第11話 九里谷中央高校戦──序盤

 断然九里谷中央有利。

 それが大方の試合展開予想だとタケルは球場で洲崎から聞かされた。これまでの両者の戦いぶりを勘案すれば妥当な評価だろう。

 もちろん、実郷学園としても九里谷中央ひいては将野隆宏に甲子園を譲る気はない。

 一塁側ダグアウト上のネットから身を乗り出さんばかりの洲崎が、大声を張りあげて後輩たちを激励している。

 かねてタケルと約束していた通り、有休を確保して応援に駆けつけてくれたのだ。


「なめた奴らに吠え面かかせてやれ。おう清水、今日は長打二本がノルマだからな、三回戦みたいにチャンスをぶっ潰しまくったらわかってんだろうなあ!」


「ひいい」


 相変わらずの困り顔が洲崎の恫喝でさらに困っている。一年前のこの二人は毎日このような寸劇を繰り広げていたのだ。


「ランナーがいなけりゃしみちゃんもそのくらいは打ってくれるかもねえ」


 清水をしみちゃんと呼ぶのは実郷学園の主戦、宮田だ。

 肩を作ってきた宮田に飲み物を渡しながらタケルは言う。


「先制点がほしいですね」


「できれば早い回に援護してくれりゃこっちもありがたいんだが、ま、今日は無理ってもんか」


 飄々とした細身のエースは、将野との先の見えない投げ合いになると腹をくくっている様子だった。


「だーいじょうだってみーやん。今日こそはうちの気まぐれプリンセスが援護射撃しまくりよ。相手が将野ならアドレナリンもどばどば出るってもんだろ」


 プロテクターやレガースといった捕手ならではの装備を身に着けた由良が心配するなとばかりに宮田の肩を抱く。

 その手を迷惑そうに払い、ダグアウトの中にいるナツを見やりながら宮田は言った。


「ウオッカのことは心配してない。あの子はしみちゃんの逆だから」


 ナツはベンチに座って黙々とボールでお手玉をしている。独特ではあるが、これがナツの集中力を高める試合前のルーティーンだった。


「おれが出て、ウオッカが返す。いつものうちのゲームをやるだけだな。そこにしみちゃんの当たりがでりゃ言うことなしだ。で、後はみーやんがのらりくらりかわす、と」


「そういうこと」


 由良と宮田は拳を重ねた。由良はタケルにも同じくグータッチを強要する。


「いつ出番があるかわからねーんだから日比谷、わかってはいるだろうが常に準備はしとけよ。全員の力で勝つぞ」


「はい。出たらみんなを差し置いてヒーローになってきます」


「ひゅう。最高の返事だな」


 ごっ、と二人は互いの拳を軽く合わせた。

 宮田が手招きでタケルを呼ぶ。


「日比谷、こっちも」


 同じように宮田ともタケルは拳をぶつけて健闘を誓う。

 三人の楽しそうな様子に、何だ何だとみんなが集まってくる。そしてダグアウト前はいつの間にかグータッチ祭りとなっていた。


「おーいウオッカ、混ざれ混ざれ」


「ほらナツ、こっち来なよ」


 由良やタケルの誘いに、渋々といった様子でナツもダグアウトから出てきた。一瞬、眩しそうに顔をしかめる。

 待ってましたとばかりに入れ替わり立ち替わり、みんながナツとグータッチを交わしていく。その光景に、タケルは震えるような喜びを感じた。

 こんなにいいチームが負けるはずがない、そう心の底から確信できた。


「今日は熊狩りとしゃれこみますか」


 親指で三塁側を指差す由良に、ナツは真顔で答えた。


「あの熊はむかつくから顔面を狙ってくる」


「おまえが言うと冗談に聞こえないんだよ。普通に長打を狙ってくれ、頼むから」


 眉を八の字にして清水が哀願したあと、手を二回打ち鳴らして今度は主将らしく毅然とした態度で全員に号令を掛けた。


「よし、いくぞ!」


 三塁側のダグアウト前にはすでに九里谷中央の二十人が一列になり、今や遅しと試合の始まりを待っている。

 実郷学園の各選手も逸る気持ちを抑えて素早く横一列に並ぶ。タケルの隣にはいつもと変わらずナツがいる。

 スカイブルーの空の向こうには、いかにも夏らしい巨大な入道雲がそびえ立つように存在を主張していた。

 三年前とは大違いだ。結果として将野の「晴れ男」ぶりが証明されたようで、タケルとしては何だか癪に障ってしまう。

