第13話 墨井監督、島へスカウトにやってくる〈2〉

「おお、似合う似合う」


 渋々ながらキャッチャーの防具一式を身に着けたタケルにナツが褒め言葉をくれた。

 そりゃどうも、とタケルは気のない返事をする。

 はっきりいって洲崎の速球をきちんと受け止められる自信はない。それでも先輩から直々の指名を受けた以上は責任を果たさなくてはならなかった。


「じゃあナッちゃんも早く打席に入って」


「うん。相手がスザキならちょっとやる気出る」


 洲崎はといえばすでにマウンド上で準備万端といった雰囲気だ。

 肩を怒らせ、視線を落として自分の世界に入りこんでいる。

 これは洲崎にとって本物の真剣勝負なのだ、タケルがそう理解するのに時間はかからなかった。

 もちろんこれまでも真剣だったはずだが、今日はその度合いが違う。ならばタケルも相応の態度をもって臨まねばならない。

 決まりごとの確認をするため、タケルはマウンドに駆け寄った。


「サインはどうしますか」


「いらん。魚塚相手にはすべて直球勝負だ」


 コースはおまえに任せるよ、と洲崎がグローブでプロテクターをつけたタケルの胸のあたりを叩く。

 頷いたタケルは守備位置へと戻り、ホームベースの後ろで腰を落とした。軽めの投球練習をすませてから、その後方には臨時のアンパイアとして墨井が立つ。


「なかなか綺麗なキャッチングをしとるな。これなら心配なさそうだ」


 墨井はタケルにそんな言葉をかけてくれた。


「どうも、ありがとうございます」


 かがんだままでタケルはお辞儀をしたが、慣れない防具のせいでどうにも動きがぎこちない。

 これからいよいよナツがバッターボックスに入ってくる。

 二度、三度と素振りをしている彼女を目の当たりにした墨井は「ほう……」と感嘆の声を漏らした。

 それはそうだろう、とタケルは自分が褒められたときよりも嬉しく感じた。

 ナツのスイングは音がまるで違う。バットではなくもっと鋭利な他の何か、たとえば刀で空気を切り裂いているような、そんな音がするのだ。

 白線のない左打席にナツが足を踏み入れた。


「よろしくね、タケル」


「お互い手加減なしでいこう」


 ナツにも自分にも気合をこめるようにぽん、とタケルはミットを叩いた。


「プレイボール!」


 墨井の発声とともに振りかぶった洲崎の投球を、緊張の面持ちでタケルは待ち受ける。

 だが「待つ」というほどの時間はかからなかった。内角低めに構えていたミット目掛けてスピンの利いた綺麗なストレートが飛びこんできた。


「ストライーク!」


 勢いよく墨井の右手が上がる。ナツのバットは動かない。

 タケルからの返球を受けながらマウンド上の洲崎はにやりと笑っていた。

 その顔は「どうだ、コントロールがよくなっただろう」と言っている。

 どちらかといえば荒れ球気味ながら馬力で押すタイプだった洲崎の予想を裏切る制球に、タケルは彼が積み重ねてきた実郷学園での修練の日々を思う。

 と同時に「自分もそこへ行けばもっと上手くなれるのだろうか」、そんな気持ちにさせられた。

 ほんの一歩でも半歩でもいい、ナツに近づけたら。


 二球目、またもタケルは内角低めに構える。

 ナツには弱点らしい弱点はない。

 ただこれまで誰よりも彼女の打席を見てきたタケルにすれば、「比較的打ち取られる確率の高いコース」がナツにだってあるのを知っていた。

 そこを踏まえての内角攻めだ。凡打になったケースでは総じてナツは内角の球をさばききれずに──という印象が強い。

 付け加えるなら、柵の向こう側へ放りこんだコースも内角が多かった。要するにハイリスク・ハイリターンな攻略法である。


 洲崎が投じた二球目のストレートに、ナツも今度は素早く反応した。

 しなるようなバットのヘッドはしかし、わずかにタイミングが合わず後方への鋭いファウルとなる。必死に伸ばしたタケルのミットは届かず、墨井も慌てて飛んできたボールを避ける。

