第15話 九里谷中央高校戦──中盤〈2〉

 試合は十分以上もの間、中断を余儀なくされた。

 メディカルサポートとして球場に待機している医師の診断によれば、由良の怪我は右足の腓骨骨折とのことだった。

 ここで由良にとっての最後の夏は終わりを告げたも同然だ。先制点と引き換えにする代償としてはあまりに大きすぎる。


 規格外の存在であるナツの影に隠れる形となってはいるが、今年の実郷学園は由良あってのチームであることに部員の誰も異議を唱えないだろう。

 その由良抜きでこれから九里谷中央と戦っていかねばならない。

 診療室で応急手当てをすませ、チームの応援のため松葉杖姿も痛々しくベンチへと戻ってきた由良の話では「向こうのキャッチャーの膝がもろに入った」のだそうだ。

 ただ「あくまでお互いが無我夢中でプレーした結果」と言い添えるのは何とも自他ともに認める好漢の由良らしい。


 実際、九里谷中央の捕手は一塁側ダグアウトからでもわかるほど動揺を隠せていなかった。

 そんな彼の肩に腕を回し、将野が何ごとかをずっと話しかけていたのがタケルにはやけに印象に残った。

 由良が担架で運ばれた直後に実郷学園ベンチに向かって帽子をとり、深々と頭を下げたのにしてもそうだ。

 大言壮語、唯我独尊、そんな四字熟語がこよなく似合う男だった将野隆宏の姿はもはやここにない。開会式直後の強引な振る舞いが負傷を悟らせないための演技だったのかと思うほど、彼は見事なまでに九里谷中央の主将として振る舞っていた。

 片や実郷学園主将の清水はといえば、再開直後の打席でいい当たりではあったがショート正面のゴロに打ち取られた。

「勝負弱い男」のレッテルはまだ剥がれそうにない。


 ここから攻撃の切り込み隊長かつ守備の要であった由良を失った実郷学園は防戦一方の展開となる。

 急遽予期していない出番となった控えキャッチャーの北条もどうにか奮闘していたが、直後の四回裏にすぐさま追いつかれて同点とされてしまう。

 北条は地肩が強く肉体も頑強だが、タケルからみて視野はそれほど広くなくリードもやや単調になるきらいがある。タケルとしては密かに「北条は捕手より投手向きなのでは」と感じているくらいだ。

 本人がこれまでキャッチャー一筋の野球人生を歩んできているため、口にこそ出していないが。


 由良がいなくなった分の組み立ての負担は、神経をすり減らしながら九里谷中央の穴のない打線に対峙しているエース宮田にさらに重くのしかかる。

 続く五回裏には四番に座る将野のタイムリーヒットで早くも勝ち越しを許してしまった。

 むしろよく1点のビハインドで凌いでいるというべきか。

 由良の負傷退場を境に両校の地力の差が徐々に表れはじめた中盤、魚塚奈月が流れを変える起爆剤としてスタンドもベンチもひっくるめた実郷学園サイドの期待を一身に集めてしまうのも無理はなかった。


          ◇


「ボール球には手を出さず、とにかく魚塚の前にランナーとして出ろ」


 六回表の攻撃前、円陣を組んだ実郷ナインに墨井監督が授けた作戦は、大雑把にまとめると「ナツまで回せ」だ。


「ここまでいちばん厄介なツーシームはほとんど投げてきとらん。変化球に絞ってる者は高めのストレート、直球に絞っている者は低めの変化球をそれぞれ捨てて打席に立て」


 ひたすら速球を打ち込む将野対策を積んできた実郷学園だったが、打順が一回りした時点で狙い球は各人に任せる方針へと変更していた。

 春の選抜の時点ではストレートが八割を超えていた将野の投球が、この試合にかぎっては半分以上が変化球という予想外の組み立てになっていたからだ。

 これまでに収集してきたデータはもうほとんど意味をなさない。


 この回も打順は一番からだが、四回とは状況が違う。

 現在の一番打者は由良ではなく北条だ。北条はパンチ力のあるバッターではあるものの、器用さと選球眼にはやや欠ける。

 本来なら下位打線で起用したいのはやまやまだが、スターティングメンバーがほぼ固定されている実郷学園に、さらなる選手の入れ替えで打順や守備位置を微調整している余裕はなかった。

