二章 夜叉の姫④
「ここだ」
案内されたのは、木の幹に空いた大きな空洞だった。
中に入れば、むわっとするような熱を孕んだ空気で満たされており、明彩は息苦しさに一瞬顔をしかめる。
「すまない。温度を下げると、父が嫌がるのだ。少し息苦しいが、耐えてくれ」
「はい」
空洞の中には峡よりも一回り小柄な烏天狗たちが何人も控えていていた。彼らは突然現れた明彩に訝しげな視線を向けているが、声をかけてくる気配はない。
空洞の奥に、天井から何重にも白い布が吊されて隠されている場所があった。湯気が立つほどの湿気につつまれており、息苦しさもひとしおだ。
「父上。具合はどうですか」
「峡、か。よくはない……儂はもう長くないのだ。そう、気にするな」
苦しげな声が布の奥から聞こえた。大きなものが身じろぎする気配に明彩は息を呑む。
「そのようなことを言わないでください。我が一族にはまだ父上が必要です! 聞いてください、姫を見つけたのです。これで父上の病は治るはずです」
「なんと……!」
布の奥の存在だけではなく、こちらを遠巻きに見ていた烏天狗たちも一斉に色めき立った。期待のこもった視線を向けられ、明彩は身体を小さくさせる。
「姫がいるのか。一体どこで見つけてきた」
その問いかけに、峡は一瞬だけ狼狽えたような表情を見せたが、意を決したように拳を握りしめる。
「……夜叉の元におりました」
「なんだと! 峡、お前なんということを!」
ぐわんと世界が揺れるほどの大声が空洞を揺らす。
「恐れ多くも、あの夜叉の、涼牙殿のものを奪ったのか!」
「奪ってなどおりませぬ。ただ、少し借りただけで……」
「涼牙殿はお許しになったのか」
「……」
無理にさらってきた自覚はあるのか、峡は黙り込んでしまう。
「馬鹿者! 今すぐお返ししろ! お前は、我が一族を滅ぼす気か!」
布が揺れ、中から巨大な烏天狗が現れた。黒いはずの羽には白いものが混じり、嘴は干からびてひび割れている。よろよろと這い出てくる姿から、本当に弱り切っていることがわかる。
明彩は状況も忘れて目を見張り、そちらに駆け寄った。
「大変!」
巨体を支えるように手を伸ばせば、見た目に反するほどの軽さに驚きが重なる。
──こんなに弱って。
「大丈夫ですか? 急に動いてはいけませんよ」
「あなたが、涼牙殿の……」
「明彩、と申します。ええと、峡のお父様ですよね?」
「ええ……儂はこの烏天狗を治める丈響でございます。息子が、とんでもないことを」
「気にしないでください。峡から話は聞きました。どうか、私にあなたを治療させてください」
「しかし、そのようなことをさせては涼牙殿に申し訳が立たぬ」
「涼牙様を知っているのですか?」
正直意外だった。明彩の知る限り、涼牙は滅多に屋敷から出ず、庇護や癒やしを求めて訪ねてくる怪異以外とは交流を持っているように思えない。
「互いに近い土地を治める者同士、何度か。彼にはいろいろと世話になりました」
「そうなのですね……」
丈響の言葉に、涼牙への悪意や敵意はなかった。むしろ、懐かしい友人を語るような気安さがあり、心地いい。
「だったらなおさらです。涼牙様のお知り合いならば、治療しないわけにはいきません」
優しい涼牙のことだ。丈響の状況を知れば、明彩に治療を依頼してくるに決まっている。少し順番が違っただけで、いずれはここに来ていたような気がしていた。
「父上、どうかお願いします。お叱りはあとでいくらでも受けますから……!」
峡はその場に膝を突き、地面に思い切り頭を下げる。ごんごんと床を打つ音に、明彩は苦笑いを浮かべるしかない。玄までも一緒になって峡に呆れの混じった視線を向けている。
「峡の額が割れる前に、どうか」
「……すまぬ、夜叉の姫よ」
丈響は頭を打ち付け続ける息子に残念そうな視線を向けながら、明彩に頭を下げたのだった。