 ホームベースの後ろの位置に審判団が姿を見せる。

 両チームの選手たちはまるで呼吸を合わせたかのように、同じタイミングで整列場所へと駆け出していった。


          ◇


 主将の清水がじゃんけんに敗れ、実郷学園は先攻となった。

 初回の攻防は九里谷中央・将野、実郷学園・宮田がそれぞれ無難な立ち上がりをみせて相手に先制点を許さない。

 それにしても公式試合のマウンドに立つ将野はやはり格の違いを否応なく感じさせる。練習試合のときとはまるで別人のごときオーラを放っていた。


 そして二回表、最初の注目の対決を迎える。

 四番のナツが打席に入れば、球場は相変わらずの拍手に包まれる。

 しかし心なしか、これまでの純粋にナツの打撃を見たいという願望ではなく、「がんばれ女の子」といった意味合いでの温かい拍手のようにタケルには聞こえていた。

 ベンチの左端にいる監督の墨井は仁王立ちで戦況を見つめている。タケルと同じく、今大会におけるナツの成績をもどかしく思っているはずだ。

 墨井だけではないだろう。

 実郷学園のダグアウトでは誰もがこの試合こそ本調子のナツが見られると期待しているに違いない。弾みをつけてくれる派手な一撃を、背番号7の主砲がもたらしてくれると信じて。


 だが結果は当たり損ないのファーストゴロに終わってしまう。

 二球目の内角のスライダーに手を出したナツは窮屈なフォームとなり、あっさりと将野に打ち取られた。

 がっかりした気持ちをおくびにも出さぬよう、表情に細心の注意を払いながらタケルはベンチへと戻ってきた彼女にタオルを渡す。


「崩れた」


 一言だけの感想を告げ、ナツは腰を下ろした。

 その言葉を聞いて、口を酸っぱくして墨井が力説してきた打撃の基本を、ほとんど反射的にタケルは頭の中で思い浮かべてしまう。

 自分のスイングをするために大事なのは崩されないこと。

 逆に言えば投手は打者のスイングを崩すためにありとあらゆる揺さぶりを掛けてくる。高低、内外の投げ分けに加えて緩急による時間の操作。

 よくストライクゾーンの分割が3×3だとか5×55だなどと話題になるが、二次元ではなく奥行きと速度も加えた四次元でバッテリーは勝負している。

 当然、様々な変化も織り交ぜてくる。打者はそれらのすべてに対応していかなくてはならない。


「決して自分から崩れるな。惑わされることなく振り切れ。何度でも言うぞ、自分から先に崩れるな」


 墨井の声でリフレインのように「崩れるな」というフレーズが駆け巡っている。

 タケルは必死に頭から振り払い、今日の将野に対する見解をナツに求めた。


「ボールはどうだった? 打席に立って見たのは二球だけだからはっきりしたことは言えないかもしれないけど」


 相手の調子を見抜くことにもナツは秀でていた。彼女の眼は微妙なバランスの狂いを見逃してくれない。

 はたして将野の調子をどう判断しただろうか。


「本調子じゃないはず」


 迷わずナツは断言した。


「ほんとに?」


 思いがけない返答にタケルの声のトーンもつい高くなってしまう。

 二回戦からの登場だった九里谷中央は、もたついていた実郷学園とは対照的に二試合連続の五回コールドで勝ち上がってきた。

 エース将野はそれぞれの試合に一イニングずつ調整のための登板をしたのみだ。疲れはないといっていいだろう。

 二人の会話に、近くの位置で食い入るように将野のピッチングを見つめていた由良が加わってきた。


「ウオッカもそう思うか」


 初回の先頭打者だった由良もナツと同じく、タイミングを外されて内野ゴロに打ち取られていた。


「まあ、おれが感じたのは調子が悪いってのとはちょっと違うんだが」


 清水の打席から目を離さずに由良が話を続ける。


「スタイルが変わった、て言えばいいのかね。ごりごりの本格派だったあいつが、ここまでのところコーナーに投げ分けて変化球でかわす技巧派にシフトしてやがる。二巡目三巡目で組み立てをがらっと変えてくるのか、先を見据えて省エネで押し通そうとしてるのか。そのどちらかだと考えていたが──」


