第21話 キャッチャー・イン・ザ・ダイヤモンド〈1〉
ぱんぱん、と手を鳴らしながら急きたてる声がする。
「おらおら、日が暮れちまうぞ。とっとと動かんかい」
Tシャツにハーフパンツ、おまけにサンダルというラフな出で立ちで舞台監督のごとく仕切っているのはOBの洲崎だ。
準々決勝を突破した実郷学園野球部を乗せたバスが学校のグラウンドへ到着するよりも早く、洲崎は後輩たちのリベンジを祝うべく買ったばかりの中古セダンを飛ばして駆けつけてくれていた。
洲崎はすぐにチームの雰囲気が妙であるのに気づいた。
そんな彼に一から十まで事情を説明するのはもちろんタケルの役目だ。
いきさつを聞かされた洲崎は開口一番、「じゃあおれがアンパイアやるわ」と名乗りを上げた。
洲崎にそう言われては誰も反対できるわけがない。
墨井監督はといえば「結果が出れば伝えにこい」とだけ言い残して、グラウンドの外れにあるプレハブの監督室へと引っこんでしまった。
ヘビースモーカーである墨井のことだ、きっと机の灰皿にはうずたかく吸殻が積もっていくのだろう。
ナツとタケルの会話は通路をはさんで座っていた車内でもややエスカレートし、今から行われる勝負の結果次第ではナツは退部の運びとなっていた。
「高校野球はもうやめて、アメリカ行ってスズカと勝負してくる」
どんどん機嫌を損ねていったナツの最終的な要求がこれだ。いつの間にか太平洋まで渡ってしまっている。
彼女の性格上、いったん言いだしたら聞く耳を持たない。
「ねえ、まだなの」
渦中の張本人はいたって涼しい顔で、土のついた試合用のユニフォームのままタケルたちを待ち受けている。
対戦形式はこれまで彼女が無敗を誇る一打席勝負。キャッチャーを務めるのは挑戦者のタケル、そしてピッチャーには自ら名乗りを上げたエース宮田だ。
宮田はすでに先の試合で百二十球以上を放っていたが、納得のいかないピッチングだったのをどうしても払拭したいのだという。
それがエースとしての責任だ、と。
洲崎とナツと、二人からのプレッシャーを受けながらもタケルは宮田、それに怪我をした正捕手の由良と入念に打ち合わせを行っていた。
由良はこの勝負の結末を見届けてから病院に向かう予定だ。
「だいたいこんなパターンでいけるだろ。ま、あのウオッカが相手じゃおれのアドバイスなんて気休め程度だけどな」
らしくない苦い表情を由良が見せている。
「まさか将野に同情してしまうとは思ってもみなかったわ」
「まったくだ。あいつとは練習試合のときに投手談義をしたことがあるが、あの図体で意外なくらい繊細な奴なんだよ。今日はたぶん眠れないだろうな」
宮田も由良に同調して頷いた。
「ちょっとちょっと、二人ともえらく弱気じゃないですか。これからその将野さんを木っ端微塵にしたナツとやりあうってのに」
すでに全身の防具をまとい終えているタケルからの抗議は「うるせえよ」と由良から切り捨てられる。
「それよか日比谷、ウオッカを煽った落とし前はきっちりとつけてもらうぞ。みーやんはどうにか二つストライクをとってくれるはずだから、残った三つめはおまえが何としても奪えよ。何かしら策はあるんだろ、いーや、ないとは言わせねえ。あのウオッカに勝ってやるって大見得を切ったんだしな」
「う、そうなんですけど」
確かにタケルはナツに対して「必ず抑えてやるから」と宣言した。みんなの目が集まって逃げ場のないバスの中で。
「日比谷、おれは別に弱気にはなっていないさ」
こちらはいつもと変わらぬポーカーフェイスで宮田が言う。
「チームが崩壊の危機にあるって瀬戸際なのに不謹慎だが、ウオッカと本気の勝負ができるのは楽しみで仕方ないんだ。こんな機会、滅多にあるもんじゃないからねえ」
そんな宮田の発言を受けて、由良があきれたようなため息をついた。
「これだからピッチャーって人種はタチが悪い。リスクヘッジを旨とするキャッチャーの哲学とは相容れんぜ」
「そこはほら、暴れ馬を御するがごとく、だ。そうやってバッテリーって関係が成り立つわけで。というわけで頼んだぞ、女房役」
タケルはぽん、と宮田に肩を叩かれた。
由良ではなく自分がエースの宮田をリードする、そんなことは昨日までのタケルなら考えつきもしなかっただろう。
責任は重大だが、宮田のよさを目いっぱい引きだして初めてこの勝負が成り立つ。そこには身震いするような喜びが確かにあった。
ナツを前にして怖気づくのは野球人としての本能みたいなものだとしても、自分の心のコントロールもできないキャッチャーがピッチャーの手綱を握れはしない。
はっきりとした意志をこめてタケルは「はいっ」と返事をした。
「まあいい。どのみちここまできたらウオッカが残るも去るもおまえら次第だからな。腹は括ってるさ。思いっきりやってこい!」
片足立ちになり、景気よく松葉杖を振りあげて由良が二人にエールを送る。
その際に杖の先端がタケルのかぶったマスクをちっとかすめた。
「あ」
「あ、じゃないですよ由良っさん! 本気でびびったじゃないですか!」
「いや、すまん。でもこれで肩の力が抜けただろ? 抜けたって言え」
冗談まじりに凄んでくる由良だったが、タケルの後ろからはもっと本気の、冷水をぶっかけてくるような声がした。
「遊んでるんだったらあたしはさっさと寮に帰りたいんだけど」
待ちくたびれているナツの目つきが険しい。
いつもなら慌ててナツの機嫌をとるタケルだが、このときばかりは違った。むしろ彼女の苛立ちは好機だとさえいえる。
「帰ってもいいけど、その場合こっちの不戦勝ってことになるね。それでよければ」
あえて突き放したような言い方をタケルは選ぶ。
何も答えようとはせずナツは無言のままで打席に入っていったものの、彼女の感情の乱れをその背中が告げていた。
悪くないな、と自分でも不思議なくらい冷静にタケルは思う。これなら打ち合わせ通りの配球でどうにか勝負になりそうだ、そんな予感があった。
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