先ほど布で隠されていたのは寝所だったらしく、峡と一緒になって丈響の軽い身体を運び込む。周囲ではたくさんのお湯が沸かされ蒸気で気温と湿度を保っているのがわかった。じっとしていると、自然と額に汗がにじんでくるような蒸し暑さだが、丈響の身体には必要なのだろう。干からびた嘴をそっと撫でながら明彩はその身体を探る。
──とても弱っている。
涼牙の屋敷でいろいろな怪異を癒やしたことで、明彩は触れるだけで怪異の力がどれほど弱っているかがわかるようになっていたのだ。
「いつからこの状態なのですか?」
「……実は……」
横たわった丈響に目線を向けながら、峡が気まずそうに口を開く。
「父上はこの土地を統べる長として、毎日のように見回りをしていた。あるとき、あちら側への裂け目が開いているのを見つけたのだ」
「あちら側……?」
「こちらとは違う理の世界だ。普段は繋がることはないが、希に何らかの偶然で歪みが生まれて入り口が開いてしまう」
「まあ……」
つまりは、明彩たちの世界への門なのだろう。
「あちら側への移動は、弱い怪異へはかなりの負担になる。正気を失うものもいれば、姿を変化させて二度と戻れなくなるものもいる。俺たちの仲間も何人も行ったきりになってしまった」
峡から告げられた事実に明彩は驚きを隠せなかった。
西須央をはじめとする退魔の一族からしてみれば、怪異とは望んで人の世に現れ悪さをするものがほとんどだと思われているからだ。もし、それらの原因が歪みを経たことによる変化ならば。
──退魔師たちのしていることは一体何なの?
これまでずっと教えられてきた常識がぐらぐらと音を立てて崩れていくような気がした。
──涼牙様はそんなこと一言も言わなかった。玄だって。
ずっと傍で明彩を守るように身構えている玄に視線を落とす。あちら側では、玄は弱々しい獣でしかなかったが、こちらに来た途端に今の姿になったことを思い出す。
「父上は歪みを見つけ、それを閉じようとしたのです。ちょうど、一族にたくさんの幼子が生まれた時期でもありました。大人ならまだしも、子が歪みに巻き込まれれば間違いなく命を落とします」
そのときのことを思い出したのか、峡の表情が苦しげに歪む。
「難しいが、父上にはできぬことではなかった。なのに……」
引き結ばれた嘴がギリギリと音を立てる。
「我らと敵対する、獣の怪異がそれをわざと邪魔したのです。やつらは我が一族の子どもを歪みに投げ込もうとした」
「そんな……」
「父はそれを庇い歪みに触れてしまいました。そして力の大半を吸い取られたのです。そのうえ、獣たちが襲いかかってきて。追い払うことはできましたが、この有り様です」
くぐもった泣き声が空洞に響く。見れば周りの烏天狗たちが悔しそうに涙をこぼしていた。よく見れば、小さな怪我をしている者たちがたくさんいる。
「あの人たちの怪我も、そのときに?」
「はい。不運にも俺は別の仕事があり一緒にいなかったのです。もし父上の傍にいれば、決して後れを取らなかったのに」
峡の瞳からぼろぼろと涙がこぼれる。父を、仲間を守れなかったことがよほど悔しかったのだろう。
それほどまでに人を思える強さと優しさに、明彩の胸が一杯になる。
「夜叉の姫よ、父上を治せるか……?」
不安そうに瞳を揺らす峡に明彩は力強く頷く。
「やってみます」
浅く上下する丈響の胸に手を当てる。肉のそげた薄い感触が痛々しい。
──大丈夫。きっとできる。
深呼吸をしながら、手のひらに意識を集中させる。
明彩の身体に宿る治癒の力が、そこに集まり淡い光を放ちながら丈響の身体へと流れ込んでいく。
──すごい、力が根こそぎ奪われていくわ。
丈響の傷があまりに酷いせいで、力の供給が追いつかないのがわかる。衝撃で身体が震え、呼吸が乱れる。それでも明彩は手を離さなかった。
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