第17話 九里谷中央高校戦──終盤〈2〉
どうにか宮田は後続を断ってそれ以上の追加点を許さなかった。
しかし実郷学園は残り2イニングで最低でも3点を奪わなければならない。しかもあの将野から。
七回裏の九里谷中央と同じく、八回表の実郷学園の攻撃も一番バッターから始まる。墨井はここで北条の代打を審判に告げた。
守備には難があるものの、ミート力はチームでも指折りの三年生東雲を送りだす。
バッターボックスに立つ東雲、それにネクストバッターズサークルで控える久枝以外の選手たちに、墨井はいつになく穏やかな声で話しかけた。
「ワシはおまえたちの親御さんの人生くらいの長い年月を高校野球に捧げてきた。うちの女房なんかは『憑りつかれとる』なんて言いよるがのう」
この緊迫した局面で墨井は何を語るつもりなのだろう。喝を入れられたことばかりなせいで、タケルにはその意図が読めない。
「三つの学校で甲子園に出た。春にも夏にも、甲子園にはそれぞれ惹きつけられずにはおれん魅力があった。もてない男の片思いみたいなもんじゃろうが、十二年前の選抜ではベスト4まで進み、あともう少しで甲子園の女神が振り向いてくれるところだったわ」
話しながらも目線はグラウンドから片時も離さないでいる。
「その長いワシの監督生活のなかで、ずっと記憶に残るチームがどういうものか、おまえたちにはわかるか?」
墨井の唐突な問いに、由良がみんなを代表して答えた。
「やっぱり勝ち進んだチームじゃないっすか? 長く野球をやれるわけだし」
墨井の横顔はかすかに微笑んだように見えた。
「違うのう。ワシがいまだに夢にみるほど気にかけてしまうのは、甲子園に手が届きそうで敗れ去ったチームなのよ。あの素晴らしい場所に連れていってやれんかった、そんな悔恨の念がもはや体の一部となってこびりついてしもうとる」
応援の鳴り物が響くスタジアムと同じ空間とは思えないほど、扇風機の回る音まで聞こえるくらい静かな実郷学園ベンチにいる誰もが墨井の話に耳を傾けている。
「去年のチームも洲崎という好投手を擁し、周りもしっかりと奴を盛りたてる本当にいいチームだった。二年生だったそこの将野にやられてしまったが」
そう言って墨井はグラウンドへと顎をしゃくる。
あの敗戦はタケルも本当に堪えた。洲崎から「おれの肩はもうぶっ壊れる寸前だ」と告白されていたのはタケルだけだった。
誰にも言うな、と口止めされていたのだ。
もちろんタケルがまだチームの戦力になっていないから話しても試合に影響はないという判断はあっただろう。
洲崎は最後の夏に殉じる覚悟を決めていた。そこに横槍を入れられたくなかったタケルは、洲崎に言われた通り誰にも伝えず黙っていた。
その判断が正しかったのかどうか、今でもタケルにはわかりかねている。
墨井はさらに言葉を続けた。
「おまえたちも間違いなく甲子園へ行くのに値するチームじゃ。誇りと自信を持てい。そして3点とは言わん、あの将野から取れるだけの点をもぎとってこい。ワシが天に召されるとき、心残りがひとつ増えんようにな」
「ちょっと監督、何十年後の話っすか」
由良が間髪入れず突っこんだとき、グラウンドでは東雲が三つめとなるボールを選んでいた。ストライクはまだ入っていない。
ここは当然、墨井も「一球待て」のサインを東雲に送る。
東雲はヘルメットのつばに手をやり、了解の意を伝えてきた。
そして墨井はベンチの中を見回した。タケルは墨井と目が合い、その瞬間に自分が何を言われるのかを理解した。
「それから加藤に日比谷、次の回の頭からワンセットでいくぞ。肩と気持ちをきちんと作っておけ」
わかってはいてもタケルの心臓はどくんと脈打つ。思いがけないポジションでの出番がこんな胸突き八丁の場面で巡ってきたのだ。
「タケル、よかったね」
ナツが近くに寄ってきてそう声をかけたが、タケルとしては代えられる北条の気持ちを考えると手放しでは喜べない。
その北条はといえば、ベンチに戻ってきても青ざめた顔でうつむいたきり誰とも目を合わせられないでいる。
あまりの落ちこみぶりに、周りの選手たちも肩を軽く叩いてねぎらってやるくらいしかできなかった。
「北条ッ!」
そんな彼を語気鋭く墨井が呼ぶ。
おそるおそる顔を上げた北条に、墨井は先ほどとはうって変わった豪快な調子で言う。
「おまえはいったい何をそんなにしょげ返っとるんじゃ。まだ試合は終わっても壊れてもおらんし、そもそも今日おまえのよさを潰してしまった責任はこのワシにある。この非常事態になるまで由良に甘えすぎとったわ」
さすがに由良も自分への褒め言葉には絡みにくいのか、今度は神妙そうにしている。
「胸を張って前を向け、北条。本気で何かに取り組んできて挫折したことのない者など世の中にはおらんのだ。おまえはすぐにその足で立ち上がらねばならん」
気づけば両手で顔を覆い隠して北条は嗚咽していた。
墨井は笑いながら言う。
「バカモンが、何を泣いとる。その涙は甲子園出場が決まるその日までとっておけい」
傷心の北条へのフォローにタケルはほっと胸を撫で下ろした。
さすがに監督の目配りは行き届いているなあ、と感心しながら加藤と連れ立って投球練習エリアへと足早に駆けていく。
そんな中、グラウンドでは東雲が一度もバットを振ることなく四球を選んでいた。
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