 ナツはバットを右肩に担ぎ、左足で足元を均す。

 それからグリップを両手で握り、体の正面でバットを立てて呟いた。


「うん、面白い」


 いい集中だ、とマスク越しのタケルの目が彼女の様子を観察する。

 この状態のナツを抑えるのはちょっとやそっとじゃ難しい。タケルは三球目の選択をどうするか迷っていた。

 ストライクゾーンからわずかに外れるくらいの外角か、三球勝負で今度はインコースの高めを突くか。

 わずかな逡巡ののち、タケルは勝負球は四球目のインハイと決めた。なので三球目はその対角である外角低めのややボール球を洲崎に要求する。

 低く、低く。自分の姿勢に配球の意図を込め、大袈裟でなく地面すれすれにタケルはミットを構えた。

 ゆったりとしたワインドアップからの洲崎の三球目、外寄りのボールはタケルの狙いとは逆に大きく高めにはずれた。


「があっ」


 己のコントロールミスを責めるように洲崎がプレートの辺りを蹴りあげる。


「どんまいっす」


 一声かけ、タケルはふわりとした球を投げて返す。

 ただこれで次のコースの選択にまた迷いが生じた。

 そのまま内角高めで勝負するか、それとも外角高めにはずれた前のボールを考慮して内角低めを再び攻めるか。

 そんなタケルにあるイメージが浮かんだ。インハイを要求したものの、洲崎の球がまた逸れてナツの頭部に直撃する不吉なイメージ。

 その想像の中の彼女は倒れこんだまま起き上がれないでいる。


 自然とタケルのミットはナツ寄りの内角、低い位置に構えられていた。

 洲崎は首を横に振ることなく、また大きく振りかぶる。そうして投じられた四球目は糸を引くような見事なフォーシームのストレートだった。

 要求通りのコースに決まろうとするその寸前、タケルの目には金属バットのメーカーロゴが残像として見えた。

 ナツが上手く肘を畳んだフォームで内角低めの厳しいボールをジャストミートしたのだ。

 振り切ったまま静止しているナツ、マスクを跳ね上げたタケル、マウンドの洲崎、そしてアンパイア役の墨井の四人はただ弾道の行方を見つめていた。

 本来であればライト線が引かれているそのはるか上、通常ならどれだけ飛んでもファウルゾーンへと切れていくはずの打球が、無風にもかかわらず右からの風に押し戻されるようにフェアゾーンにある体育館壁面を直撃した。


 ははっ、と最初に笑い声をあげたのは洲崎だった。


「ありえねえな……」


 信じられない、というように何度も首を傾げながらゆっくりとマウンドを下りてくる。

 タケルは急いで洲崎に駆け寄った。


「申し訳ないです。本当にすみません」


「何でおまえが謝るんだよ。打たれたのはおれだ。しかもこれ以上ないってくらい完璧にやられたわ」


「違うんです。洲崎くんの四球目は最高のボールでした。本当はあれをインハイに要求するつもりだったんです。でも──」


 さらに続けようとするタケルを、洲崎は広げたグローブをタケルの顔全体に押しつけるようにして遮った。


「いいんだよ。確かに今のボールはおれの野球人生のなかでも指折りだったと思うぜ。それでもまだあいつにゃ通じなかった、それで十分だ。これからの練習にまたさらに熱が入るってもんだよ。だからつまらねえことは気にするな」


