が口にする。
松葉杖を近くに立てかけたその由良の周りにはタケルと北条、それに一年生捕手酒見が座って正捕手の言葉に耳を傾けていた。
「由良から配球を学べ」
それが三人への墨井からの指令だった。いわば由良教室である。
「次のしみちゃんに対して、あのキャッチャーはどんなボールから入ってくると思う。ほい北条、答えてみ」
突然の由良からの出題に北条は慌てる。
「えっ、えと、外角への変化球ですか」
「酒見は」
「ぼくも北条さんと同じです」
「じゃあ日比谷」
「あのキャッチャーの配球はたぶん、外角の直球だと思います」
タケルの答えに由良は「おれもそう思う」と同意した。
「北条と酒見の初球の入りはまあ定石だな。だけどバッテリーの頭には一昨日のしみちゃんのホームランがある。あれはカーブを引っぱたいたものだったろ? 加えてストライク先行でいきたい心理も働く。ならここは外の真っ直ぐだ」
そう言って由良は前方へと顎をしゃくった。
「見てろ。しみちゃんはその真っ直ぐを狙ってるはずだから」
はたして由良の予告通り、清水は初球の外角ストレートを逆らわず右へと流し打った。打球はぐんぐん伸びてライトの頭上を越える。
二塁ランナーの久枝に続いてナツもホームに生還し、幸先よく実郷学園は2点を先行した。清水も二塁に到達し、得点圏のチャンスはまだ続く。
「な。言った通りだったろ」
捕手見習いのような三人は「おお……」と揃って頷く。
由良の読みの正確さはもちろんそうだが、同じことを打席の清水もやっていたことに驚かされてしまった。
普段は特に意識することなくともに練習している先輩たちだが、甲子園を夢ではなく現実的な目標として狙うそのレベルはやはり高い。
少し離れたダグアウトの隅では、墨井が珍しく顔を綻ばせていた。
「あやつもこの前のゲームで一皮剥けたのう」
清水に勝負強さが加わればこれはもう、実郷学園打線にとっては鬼に金棒だ。
結局この回にもう1点追加し、3―0と上々のスタートをきった。
そして実郷学園の面々が自分の守備位置へと散っていくなか、マスク以外のキャッチャー用防具を装備したタケルは、一昨日には感じる余裕もなかったスタジアムの大きさに今さらのように圧倒されていた。
こんな場所ではたして自分なんかがちゃんとやれるのか。
そうやって一人タケルがたじろいでいるのに目ざとく気づいた選手がいた。もちろんナツだ。
後ろから背番号18の真ん中あたりをばしん、と強く叩いてきて彼女は言った。
「びびるな。甲子園はもっと広いんでしょ」
確かにその通りだった。なのだが、ナツに指摘されてしまったのは何だか癪だ。
だからタケルはナツの帽子のつばを摘まんで、そのまま前後ろを逆にしてやった。
「ちょっと!」
ナツが怒っているのもかまわず、そのままキャッチャースボックスへと向かっていく。ベンチからは墨井がしきりに「んん、んんッ、んん!」と大声で咳払いをしているのが聞こえてくるが、気づかぬふりで押し通した。
そうはいってもイニングが終わってベンチへ帰れば、きっと「公衆の面前でいちゃつきおってからに! 自重せんか!」と雷を落とされるのだろう。
タケルとナツにそのつもりがなくとも、どうやら周囲からはそう見えているらしかった。
ナツと気持ちを通わせあい、準決勝にはスタメンで出場する。
ほんの数日前のタケルにしてみれば夢のような状況だった。未来はこうなるぞ、と教えてやったところで信じるはずもないほどに。
けれどもまだタケルは満足していない。階段をひとつ上ればまた次の段が待っている、ならば早く次へ。そんな欲望にも似た衝動が彼を駆りたてていた。
いつの間に自分はこんなに欲張りになってしまったのだろう、とタケルは手に持っていたマスクを被りながら自問する。
キャッチャースボックスに立ち、ぐるりとグラウンド全体を見渡した。
ボール回しを行っている実郷学園の守備陣が軽やかな動きを見せている中、タケルの視線はやはりレフトを守る彼女にいき当たってしまう。
ナツがセンターの選手とキャッチボールをしている、ただそれだけの姿でさえタケルの目には特別輝いているように映った。
ああ、そうだ、とタケルは思う。立ち止まって迷ったり考えこんだりしている時間は自分には与えられていないのだ、と。
全力で走り続けていなければすぐに彼女に置いていかれてしまうのだから。
タケルにできるのは息が止まるまでナツを追いかけていくことだけだ。
投球練習のため腰を落としたタケルのミットに、宮田の投げたボールが小気味いい音を鳴らして飛びこんでくる。
その痺れる感触がタケルの頭の中から雑念を消した。今は野球だけでいい。
「ナイスボール! この調子でいきましょう!」
そう声をかけて返球したタケルに、宮田はまた力のこもった投球で応じる。
三塁側ダグアウトからは由良や北条たちの熱の入った応援が間断なく耳に届いていた。仲間たちの声とボールがグローブに収まる音、聞こえるのはそれだけだ。
ようやく投球練習も終わり、相手の一番バッターが打席へと入ってくる。
ぽん、とタケルはミットを軽く叩いてサインを出す。拒むことなく宮田は小さく首を縦に振った。
球審から「プレイ!」の声がかかり、落ち着き払った実郷学園のエースがこの日の第一球を右横手から投じた。
やたら青い夏空の下、白球の縫い目までもがはっきりとタケルには見えた気がした。
タケルとナツ、それに実郷学園の熱い夏はまだ終わらない。
スラッガーな彼女は甲子園の夢を見るか 遊佐東吾 @yusa10
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