第22話 キャッチャー・イン・ザ・ダイヤモンド〈2〉

 スパイクの歯が土を噛む感触を楽しめるくらいゆっくりと、ナツをより焦らすようにタケルはキャッチャースボックスへと歩いていく。

 すでに午後五時を回っているとはいえ、夏の日はまだ高い。

 腰に手をやってバッテリーの二人が所定位置につくのを待っている洲崎の顔にもかなりの汗が噴き出ていた。


「お待たせしました」


 丁寧に頭を下げ、タケルは時間をとらせたことを洲崎に詫びる。あくまで洲崎にだけ、である。

 そして静かに座りすぐ宮田へサインを出す。

 二球目以降はその前のボールとナツの狙いとを考慮して、それぞれの状況に応じた樹系図のような配球パターンを宮田、由良、それにタケルの三人で話し合ってきた。

 だが初球だけはもう決まっている。

 その選択に由良は難色を示したが、自分の直感とこれまでナツをずっと見てきた眼とを信じたタケルが、先輩に無理を通す形で押し切ったのだ。


「タケルがあたしに牙を向けるっていうなら、あたしは容赦なく叩き潰すだけだから」


 視線は動かすことなくナツがわざわざそんなことを言ってきた。

 これはタケルへの挑発というよりも、むしろ自分への弁解とみるべきだろう。

 幼なじみ相手に勝つのはさすがの彼女もどこが気が引けているのかもしれない。たとえそうであれ、ここまできた以上はお互いに全力を尽くしてぶつかるしかない。


「誰も自分に勝てないってのは思いあがりだってこと、ちゃんと教えてやるよ」


 タケルがそう口にした直後、宮田が右サイドハンドから一球目を投じた。

 数ある球種の中からバッテリーがチョイスしたのは緩いチェンジアップだ。しかもコースは内角。

 一歩間違えればこのボールで勝負が終わってしまうかもしれない、危険な賭けではあった。

 しかしタケルにはもちろん成算があっての組み立てであり、その目論見通りにナツは初球から振り回してきた。


「なめんな!」


 的確にナツは真っ芯で捉えた。が、タイミングがかなり早い。

 痛烈な打球は最初からそれとわかる大きなファウルとなって、ライト線右へとドライブして切れていく。

 これでまず一つ目のストライクはとった。

 怒りであれ何であれ、過度の感情の波は精密な動きを狂わせる。ナツほどのバッターでも例外ではない。

 最初の難関である初球の入り方という壁を越えて、タケルはナツに悟られないよう静かに息を吐きだした。読みが的中したとはいえ、あそこまでジャストミートされるとさすがに心臓に悪い。

 そんなタケルに球審役の洲崎が声をかけてきた。


「今のは誰の提案だったんだ」


 黙って右手を上げたタケルに、「ほう」と洲崎は感心したようにうめく。


「やっぱりおまえにはキャッチャーの素質があるわ」


 となると見出したのはおれってことになるな、と笑っている洲崎にナツが「審判なら無駄口たたかずに公平にして」と食ってかかってきた。

 こんなに神経過敏になっているナツも珍しい。

 勝負に必要だったとはいえ、そうさせたのが自分であることにタケルは無自覚ではいられなかった。決着がどうなろうともきちんと彼女と話をして向き合おう。そう心の中で決めていた。