 練習試合も含めて将野とは初対戦となる北条はやはりあっさりと手玉にとられた。

 ぽんぽん、とテンポよくストライクを二つ先行され、結局ボール球につられて力のないピッチャーゴロ。

 肩を落として引きあげてきた北条にタケルは励ましの言葉をかける。


「どんまい。次は捉えられるって」


 しかし表情の硬い北条からは返事がない。

 気持ちの準備もできていないうちにいきなり大舞台に引っ張りだされた緊張が続いているのに加え、逆転された責任も背負ってしまっているようだった。

 確かにこのまま試合が終われば無責任な外野はきっと口にするはずだ。

「由良がいれば勝てたのに」と。

 攻守に優れた由良の存在が逆に北条の足枷となっているのは否定できない。

 その由良は松葉杖片手にグラウンドへ檄を飛ばし続けている。

 一年の秋から正捕手を務めていた彼にはきっと今の北条の心境はなかなか理解しづらいだろう。


 続く二番の久枝は十一球まで粘ったものの、最後はあえなくセカンドゴロに倒れた。

 それを見届けてからヘルメットをかぶり、ネクストバッターズサークルへ向かおうとするナツが抑揚のない調子で声をかけてきた。


「心配しなくても勝つよ。あたしが打つから」


 こういうことを口にする彼女は非常に珍しい。よほどタケルの顔に悲壮感が露わになっていたのだろうか。

 そもそもナツにはチームの勝利を優先させる考えがまるで根付いていない。

 いつでも彼女は勝利より勝負そのものにこだわってきた。チームを勝利に導くとしたらそれはあくまでただの副産物だ。

 だからこそナツが言った「勝つよ」の部分にタケルは違和感を覚えてしまった。

 けれどもそんな小さいささくれのような気づきに目をつむり、努めていつも通りの笑顔でタケルは彼女を送りだす。


「一人で決める必要はないからな。次こそ清水さんが美味しいところを持っていってくれるから」


 いじられ役の先輩を出汁にしたその発言に、張りつめていたダグアウトの空気が少しだけ軽くなった。

 ナツの背中を見送りながら由良が自チームのキャプテンをからかう。


「おうおう、だといいんだけどねえ。な、しみちゃん」


 相変わらずの困り顔で清水も頷いた。


「おれだってもちろんそのつもりだが、それにしてもウオッカは豪胆だなあ。あそこまで言い切れるってだけで正直羨ましいよ」


 しきりに汗を拭く清水の率直な言葉にはタケルもまったく同感だった。

 自分を鼓舞するわけでも虚勢を張るわけでもなく、ただ科学者が淡々とデータに基づく事実を述べているようなナツのセリフは、長い付き合いのタケルにとっても神託めいたものがあった。


 ナツの前にランナーを出せるか否か。その一点で重要な三番の三津浜の打席だったが、彼も久枝同様よく粘った。

 する気のないセーフティーバントの構えで将野をダッシュさせ、体力を削りながらボール先行のカウントを作り、スリーボールワンストライクからの五球目を見事センター前へと弾き返した。

 先の久枝といい今の三津浜といい、実郷学園の上位打線は明らかに将野の投球に対応しはじめている。

 墨井監督の待球作戦が功を奏しているのは間違いないだろう。

 もしかしたらここからは点の取り合いになるかもしれない、とタケルは予感した。乱戦になれば攻撃の切り札を持つ実郷学園としてはありがたい展開だ。


 そして三度、ナツがバッターボックスに立つ。

 例のナツシフトは前の打席での反省を生かし、いくぶん控えめな布陣へとマイナーチェンジされている。

 今回の将野の初球は外角への大きな緩いカーブから入ってきた。低めに外れてボールの判定。ナツは振るそぶりもなく見送った。


 うおっほ、と由良の口から上ずった声が漏れる。


「まるで動じてねえな。いったい何なのあの落ち着き。年下の女の子相手に悔しくはあるけれど、それでも勉強になるんだよな」


 野球少年そのものみたいな由良の感想に、周りの三年生たちもうんうんと相槌を打つ。そんななか、タケルはむしろ由良への敬意を強く抱いた。

 甲子園への道半ばで自分の挑戦が終わってしまったにもかかわらず、腐ることなく塞ぐことなくあくまで前を向く。

 北条が見習うべきは由良の技術よりもまずこういった心の在り方だろう。そしてそれはタケルにしても同じだ。

 墨井監督はランナーの三津浜にエンド・ランのサインを出すことなく、立ったまま腕組みをして戦況を見つめている。

 下手に動かずすべてをナツに委ねていた。


 二球目は一転して、キャッチャーがミットを構えた内角目掛けて将野らしい快速球が唸る。おそらくはこの日最速。

 しかし両足を軸に独楽のような回転をみせたナツのスイングは、春の選抜におけるウイニングショットだった将野のストレートをいとも簡単に打ち砕いた。

 高々と舞い上がった打球の放物線はまさにアーチストのそれだった。飛距離はまず問題なく、あとは切れるかどうか。


「入れ!」


 心を合わせて叫ぶ一塁側ベンチの願いは無情にも届かず、右翼ポール先端のわずか右へと打球が逸れていく。

 バッテリーの肝も冷えたであろう、特大のファウルだ。

 実郷学園サイドのほぼ全員が「あーっ」とうめき声をあげる。墨井ですら右の拳を左の手のひらに叩きつけている。

 しかしタケルだけは平然としたものだった。


「予告しておきますけど、打ち直しますよ。それがナツです」


 同様の場面なら何度も見てきた。ナツなら必ずここで打つ、そんな予感めいた確信がタケルにはあったのだ。

 特大の当たりにも動揺はないのか、それとも押し隠しているのか。

 将野は勇敢にも直球を続けた。三球目は外角低めいっぱいに決まり、これでカウントはワンボールツーストライクと追い込まれてしまう。

 そして四球目、コースは再び内角。ここで将野が投じたのは満を持してのツーシームだった。

 フロントドアと呼ばれる、インコースのボールゾーンからストライクゾーンへと入ってくる球筋に普通の打者なら腰が引けて凡打、ないしは見逃す羽目になる。

 それをナツはいとも容易く見極め、まるで待っていた絶好球であったかのようにフルスイングした。


 先ほどのリプレイを見ているみたいな弾道だった。

 異なるのは打球の方向をやや左にきっちり調整していることだけだ。

 マウンドの将野もひどくゆっくりと振り返り、打球の行方を目で追った。プロ球団の本拠地ではない地方球場にしては相当広いスタジアムのライトスタンドには、準々決勝とは思えないほどの数の観客が詰めかけていた。

 将野の視線の先でその中段にボールは吸いこまれていく。


 再び試合をひっくり返すツーランホームランに球場全体がどよめくなか、ジョッグで塁間を一周しているナツ自身は熱狂からほど遠い場所にいる。

 打って当然、そんな雰囲気を醸しだしていた。

 どうやら今日の彼女は手がつけられそうにない。

 軸足である右足の怪我を抱え、万全でない状態でこのナツと勝負しなければならない将野の不運に、タケルは心の底から同情した。

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