第9話 七月十七日〈2〉
駅からは十五分かけて港までの道を歩いて行く。
豪雨の勢いはまるで衰えることを知らず、アスファルトにも水の層ができ始めている。タケルとナツは互いに無言のままで歩き続けた。
ナツの手はタケルの服の裾をぎゅっと握ったままだった。
ようやく港にたどり着いた頃には、二人の体はすっかり冷え切っていた。空調の効きが悪く蒸し暑い待合所の空気がむしろありがたく感じられるほどだ。
靴の中にまで雨が浸透したせいで、歩くたびにぎゅっぽぎゅっぽと音が鳴る。
タケルがふと後ろを振り返ってみると、二人が通った床には水の跡が残っていた。
「とにかくフェリーが出てるかどうか確認しよう」
それがタケルの、駅を出てから初めて口を開いた言葉だった。
ちょうどそのとき、受付カウンターから疲れた顔をした係の男性が出てきた。手には一枚の紙を持っている。男性はそのまま入口の扉に紙をテープで留め、またカウンターの中へと戻っていく。
二人は引き返し、貼られた紙を覗きこんだ。
『天候不順により満島行きの本日の残り全便は欠航とさせていただきます』
急ぎだったせいか、プリントアウトではなく太字の黒マジックでそう書かれていた。詳細は係員にお尋ねください、と小さく補足も記されている。
「どうしよう……」
数時間前には考えてもみなかった最悪な事態に、思わずタケルは泣きだしそうな声になってしまった。
「帰れなくなったの?」
ナツの問い掛けに、タケルは黙ったままで頷いた。
「どうしても?」
もう一度、首を縦に振る。
「そ。じゃあ仕方ない」
あっさりと状況を受け入れたナツがすたすたと待合室を進んでいく。そして一番奥のスチール椅子に、体を投げ出すようにして乱暴に座った。
二人分の観戦チケットやフェリー代は、タケルが貯めてきた月々の小遣いやお年玉のほとんどを使って捻出したものだ。
今からどこかホテルのようなところに宿泊する余裕なんてあるはずもない。
それに中学生だけで外泊だなんて、タケルにはとてもじゃないが想像が及ぶところではなかった。
ナツの隣の席にタケルも腰を下ろす。途端に足の疲れが重さとなって表に出てきたように感じられた。
「お腹空いた」
濡れたままの髪や体をタオルで拭きとりながら、ナツが暗に食べ物の催促をしてくる。
「ちょっと待って。……えーと、あった。お菓子なら」
リュックをひっくり返して見つけたのは溶けかけた板チョコと袋入りのプレッツェル、それといくつかのキャンディだった。
「半分こ」
「いいよ。しんどかっただろうし、ナッちゃんが食べなよ」
「同じことを二回言わせるな」
機嫌が悪いのか、膨れっ面でナツが怒る。
何も答えずにタケルは形の変わった板チョコを二つに割り、片方をナツに渡した。
二人は前を向いたまま、黙々とチョコレートをかじる。
先に食べ終わったタケルはややあってから切りだした。
「ごめんな」
「何で謝るの」
即座に冷たい響きの返事がタケルに突き刺さる。
「ねえ、何で」
そう厳しく問い質されると、タケルは答えに詰まってしまった。
この日の野球観戦ツアーを企画したのはタケルだ。
鈴鹿というアンタッチャブルな投手をこの目で見ることはできたが、「伝説」の目撃者になれた幸運と引き替えだったのか、ナツをとんでもない大雨にさらしてしまった。あげく、家に帰ることもできない。
こんな状況になったのも、ナツに野球を辞めてほしくないという自分の身勝手さのせいではないのか。
帰り道からぼんやりと抱いていたそんな思いを、しどろもどろになりながらタケルは懸命に伝えた。
それを聞いてナツが発したのは、タケルが今までに聞いたことのないくらい低く、静かな声だった。
「あたしがいつ楽しくなかったなんて口にした」
鋭い視線にタケルは射抜かれる。
「さっさと答えろこのバカ!」
ナツが叫ぶやいなや、小学校の頃からずっと使っている手提げバッグをタケルの顔面にヒットさせた。
幸い当たったのは角ではなかったが、それでも至近距離からの一撃に思わずタケルは手で顔を覆ってしまう。
「あ……」
か細い声がナツの口から漏れた。
