第8話 七月十七日〈1〉
タケルにとって、七月十七日という日付にはどうしようもなく思い入れがある。
生まれて初めてプロ野球の試合を目の前で観戦したのが、三年前のちょうど同じ日だったのだ。しかもナツと二人きりで。
いわゆる天才少女であるところのナツは、ずっとひたむきに野球と向かいあってきたわけではなかった。むしろ何度も野球に対する興味を失いかけていた。
タケルが記憶しているかぎりでは、最もやる気をなくしていたのが三年前、二人が中学二年だった夏だ。
洲崎との初対戦以来、ナツにとっては野球=ホームランだったらしく、どれだけタケルや小学校当時の監督だった村上に諫められてもそのスタイルを改めようとはしなかった。
三振かホームランか。恵まれた体格もあって、一昔前のプロ野球における助っ人外国人のような雰囲気を彼女はバッターボックスで放っていた。
島唯一の中学である満島中学に進学しても、ナツの信条は変わらなかった。
変わったのは格段に確実性を増したことだ。その結果として、彼女は徐々に勝負を避けられるようになっていく。
相手チームにしてみれば当然の策だったのかもしれない。
もはやナツはそこらの中学生レベルで抑えられるような打者ではなくなっていた。まともに勝負すれば痛打されるのは目に見えている。
加えて異色の女子野球部員だというのもあっただろう。女子に打たれるのは恥ずかしい、そんなあさってな方向のプライドを優先して彼女との勝負を避ける。
試合を重ねるたび、逆にナツの気持ちが冷めていくのがタケルにはわかった。
敬遠球をわざと空振りしたり、勝負してもらえる打席でも、無気力なスイングで見所のない凡打に終わることが次第に増えていった。
「やる気が感じられないぞ」と憤った顧問にスタメンを外されたのも一回や二回ではなかった。
「このままナッちゃんは野球を辞めてしまうのか」
そう考えるとタケルはやるせなくて胸がきりきりと痛くなった。ナツの完璧なホームランが見られなくなるなんてあってはならないことだったのだ。
だからタケルは思い切ってナツを野球観戦に誘った。
「百年に一人の逸材」と巷で騒がれていたルーキー、鈴鹿静次郎が彼女にはるか上の世界を見せてくれると信じて。
朝一番のフェリーに揺られて島から本土へと渡り、港からは鉄道を使ってデーゲームが行われる球場へとたどり着く。
天気予報では曇りから次第に雨となっていた。
確かに空には一面に灰色の雲が広がっているものの、試合自体は予定通り開催されるとわかって心底ほっとした。
タケルはテレビでよくプロ野球中継を観戦していたが、初めて足を踏み入れたプロ球団の本拠地であるスタジアムは想像していたよりも大きく、また美しかった。
二人が座るのは一塁側、内野の自由席だ。
「ふーん。けっこう広いね」
冷静を装ったコメントをしながらも、物珍しそうに辺りをきょろきょろと見回しているナツの姿が何だか微笑ましかったのを、タケルは高校生になった今でもよく覚えている。
首位を走るサーティーシクサーズ、愛称シクサーズ対レッズ。レッズの先発がお目当ての左腕、鈴鹿だ。
試合は拍子抜けするほど静かな展開で始まった。
140キロそこそこだがキレのあるストレートと、タイミングを有効に外すチェンジアップ。それに時折投げる落差の大きいフォークボール。おまけにコントロールも抜群ときている。
そんな鈴鹿の前に強打のシクサーズ打線は沈黙を続けていた。
確かに鈴鹿はすごい。だが一方で何か物足りなさを感じたのも事実だった。横で観ているナツも同様なのか、何度も眠そうに欠伸をしていた。
空気が一変したのは四回表のことだ。
二死からエラーで初めての走者が出る。打席に入るシクサーズの四番は前年の二冠王であると同時に、MVPも獲得した球界を代表する強打者だ。
跳ねるようなフォームでサウスポー鈴鹿が初球を投じる。先ほどまでとはまるで異次元の、恐ろしく速い直球に球場がどよめいた。バックスクリーンに表示された「167キロ」の数字に、球場は再び大きくどよめく。
二球目も鈴鹿はストレートを続けた。今度は168キロ。打者も手が出せない。
気づけば隣のナツは立ち上がっていた。
「あの人、すごい」
うわごとのようにそう呟いて。
