第12話 墨井監督、島へスカウトにやってくる〈1〉
振り返ってみれば墨井が満島を訪れたのは唐突な出来事だった。
観光地などではないただの島にやってくるのは品物を卸しにくる人か県の役人くらいのもので、仕事以外でわざわざ足を運んでくるのはよほどの物好きといえた。
ただ、墨井の場合も彼の仕事の一環としてやってきたのではあるが。
「ごめんください」
引き戸になっている日比谷家の玄関がガラガラと音をたてながら開けられ、タケルには誰なのか思い当たらない声での挨拶が聞こえてきた。
「お客さん?」
テレビの画面から目を離してナツが訊ねてくる。
中学三年の夏休み、暇な時間を持て余した二人は日比谷家の居間で選手のデータが三年も前の野球ゲームに連日興じていた。
高校受験なんて島にひとつだけある本土の分校しか選択肢がなく、普通にやってさえいればまず落ちることはない。
リアルの野球ではタケルはナツに到底かないっこないのだが、ゲームとなれば話は別だ。今も七回を終わって6―1とリードしていた。
タケルはコントローラーを畳に置いて立ち上がる。
「ちょっと行ってくるけど、負けてるからってこの前みたいにリセット押したらダメだからね」
「あれはポテチが落ちたのを拾おうとしたせい。わざとじゃない」
不可抗力だから、とナツは言う。ちなみに彼女の嘘がタケルに見破られなかったことはこれまでただの一度もない。
やれやれ、とあきれながらタケルはきしむ板張りの廊下を通って玄関へと向かう。
そこには見覚えのない小柄な老人がハンカチで汗を拭きながら立っていた。
ハットこそ手に持っているが、背広姿はいかにも暑そうだ。第一、どこか気の抜けた炭酸のようなこの島にそんな格好はそぐわない。
「おお、誰ぞおったな。すまんけどもちいと教えてもらいたいことがあるんじゃが、かまわんか?」
にこにこと笑みを絶やさず老人が話しかけてくる。
タケルも悪い印象は持たなかったが、やはりこんな田舎の島では見知らぬ人間への警戒が先に立ってしまう。
「あの、どちらさまですか」
かか、と声をあげて笑った老人は「こりゃ失礼」とハンカチをしまうついでに懐から名刺を取りだした。
大人から名刺を受け取るなど初体験のタケルは恐る恐る手を伸ばす。
そんなタケルに老人は言った。
「君らの先輩だからもちろん知っとるじゃろうが、洲崎くんといういいピッチャーがうちにおってのう。彼から『地元の島にすごいバッターがいる』としきりに聞かされとったもんでな、気になって顔を拝みに来たのよ」
洲崎の奴めわかりにくい案内図を書きよって、そうぼやいている老人から名刺を渡された。
その小さな紙には『学校法人実郷学園高等学校硬式野球部監督 墨井克彦』と記されていた。
◇
「こんなものしかないですけど」
そう言ってタケルは大きめのコップに注いだ麦茶を、緊張気味に墨井の前に置く。
八畳ほどの日比谷家の居間には座卓を囲んで墨井とナツ、それに台所からお茶を運んできたタケルが座っていた。
普段なら真夏であっても窓を全開にして扇風機だけで凌ぐのだが、さすがに来客中の今は冷房をつけて涼しくしている。
「いやなに、この熱気なら冷えた麦茶こそが最高のもてなしよ。ありがたい」
コップの半分を一息に飲んで「うん、うまい」としみじみ感じ入った墨井が、体ごとナツへと向き直った。
「で、こっちのお嬢さんが魚塚奈月さんなんだね」
しかしナツはゲームの途中に横槍を入れられる形になったせいか、あからさまなほどに機嫌が悪い。
「あたしに何か用」
露骨に「帰れ」といわんばかりの態度に、ナツには甘いタケルもさすがに見咎めた。
「ちょっとナッちゃん、感じ悪いよ」
「いやいや、かまわんよ。その向こう気の強さ、大いによし」
あくまで墨井は好々爺然とした姿勢を崩さない。
対照的にナツはタケルに怒られたと思ったのか、ぶすっと不貞腐れて拗ねたように唇を尖らせている。
あまりに子供っぽすぎるナツの振る舞いに「洲崎くんに申し訳ないな」という思いがタケルの頭をよぎった。
時間をかけてナツの並外れた能力を受け入れてくれた洲崎は、公式戦に出場できない選手を自分のチームの監督にわざわざ推薦してくれていたのだ。
ナツの可能性が広がるならタケルとしては大歓迎だ。
相手はただの酔狂で「ちょっとばかり上手い女子選手」を観にきただけのつもりかもしれないが、これは思いがけないチャンスだった。