 そこで由良は一度言葉を切る。視線の先にいる清水のカウントはワンボールツーストライクとすでに追いこまれていた。


「そうじゃないんだな? 力押しではこれないんだな?」


 いつでもさっぱりとした由良には珍しい、念を押すような言い方だった。

 ナツは小さく頷く。


「たぶんだけど」


 前置きしてから彼女は言った。


「足をかばってるんだと思う」


 それは実郷学園ベンチの誰もが納得のいく答えだったろう。

 タケルにしても、あの歩く傲岸不遜の塊のような男が先のことを考えてかわす投球スタイルに変えたと言われてもにわかには信じがたい。

 将野にとってそうせざるを得ない、切羽詰まった事情があるとみるのが妥当だ。


「センバツで痛めた箇所、じゃろうな」


 ここまで選手同士の会話を黙って聞いていた墨井がようやく口を開いた。

 ベンチの目が監督に向けられた瞬間、グラウンドでは鈍い金属音を発して清水が浅いセンターフライに倒れてしまった。


「おらあ、打ち上げてんじゃねえ! 強く叩け、強く!」


 洲崎の怒号が降ってくるなか、清水が肩を落として一塁側ダグアウトに戻ってくる。

 それを待って墨井監督は主将である清水も含めた全員に対して将野攻略のための作戦の修正を告げた。


「球数はどんどん放らせい。そこは変えるな。加えてバントの構えも交えて揺さぶってやれ。この炎天下、爆弾抱えてどこまでもつか、あやつの根性を見てやろうじゃないか」


 勝ちの目が出てきたな、と墨井はにやりと笑った。

 はいっ、と声の揃った返事が響く。

 監督の命令は高校野球において絶対だし、勝負事として間違ったことは言っていない。タケルはそう思う。

 だからといって心から納得できるかどうかはまた別の話だ。

 たとえ相手が横綱とはいえ、真正面からぶつかって勝ちたい。それがタケルの嘘偽りない心情だった。

 なぜならこっちにはナツがいるのだから。

 そのナツが一人だけ「理解できない」という顔をしている。


「そんな面倒なことをしなくても、打ち崩して楽にしてあげればいい」


 彼女はぬけぬけとそう言い放った。

 そんなナツに、よほど酸っぱい梅干でも食べたような渋面を作って墨井がこぼす。


「それができりゃあ苦労はせんわい」


 しかしナツも「できる。次は打てる」と譲らない。

 どこかの住職だといわれても違和感のない風貌の墨井監督は、あの一見気のよさそうな細い目で相手の底まで見透かすことのできる怖い人だ。

 ナツ以外の部員は誰もがそう認識しているだろう。

 裏を返せば、墨井ならば「ナツの能力をどこまで引きだせるか」がこの試合の重要な鍵になるのはわかっているはずだ。そのためには気まぐれにすぎる彼女のモチベーションを保ってやらなければならないことも。

 全員が二人のやり取りを見守るなか、監督の翻意に淡い期待を抱いていたタケルと墨井の目が合った。

 その突き刺すような視線は間違いなくこう言っていた。


「ここで役に立て」


 タケルにだってわかっている。このチームにおける自分の存在価値はナツの手綱を握れること、その一点にあると。

 誰にも恥じることがないほどの努力はした。どのポジションでも守れるつもりだし、どんな場面の代打だって課せられた仕事をやってのける自信もある。

 だけどタケルには飛び抜けた武器がない。

 そんな「その他大勢」の選手が、実郷学園に限らず大半を占めるのであり、言い換えればそれはいつでも代わりがいるってことだ。


 タケルはチームの一員として貢献したかった。

 そして勝って甲子園に行きたかった。

 部員の半数以上がベンチにも入れない、そう考えればセンチメンタルな綺麗事より勝負を優先させるのは義務でもあるはずだ。

 まだヘルメットを脱いでいないナツに向かってタケルは言った。


「ナツ、勝つためにここは監督の作戦に従うべきだ」


 たぶん生まれて初めて、タケルはナツの意志よりも自分の願望を優先させた。

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