 そのまま洲崎がぐりぐりとグローブを撫でつけ、思わずタケルは言葉に詰まる。

 タケルにしてみれば洲崎は自分と違って確かな野球の実力を備えている人だ。いずれプロ入りだって狙えると周囲も噂している。

 それほどの人がどれだけナツに打ちのめされてもあきらめることなく己を鍛え続けているのだ。そこに熱いものを感じるなというほうが無理な話だった。

 そんな二人の後方では墨井がナツに口角泡を飛ばす勢いで語りかけていた。


「いや、これは。いや、すごい。何じゃ今のは」


「なにって、なにが」


「どうやって打ったのか、どういう意図でスイングしたのか。とりあえず何でもいいから聞かせてくれい」


 鼻息も荒くナツに詰め寄る墨井と、それに対し若干迷惑そうに体を引いているナツ。見ようによっては危ない構図だ。

 面倒くさそうにバットを持ったまま墨井に背を向け、それでも一言だけ彼女は答えた。


「切れないように回転をかけたから」


 造作もないことのようにナツは口にする。

 だが、それをできるだけの技量を備えた選手がプロまで含めた野球界にいったいどれほどいるというのか。


「あの洲崎のボールを狙ってフック気味に打ったっちゅうんか……」


 墨井が驚愕するのも無理はなかった。

 しかし打った当の本人にはその凄さが理解できていないのだから、二人の会話が温度差のある噛みあわないものになってしまうのは当然だ。

 興奮冷めやらぬといった体の墨井は洲崎に向かって大声でまくしたてる。


「おい洲崎、ワシは決めたぞ。この子を何としても連れて帰る」


 墨井の熱弁は止まらない。


「女子だとか公式戦に出られんとかそういうことはどうでもいいわい。そんなもんはあとでなんぼでも変えさせてやったらええ。こんな宝をしょうもない理由でみすみす見逃してしまっては野球の神様にバチを当てられてしまうわ」


 身振り手振りを交えていたせいで、話し終えた墨井は息が上がっている。やや大仰な物言いではあったが、彼の本気度はタケルにはきちんと伝わった。

 ただ本命に届いたかと聞かれればはなはだ心許ない。


「ナッちゃん」


 名前を呼ぶタケルの声で、興味なさそうに背を向けたままだったナツがようやく仏頂面を三人に見せた。


「ナッちゃんはどうしたいの」


 静かにタケルはナツに問いかける。

 これは彼女が自分の意志で決めなければならない事柄だ。周りが強制したり否定したりするべきではない。

 タケルは信じている。ナツならば自然と気持ちが固まった道が正解なのだろうし、彼女にはそうしてしまうだけの力があると。

 そんなタケルの気持ちを知ってか知らずか、ナツは考えこむ素振りもみせずあっさりと返事を口にした。


「別に高校なんてどこでもいい。けど」


「けど、何じゃ」


 前のめりな墨井がナツの答えを急かす。


「タケルが一緒じゃないなら行かない」


 ナツのその言葉を聞いてタケルが嬉しくなかったといえば嘘になる。

 墨井のように純粋に実力だけを評価してくれる人がいる学校ならば、ナツさえ望めばどこへだって行くことができるだろう。

 だがタケルの実力ではそうはいかない。テレビの画面越しにみる甲子園なんて夢のまた夢でしかない場所だ。

 そんな舞台にナツと立っている光景が不意に現実感を伴ってタケルの脳裏に浮かぶ。

 幼なじみの少女のおまけ、抱き合わせ商法、バーター。

 もしナツと一緒に実郷学園に入学することができたとしても、そんな陰口はこれまでと比較にならないくらいひどくなるかもしれない。

 しかし、たとえそうでもタケルはかまわなかった。

 優先させるべきはナツと同じチームで野球ができることであり、待ち受ける屈辱は彼にとって当然の代償だった。

 だってタケルにはナツほどの力がないのだから。シンプルな理屈だ。

 だからタケルは目の前にいる墨井に何のためらいもなく申し出る。


「墨井監督、失礼なお願いとはわかっていますが、自分にもセレクションを受けさせてください。どうしてもナッちゃんと同じ学校で野球がしたいんです」


 今日であれいつであれ、自分なんかのテストをしてくれると墨井が言えばそれだけでタケルにとっては御の字だ。

 あとはその千載一遇、いや万にひとつのチャンスに己のすべてをぶつけるのみ。

 ふーむ、と唸った墨井は少し考えこんでいる。

 ナツとタケルの顔を交互に見比べる墨井に、洲崎が「こいつの先輩としてちょっといいですか」と発言の許可を求める。

 特に推薦というわけではないですが、と彼は前置きしてから言った。


「監督も見ての通り、日比谷は急にキャッチャーをやれと言われてもこなせるくらいに器用ですし、それに向上心もガッツもある。主力になれるかどうかはともかく、うちのチームに必要な人材だとおれは思いますよ」


 推薦どころかありがたいほどの猛プッシュだ。

 もしかしたらここまで見越して洲崎はタケルをキャッチャーに指名してきたのかもしれない。

 そう思ったタケルは軽く、しかし心をこめて洲崎に頭を下げる。

 それから墨井が結論を出すのにさほど時間はかからなかった。


「セレクションは必要なかろう」


 え、とタケルは一瞬目の前が真っ暗になった気がした。

 だが墨井の言葉には続きがあった。


「魚塚さんだけじゃなく日比谷くんもうちに来ればええ。ただし、練習は厳しいからそのつもりで覚悟はしておくんじゃな」


 この瞬間、魚塚奈月と日比谷建の実郷学園入学が決まったのだ。

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