ナツは何も悪くない、そう言いたくてタケルは痛みを堪えながら左手を上げた。大丈夫だというジェスチャーのつもりだった。
タケルがそろそろと目を開けると、缶ビールを持った男が近づいてくるのが視界に入る。見た感じ、父親よりも年嵩だろうか。
男は二人の側までやってきて立ち止まった。
「姉弟喧嘩はいかんぞ、喧嘩は。お姉ちゃんならもっと弟に優しくしてあげなきゃ。こんなときだからこそ助けあって頑張るんだぞう」
朗らかな調子で二人にそう語りかけてきた。そして手に持ったビールをぐいっと飲み干す。よく見れば顔がほんのり赤い。
男の間違いを訂正することなく、タケルは神妙に頭を下げた。
「お騒がせしてすいません」
「いやいや、仲直りしてくれればおれはそれで満足だから」
ひらひらと手を振りながら、男は足取り軽く自分の席へと戻っていく。
隣のナツにタケルは小声でささやいた。
「お姉ちゃんだって」
タケルとしてはちょっとした意趣返しのつもりだった。
図らずも闖入者のような男の存在が、軋んだ空気を緩やかなものへと変えるチャンスをくれたのだ。
早くいつもの二人に戻りたかった。
だからこそ、あえてナツが気にしていることをからかって何もかもうやむやにしたかった。
「そんなにでかいか」
ナツも憮然とはしているが、先ほどまでの刺々しさはもうない。
「これからお姉ちゃんって呼んであげてもいいけど」
「そしたらこれだから」
そう口にして彼女はタケルの手を軽くつねる。全然痛くないように。
そのうちにつねっていたはずの指が開かれ、手の平はそのままタケルの手の上に重ねられた。
冷たかったお互いの手に、じんわりと温もりが広がっていく。
ナツはタケルに顔を向けることなく、言った。
「お願いだから、あたしに気を遣いすぎないで。遠くに離れていかれると寂しくて死にたくなるから」
◇
『……強風の……波の高さ……危険……ご迷惑を……』
もう何度目になるのかわからない館内アナウンスが流れていた。
浅い眠りから目を覚ましたタケルは、横で眠るナツを起こさないよう静かに腕時計の時間を確認する。
午前0時12分。周りの航行再開を待っている人たちもほとんどが規則的な寝息を立てていた。
館内は照明を抑えており、かなり薄暗い。
外からはまだ雨の音が聞こえてくるが、朝には天気が回復傾向になるだろうとの予報が出されており、うまくいけば昼頃に島へと帰れそうだった。
タケルは体を起こし、ナツの寝顔を見つめる。
日頃は怪物ぶりをこれでもかと見せつける少女も、寝顔は幼いといっていいほどあどけない。
どうして今まで気づけなかったのだろうか。
野球をやっているときの躍動しているナツは美しい。だが、そうでないときのナツも何も変わらず美しかったのだ。
初めて彼女が打ったホームランに心を奪われたのは「憧れ」のせいだ、ずっとタケルはそう信じていた。
自分よりも圧倒的に優れた者に対する見上げるような憧れ。
だからこそナツとともにずっと野球を続けてきた。
天才のおまけのような扱いを受けることも、「コバンザメ野郎」といった陰口をたたかれることもまったく気にはならなかった。
ナツが誰も届かないスピードで駆け抜けていった道を、必死で追いすがるのが自分の役目だと信じて疑わなかった。
今でもその気持ちに変わりはない。
どこまでもナツについていく覚悟はとうに決まっている。ただし、その気持ちの根っこにあるものを見誤っていたのは認めなければならないだろう。
単純な話だ。タケルが支配された感情は「憧れ」ではなく「恋」。
タケルにとってのナツは神様のごとき天才少女ではなく、幼い頃から一緒の時間を過ごしてきた可愛い女の子なのだ。
世界の誰とも比べることはできないほどに。
これまで聞いたこともない弱々しい声で「遠くへ行くな」と言われるまでもなかった。ナツから離れて自分がどこかへいけるはずもない。
傍らで寝息を立てる少女が、美しい夢の中にいることをタケルは願った。
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