どうにかナツの力をこの老監督に認めさせたい。そう考えたタケルは彼女を差し置いて交渉に乗りだした。
「もしお暇でしたら、少しナッちゃんのバッティングを見ていただけませんか」
それを聞いていたナツは「え、やだよ。暑いのに」とまるで気のない様子だが、かまうものかとタケルは勝手に話を進める。
「自分たちの代のエースに連絡して、他のメンバーにも守備を──」
先走るタケルを墨井は手のひらを横に振って制止した。
「いやいや日比谷くん、それには及ばんよ」
含み笑いとともに墨井が言った。
「ピッチャーはすこぶる優秀なのを連れて来とるんでな」
◇
ナツとタケル、それに墨井の三人が満島中学のグラウンドにやってきたとき、野球部がいつも使っていたエリアに一人、遠目からでも筋肉質なのがはっきりとわかる男が立っていた。
タケルが目を凝らして誰なのかを判別するより早く、向こうから声をかけてきた。
「遅かったな。もう肩は温まってるぜ」
洲崎洋平、二年先輩だった満島出身の投手の姿がそこにあった。
しかし体つきは島の港で最後に見送ったときとはまるで別人だ。
上半身のTシャツと下半身のスパッツがそれぞれはち切れそうなほどに膨らんでいる。正月にすら帰ってくることなく実郷学園で野球に打ち込んでいる洲崎の肉体が、彼の甲子園にかける想いの強さを何よりも雄弁に物語っていた。
「うわあ、洲崎くんおかえり!」
「ごぶさた、スザキ」
もはや今の洲崎はナツに呼び捨てにされたくらいでは怒らない。タケルをはじめ、誰が何度注意しても直らずとっくにあきらめていたからだ。
「おーう、日比谷に魚塚。今年は県大会にあと一歩のところまで行ったらしいな。上出来だよ」
遠いところに行ったようなつもりになっていた彼が、満島中学の戦績を今でも気にかけてくれているのはタケルには素直に嬉しかった。
そんな洲崎が中身は変わっていないのを証明するかのように、いたずらっぽく笑いながら墨井に言う。
「だいたい遅れてきたのもどうせ監督が道に迷ってたからでしょ」
「バカモン! おまえの地図が大雑把だからじゃろうが!」
先ほどまでの年老いた紳士ぶりとはうって変わって、顔を紅潮させながら墨井は洲崎に怒鳴っている。しかしそれは不快な光景ではない。
「じゃあ、さっそくやるか」
叱責には慣れっこといった様子の洲崎が肩を回しながら口にした。
タケルにはまだピンとこず、反射的に質問してしまう。
「やるって、何をですか」
「決まってるじゃねえか、おれと魚塚の勝負だよ。うちの高校へのセレクションを兼ねてのな」
そのためにわざわざ島に帰ってきたんだぜ、と洲崎は言った。
洲崎にとっては何度目のリベンジマッチになるのだろう。今のところの最後の勝負は彼が島を出ていく直前に行われ、見事にナツが打ち砕いた。
しかしあの頃の洲崎よりは間違いなく格段に実力が上がっているはずだ。
タケルにしても早く見てみたい気持ちはあるが、ただ面子がまるで足りていない。
「守備はともかく、キャッチャーがいないじゃないですか」
「おまえがやるんだよ。できるだろ」
こともなげに洲崎は押しつけてくる。
いやいやいや、とタケルは思いっきり首を横に振って拒否の姿勢を鮮明にした。
「できませんってば。練習ともいえない遊びでやってたくらいですから」
「洲崎、彼もこう言うとるしやはりワシが受けたほうがいいじゃろ」
「監督相手じゃ全力で投げられませんよ。万が一がありそうで。この島には小さな診療所くらいしかないですから」
墨井の提案を洲崎はあっさりと退ける。
年寄り扱いするんじゃない、と墨井はがなりたてているが洲崎はどこ吹く風でタケルに言った。
「ほら、防具もミットも用意しておいたからとっとと着けろ」
グローブをはめた手でホームベースが埋めこまれているあたりを指す。
そこにはキャッチャーミット、マスク、レガース、プロテクター、スロートガード、ヘルメットが無造作に置かれていた。
タケルが近寄って確認したところ、どれも部室にあった備品だった。
職員室からOBが鍵を借りられるものなのかな、とタケルが疑問に思ったのが顔に出ていたのだろう。
洲崎が勝ち誇ったように種明かしをする。
「ここの部室の鍵をただ一人、安全ピンでこじ開けれたのは誰だと思ってるんだ」
これにはタケルも納得した。
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