第20話 準々決勝を終えて
タケルにとって一生の記憶に残るはずだった公式戦デビューは、緊張感もどこへやら、沸騰寸前の激情とともにあっけなく終わる。
「ちゃんと一球ごとにおれからのサインを確認しろよ」
そう由良から念押しされていたはずが、相当かっかきていたせいなのかキャッチャースボックスに座った瞬間に頭から消えてしまっていた。
走っている直球を軸にしてとにかくテンポよく、そして強気に。
結果的には宮田の後を受けてマウンドに上った加藤のよさを存分に引きだしていた。タケルからの返球を加藤が捕ればすぐにまた腰を落とし、サインを出す。
勢いまかせと言われればその通りなのだが、意気消沈した九里谷中央打線相手には功を奏した。
あっという間の三者凡退で、今大会最大の注目カードだった試合は誰もが予想していなかった九里谷中央の八回コールド負けという結果に終わる。
スコアは13―6、そのうちの7打点はナツが叩きだした。
最後は結局打席に立たなかったものの、4打数3安打で2本塁打という文句のつけようがない成績だった。
両チームが並んで試合終了後の礼をした際、誰よりも長く頭を下げていた将野隆宏の姿はタケルの目に焼きついた。
審判に促されるまで顔を上げようとしなかった彼は、これから長い時間をかけて粉々に砕かれたプライドを拾い集めていかなければならないだろう。
だがタケルにいわせれば何のことはない、ナツが凄すぎるだけのことだ。
そして、その剛腕将野を遥かに凌駕する怪物たるナツを、これからタケルは抑えなければならない。無論、キャッチャーとして。
タケルが挑戦状を叩きつけた際、真っ先に反応したのはエースの宮田だった。
「なら日比谷、バッテリー組むぞ。ウオッカがバッターで一打席勝負、ヒット性の当たりを打たれたらこっちの負け。で、かまわないよな」
淡々と話を進めていく宮田に、タケルも「あ、はい。それで」と返すのがやっとだ。
どういうわけか、イニングの当初はあれほど饒舌だった墨井監督が重く口を閉ざしたまま何の反応も見せない。
木彫りの仏像のように達観したその横顔は、いずれこうなるとあらかじめ知っていたようにさえ思えてしまう。
墨井が何も言わないとき、それはこの実郷学園野球部にあっていつでも「おまえたちに任せる」という意思表示であった。
宮田とタケルのやりとりを黙って聞いていたナツは小さく首を傾げる。
「二人とあたしとじゃ勝負にならないよ」
それは決して侮るような調子ではなく、心底不思議そうな言い方だった。
そんなのはもちろんタケルだって百も承知だ。
勝負はやってみないとわからない、世間ではよくそういう言説がまかりとおっているがそんなのはただの建前でしかない。実際にはやる前からすでに決着している勝負なんてそこらじゅうにごろごろ転がっている。
タケルが挑もうとしているのも間違いなくその類いだった。
だからといって弱い奴が最初からあきらめていたのでは万にひとつの勝機だって見つけられはしない。
ナツをどうやって崩すか、そのことで頭がいっぱいになっているタケルは、顔なじみである新井場記者に「おめでとう、日比谷君」と声を掛けられても、最初は気づかず通り過ぎようとしてしまったほどだ。
実郷学園野球部はそれぞれが荷物を抱え、薄暗い球場内の通路を一列になって歩いていた。新井場記者はその通路脇に立っていたのだ。
新井場記者をあわや無視してしまう形になりかけたとき、すぐ後ろにいた三津浜から蹴りが飛んできた。
「日比谷おめー、魚塚のことで世話になった記者さんをシカトするなんざえらくなったもんだな」
タケルがナツに向かって持ち主の許可なく勝手に投げつけたバッティンググローブは三津浜のものであり、そのせいで先ほどから風当たりがきつい。
はっとわれに返ったタケルは、慌てて新井場記者と三津浜の二人に「すいませんすいません」と頭を下げる。
いやいや、と手を横に振る新井場記者は気にした様子もない。
「それよりいったいどうしたんだい? とてもじゃないが本命相手に番狂わせを──おっと失礼──こほん、逆転劇を演じたにしては表情がいささか暗いね。自分自身、出場機会をもらえたうえにきちんと役割も果たしたというのに」
何でもない世間話をするように、タケルの顔が冴えないわけを新井場記者がそれとなく訊ねてくる。
しかしタケルは相手が新聞記者であることを忘れてはいない。
特にナツのことに関してはうかつに口を滑らせるわけにはいかなかった。
「むしろ勝負はこれからですから」
慎重に言葉を選んでタケルは答える。
新井場記者は自分のなかで勝手に解釈してくれたようで、「なるほど、甲子園出場がこれで決まったわけではないからね」としきりに頷いていた。
「さすが墨井先生の薫陶を受けているだけのことはある。確かに、難しいのはむしろここからだろうな」
そう、ここからが本当に難しい。
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