周りの観客たちも続々と立ち始めた。もちろんタケルもそれに倣う。
鈴鹿がマウンド上で間を置く。レフトスタンドからの応援の鳴り物が少しずつ小さくなり、やがて完全に消えてしまった。
不思議なほどの静けさだった。
現実感のない、どこか別の世界にいつの間にかまぎれ込んだような錯覚をタケルは味わっていた。
分厚い雲の切れ間からグラウンドに一条の光が差す。
ランナーがいるのも気にせず、鈴鹿は振りかぶる。
そうして彼の左腕から投げられたボールは何にも邪魔されることなくキャッチャーミットに飛び込んでいった。ストライク・バッター・アウトのコールが響く。
169キロの浮き上がるようなストレート。とんでもないものを見てしまった、それが真っ先に浮かんだタケルの感想だった。
審判のコールからややあって、スタジアムじゅうに万雷の歓声と拍手とが轟いた。そっと横を窺えば、呆けた表情でナツが静かに立ち尽くしている。
逸話に事欠かない鈴鹿のファーストシーズンのなかでも、「伝説」と呼ばれる一瞬だった。
後に鈴鹿は渦中の人となる。
だが、この瞬間に立ち会った観客は彼を非難できるのだろうか。
少なくともタケルはそんな気にはなれなかった。とてもじゃないがもらったものが大きすぎた。
その後の試合展開はおまけのようなものだ。
随所にプロらしいハイレベルなプレーが披露されたが、どうにも鈴鹿のインパクトが消えなかった。
四回以降は当の鈴鹿も省エネ投球に徹し、七回までを被安打2に抑えてみせた。
レッズの3点リードで迎えた七回裏、ここまで持ちこたえていた天候がとうとう崩れてしまう。最初のうちは小雨だったのがあっという間に本降りとなり、試合は中断を余儀なくされた。
タケルは用意よく折りたたみの傘を持ってきていたが、やはりというかナツにはそういう気配りはない。
「何で雨?」と文句を言うばかりだ。
仕方がないので二人で身を寄せ、小さな折りたたみ傘を共有する。できるだけナツが濡れないような姿勢のままで二十分、再開を待ち続けた。
結局、3-0のままで試合は雨天コールドゲームと宣告されてしまい、鈴鹿が八回表のマウンドに登ることはなかった。
最後まで鈴鹿を見ていたかったタケルもナツも納得はいかなかったが、天気には勝てない。帰路につくべく名残惜しげに腰を上げた。
降り止む気配はまるでなく、雨脚はどんどん激しさを増す一方だった。
コンクリートの通路に叩きつけるような雨粒が機銃掃射のごとく落ちてきている。
「おい、このへん一帯警報が出たってよ」
「マジで? 新幹線止まったりしてねえだろうな」
そんな会話を怒鳴るような大声で交わしている青年たちがいた。普通のボリュームだと雨音にかき消されてしまうのだろう。
急ぎ足な人の流れに従って二人は外に出た。
雨のせいで視界が白くぼやけており、何もかもがはっきりとは見えない。昼でも夜でもない、灰色に塗り潰された時間だ。
折りたたみ傘はもはや役に立たなかった。
汗でべたついていた体が服ごとシャワーを浴びたかのようにずぶ濡れとなり、髪も顔に貼りついてしまっている。
「タケル、変な顔」
お相子だよ、とタケルは言いたかったが、濡れたナツはむしろ普段より可愛く見えたのでそのまま黙っていた。
豪雨のせいで来た道がわからず、たくさんの人が歩く方向についていくことで二人は何とか駅に着くことができた。
どうやら電車は運行しているようだった。そのことにタケルは安心する。
しかし本当の問題は船が動いているかどうかだろう。港に着くまではまだ油断できない。
ホームには人が溢れかえっており、最初にやってきた電車には乗り込めなかった。
人混みにあまり慣れていないタケルは少し気分が悪くなってしまった。ナツも同様だったらしく、スタジアムにいたときに比べると顔色があまりよくない。
次の電車にどうにか乗ることができたが、車内は年も性別も背格好も違う様々な濡れた人たちで何かの罰ゲームのように詰まっていた。
タケルのTシャツの裾をナツがぎゅっとつかむ。
一刻も早くナツとこの電車から降りたい。
そのことだけをタケルは考え続けていた。
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