 そんな罪悪感を抱えながらもタケルの頭はきちんと回っている。次の宮田へのサインは外角へのストレート。ただし、ボール一個半は外へはずして。

 タケルの緻密な要求に応えるだけの制球力が宮田には備わっていた。

 三年生でいちばん走りこんできたのは誰か、そう問われたら全員が宮田だと返答するだろう。

 彼もまた凡庸な原石を必死の努力で磨き上げてきた類いの人間だった。

 その宮田の右腕がしなる。寸分違わず、タケルが構えていたミットにキレのある直球が収まった。

 しかしナツは誘いに乗ってこず、悠然とボールを見送る。これでカウントはワンボールワンストライク。


 ナツの天性ともいえる長打力は当然ながら脅威だが、攻略するにあたってそれよりタケルが厄介だと認識しているのが彼女の「眼」だった。

 あの将野だってナツがボール球に手を出してくれればあそこまで打ちこまれることはなかったはずだ。それを見切られたのが彼の敗因の一つといっていいだろう。

 いかにカウントをフルに活用しながらこちらの土俵で勝負できるか。そこにタケルは全神経を傾けていた。


 三球目には宮田のウイニングショットであるシンカーを要求する。今度は逆に外角ぎりぎりより少し内側、そこから外へ沈んでいくような軌道で。

 だが宮田の手を離れたボールは思いっきり右打席の上へとすっぽ抜けた。

 タケルは必死に飛びついて何とかキャッチしたものの、そのまま受け身も取れず地面でしたたかに体を打ちつけた。


「あ……」


 不意にマスク越しのタケルの視界に、一瞬心配そうに眉を寄せたナツの顔が飛びこんできた。すぐに能面のような無表情へと戻ってしまったが。

 幸い、タケルの体はどこにも異常はなかった。

 今までどれだけ練習しても怪我らしい怪我をしたことのないタケルは、おそらくは本人が思っている以上に頑丈にできている。

 マウンドから降りてこちらに歩いてきかけた宮田をタケルは手で制し、打った左腕をぐるぐる回して何ごともないのをアピールする。


「おまえも心配してんなら声ぐらいかけてやりゃあいいじゃねえか」


 そうナツに洲崎が声をかけているのがタケルにも聞こえてきた。

 洲崎さんそれは、とタケルが割って入るより早く、ナツがバットを地面に叩きつける。


「スザキ、うるさい。気が散る」


 そう言ってにらみつける彼女の目はひどく刺々しい。

 にもかかわらず洲崎に気にした様子はない。


「へーへー」


 とナツの神経を逆撫でするような返事をしながら肩をすくめる。

 こういうところは社会人になっても昔と変わらず大人げない。もっと言えば小学校時代から変わっていない。

 ちっ、とこれ見よがしな舌打ちをしてナツはバットの先端についた土を払う。

 そしてグリップを両手で握り、胸の前に手を持ってきてそのまま額をこつん、とバットに当てた。

 どうにかしてナツは波打つ気持ちを立て直そうとしている。逆の立場からいえばタケルたちにとってはその前にケリをつけたい。


 二球続いたボールでカウントはやや不利になった。

 次はストライクがほしいところなのだが、落着きを取り戻そうとしているナツならばきっとそこを狙ってくる。

 事前の打ち合わせにはなかった、連続のシンカーをサインとして出す。コースも先ほどと同じ。宮田はわずかに間を置いてから首を縦に振った。

 投じられた四球目のシンカーはまさにタケルが要求した通りのボールだった。少しイメージと異なったのはより外に大きく沈む変化をみせたことだろう。

 ナツにはまだ気持ちの焦りがあったのか、振りだしのタイミングが少し早い。

 冷静に見極められればスリーボールと非常に苦しくなった場面だが、彼女のバットは珍しく空を切った。それだけこのシンカーがいい球だったということだ。


「くそっ」


 悔しそうに顔を歪めるナツを見て、タケルは間髪入れず次のサインを送る。

 一球目と同じチェンジアップだが、今度は外へ。ここもストライクゾーンに入れる必要はない。

 宮田がセットポジションをとってすぐ五球目を放る。

 慌てて構えたナツは手を出しかけて、しかしどうにかぎりぎりのところでバットは止まった。

 洲崎の判定はボール。これでカウントはスリーボールツーストライクのフルカウントになる。

 宮田とタケルのバッテリー、打席のナツ、双方にもう後がない。

 だがここまではおおむね事前の計算通りだった。


「ツーストライクまで持ってきてくれれば、ラスト一球はおれがとります」


 勝負へと向かう直前、宮田と由良にタケルはそう言い切っていた。

 ボール球が一球余計ではあったが、ナツが相手なのを考えればこれ以上は望むべくもない。

 それに宮田の制球をもってすれば最後のボールはきっとストライクゾーンにくる。

 初球以外は四球連続で外、それもすべては次の勝負球を生かすための策だ。

 ナツが長打にする率は最も高いが、凡退する率もやはり最も高いであろうインコース。そこを勇気を出して突く。

 マウンド上のプレート、その右端を踏んで左打者の内へと対角に投げこむクロスファイアーで。

 サイドハンドの宮田が投じるクロスファイアーは、左打者にしてみればいちばん遠い場所から自分の体目掛けて投げられている感覚になる。

 ずっと外への意識づけをされてきたナツが対応できるかどうか。


 それでもタケルがよく知るナツならば、こんな局面でも苦も無く打ち返すだろう。さも当たり前のような顔をして。

 だからこそタケルは恥も外聞もなく勝ちにこだわる。


「なあナツ」


「なに」


 黙ってろ、とは彼女も言わない。

 マウンドでは宮田がすでに上体を沈みこませていた。

 少し遅れて右腕がやってくる。そしてボールがリリースされる、その直前。

 タケルは積年の想いをはっきりと口にした。


「ずっと好きだった。これからもおれと一緒にいてくれ、ナッちゃん」


「──!」


 声にならないほどナツは動揺する。

 間隙を縫うように宮田のクロスファイアーが内角を抉ってきた。

 いつもであれば門番のように立ちはだかるナツのバットもこのときばかりは不在、キレのいいストレートが易々とタケルのミットへと吸い込まれていった。

 洲崎の右手が上がり、勝負の終わりが高らかに告げられる。

 ストライク・バッター・アウト。

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