一章 退魔師一族の汚点⑦
すでに十分な実力を持つ壱於は滅多に道場には行かないが、この毛玉の存在を知っている可能性はある。
あそこに囚われている弱い怪異は、討伐に出た先で戯れに囚われてくるものがほとんどだ。壱於が、見つけてきたものである可能性だってある。
「ふうん」
楽しげな声を上げ、壱於が口の端を吊り上げる。
「ちょうどいい、肩ならしだ」
「壱於さん?」
「騒ぎを起こせば怪異が寄ってくるかもしれないだろう」
壱於は懐から長い数珠を取り出すと、それを拳に巻き付けた。じわりと周囲の温度が上がり、壱於の身体がわずかに発光する。
「いけません。無害な怪異を傷つけることは禁じられています」
佐久間がすかさず、壱於の腕を掴んだ。西須央で育っていない佐久間にとって、無害な怪異を攻撃するというのは理解できない所業なのだろう。だが、壱於は違う。
「そんなの、この西須央では通用しない」
「壱於さん!」
「怪異は怪異だ。潰したところで何の問題がある!」
掴まれた腕を力尽くで振り払うと、壱於は佐久間の身体を突き飛ばした。まさか壱於がそんなことをするとは思っていなかったのだろう。佐久間はバランスを崩して後方へよろけるように下がった。
その隙に壱於は拳を思い切り振り上げる。
攻撃されそうになったことを悟った毛玉は、その場で大きく跳ねて逃げ出そうとした。
「逃げるな!」
淡く光った壱於の拳が毛玉を追いかける。それが空中をかすめる度に、何かが焦げるような臭いがあたりに充満する。今の壱於の拳は空気を焼くほどの熱を持っているのだ。対象が怪異であれ無機物であれ、望むがままに焼き尽くせる力。
「そらぁ!」
拳が毛玉をかすめた。肉を焼く音と共にこれまで何度も嗅いだ怪異たちの血の臭いが届く。
「駄目よ壱於。そんなことしたら!」
気がついたときには身体が動いていた。毛玉を庇うように腕を伸ばす。
「邪魔するな!」
「きゃあ!」
だが壱於はそれを許さなかった。数珠が巻かれていない方の腕で、したたかに頬を殴られた明彩は、そのまま地面へと倒れ込んだ。
「明彩さん!」
遠くで佐久間の声が聞こえた。じんと痛む身体と、殴られた衝撃で身動きができない。
ゆるゆると顔を上げれば、表情をなくした壱於が静かに明彩を見下ろしていた。心まで凍らせるような冷たい目に、心臓がきゅうっと音を立てる。
「……姉さんは、そこで黙って見てろ!」
「壱於!」
──駄目。その子が何をしたって言うの。
ようやく逃がしてあげられたのに。無力な自分が情けなくて涙がにじむ。
佐久間はもう諦めたのか、冷めた目で壱於の行いを見ていた。止める気は、もうないらしい。
「雑魚が」
獲物をいたぶる獣のような残酷さをにじませ、壱於が追い詰めた毛玉に拳を振り上げる。
「駄目、やめて! 誰か助けて!」
見たくなかった。無力な怪異が傷つけられる姿を。壱於が残虐な行いをするのを。
「何をしている」
「っ……!」
ずん、とその場の空気が突然重くなる。酸素が薄くなったような感覚と共に、明彩は視界が揺らぐのを感じた。
「なん、だ……?」
振り上げていた拳を降ろし、壱於が周囲を見回す。佐久間もまた、異変を察知して身構えていた。
がさりと落ち葉が踏み潰される音が聞こえ、全員が一斉に音がした方へと視線を向ける。
誰かが息を呑む音だけがその場に響いた。
「何をしている、と聞いている」
そこには鬼がいた。
見た目は、壱於よりも一回りほど年上の人間の男性にしか見えない。
だが、艶やかな黒髪から覗く一対の長い角が、彼がこの世のものではないことを伝えてくる。息を呑むほどに整った顔立ちに目が奪われる。着物に似た濃紺の服をまとう体躯はしなやかなのに、圧倒的な存在感があった。
一瞬、明彩の頭をかすめたのはかつて出会った少年の鬼だ。涼しげな目元が似ているような気がしてならない。
──もしかして、あの子? いいえ、違う。だって。
あの少年の瞳は金色だった。しかし、今目の前にいる鬼の目は夜空のような色をしている。
「な、何故こんなところに鬼が!」
一番に声を上げたのは佐久間だった。経験の差なのだろう。明彩と壱於を庇うように立ちはだかり、鬼と対峙しようとしていた。
「質問しているのはこちらだ。お前たち、何故俺の眷属を害そうとしたのだ」
「眷属、だと」
「『それ』だ」
鬼が指さしたのは、壱於の足元で震えている毛玉だ。
毛玉は鬼の登場に気がついたらしく、ぴょんとその場で跳ねてからするすると鬼の方へと逃げていく。
「これは存在しているだけの無害なものだ。貴様ら退魔師は、いつからこのような行いをするようになった」
「ぐ……」
空気の濃度が増すのがわかる。佐久間や壱於は立っているのがようやくのように身体を前傾させ、苦しそうな声を上げていた。
不思議と、明彩だけは立てている。鬼にとって明彩は取るに足らない存在だと判断されたのだろうか。
「このような愚かな行いをするとは、見下げたものだ」
冷たい視線に晒され、明彩は立ちすくむ。鬼の怒りはもっともだろう。あの毛玉はそこに存在していただけで人に危害など加えていない。今しがたのことだけではない、西須央の道場に囚われていた日々を鬼が知ったならば。
──きっと、私たちは無事では済まない。
かつて出会った子どもの鬼ならまだしも、こんなに大きな大人の鬼を佐久間とまだ正式な退魔師ではない壱於でどうにかできるとは思えない。
明彩に至っては何の役にも立てないのは明白だ。できて囮か攻撃の盾になるのが精一杯だろう。
「壱於さん、明彩さん、逃げてください。ここは私が……」
苦しげに呻きながらも、佐久間が明彩たちを庇うように腕を広げる。
「ふざけるなよ。これは僕の獲物だ」
「壱於さん!?」
守られることが気に食わなかったのか、壱於が大声を上げながら前へと進み出る。歩くだけでも精一杯な動きなのに、その表情に鬼気迫るものがあった。一体何が壱於をそこまでさせるのか、明彩にはわからない。
「鬼を倒したとなれば、箔が付く。覚悟しろ!」
「無茶ですよ!」
佐久間が慌てて止めようとするが、壱於は聞く耳を持たない。それどころか、制止しようと近づいた佐久間を殴りつけた。
まさか壱於から殴られると思っていなかった佐久間は、その場に倒れ込んでしまう。鬼からのプレッシャーに耐えてきたこともあり、身体がもたなかったのかもしれない。
「佐久間さん!」
駆け寄りたかったが、恐怖ですくんだ身体がうまく動かない。
壱於は佐久間を見下ろして舌打ちすると、すぐさま鬼に向かって身構え、数珠を巻き付けた腕を振り上げ、拳を発光させる。止める間もなく地面を蹴って鬼へと駆け出していた。
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